ぬくもり
ずいぶん昔に友人から聞いた実体験を自分の実体験と絡め、クリスマス風にアレンジしたものです。
実際友人から聞いた話は笑えないオチがありましたが、その要素は全部省き、ほっこりとした雰囲気で包みました。
さすがに12月も終わりになれば、日中でも吐く息が白くなる。天気予報では今夜は雪が降るそうだ。
私はコートの襟を立て、少しでも寒さから逃れようとしてみた。自然と丸くなった背中にひしひしと冷気が突き刺さる。唯一の防寒着である古びた薄いコートは、洗っても落ちなくなった汚れにまみれ、角は擦り切れ、もう何年着ているのかなど、数える事すら止めてしまった。
午後3時を過ぎた時間だが、すでに風は冷たくなってきた。ここから日が沈むのが早くなる。日没後は一気に寒くなるから、出来る限り早く家につきたいものだ。こんな日に限って休日出勤しなければならなくなるというのは、生来の運の悪さによるものだろう。それでも平日よりは早く帰れるのだから、まだましな方だ。
今日は12月23日。世間一般では、1年最後の祝日であり、クリスマスイブの前日というわけで、祭りの前夜のような何かを期待している浮ついた雰囲気が漂っていた。きらびやかな装飾、眩しい明かり。賑やかな音楽。何よりも行き交う人々の表情が明るい。
そんな中で、肩を竦め、やや早足で通り過ぎようとする私は、この場にふさわしくない、うらぶれた中年男がただ目的地に向かって急いでいる。そう見えるだろう。
いや、誰も私の姿は目に映らない。人は自分が望まないものは視界に入れようとはしない。それは正邪問うものでは無く、そういうものなのだ。私とて、クリスマスに目を輝かせている周囲の人々は、おぼろな影としか見えない。
いつものように、車と人が行き交う広い道から脇道に入る。昼間だというのに、けばけばしいほどの光の洪水は無くなり、途端にひっそりとした印象が強くなる。それでも、所々の家には子供が喜びそうな装飾が目立つ。今はまだましだが、夜になればそれが点滅して、さぞかし目立つのだろう。
周囲はまだ明るいというのに、道を歩く人の姿は無い。ただ見えるのは、自分の身長よりも高い塀が長々と続く家々のみだ。この閑静な高級住宅街の一角を抜けた先に、自分の住むアパートがある。この周辺の家々に比べればウサギ小屋以下だが、それでも、凍えた足を温める炬燵と、疲れた体を投げ出す事の出来る薄く硬い布団がある。
見慣れた角を曲がった直後で立ち止まると、首元のマフラーを持ち上げ、鼻から下を覆うようにして巻き直す。あまりの寒さに、自分の息で少しでも暖かくなりたいという苦肉の策だった。
柔らかなこの手触りのマフラーは気に入っている。今どき流行らない手編みのものだが、これに触れていると、どこか心がほっとする。
無意識にそれに触れていた指先が、何か固いものに触れる。視線を落とすと、端の所にタグが縫い付けられていた。タグには刺繍にてアルファベットで私の苗字が入っている。私の為だけのマフラー。
そこで疑問が湧いた。マフラー…なぜ、私はこのようなものを身に着けているのだろう。私にはこのようなものを作ってくれた人がいたのだろうか。
私より若干若い女性が何かを言って、これを差し出した光景が脳裏に浮かぶ。口が動いているのははっきりと思い出せるのに、なぜか声も顔も思い出せない。でもそれが誰なのかは、何となく解る。
恐らく自分の妻だろう。私は結婚していた…筈だ。では、なぜ妻の顔が思い出せないのか? もう何年も会っていないような感覚になる。
三叉路を渡っている時、不意に横から車が飛び出した。驚き、一歩下がった時、ずきりと頭が痛んだ。その痛みの強さに思わず顔に手を当て、立ち止まった。
人を轢きかけたにも関わらず、車は何も気付かなかったかのように走り去ってゆく。そちらに向かって何か言おうとしたが、どうせ相手の車には聞こえないだろう。怒りと諦めを飲み込み、手を下ろした時、鞄と紙袋が何かにぶつかり、がさりと音を立てた。
「?」
何も無い筈なのに、ぶつかった事に不審を覚え、視線を落してみると、まず目に入ったのは大きな赤い帽子だった。クリスマスだからなのか、赤い毛糸で編まれた帽子の中央に、同じく毛糸で作った白い丸い物がついている。
「ごめんなさい」
小さな声。自分の腰程の高さにある帽子がそう言った。それが動き、女の子が自分を見上げるようにしている。年は5、6歳ぐらいか。
幼い女の子にありがちの幼い顔立ち、大きな目、白い肌。可愛らしいがごく普通の少女。少し鼻の先が赤いのは寒さによるものか。どこか、記憶にあるような気もするが、このような年の子は知り合いにはいない。
ケガをしていない事を目視で確認すると、無言のまま離れようとした。これ以上関わりたくは無かった。子供が苦手というよりも、慣れていないのだ。それに昨今のこのご時世だ。自分の子供の傍にいた。それだけの理由で、見知らぬ他人を犯罪者扱いする親は多い。
その時、不意にコートが引っ張られた。振り向くと、少女がコートの裾を掴んでいる。
「…」
無言のまま、見下ろす私に怯えたのか、少女はますますコートの裾を引っ張る。言わねば解らないのか。ポケットに入れていた手を出してマフラーをずらすと、寒さに顔を顰めながら呟いた。
「離してくれ」
言葉が解らないのか、ますます少女はコートの裾を握り締め、何かを言おうと必死の顔を作る。
「あ、あ…」
「何が言いたい?」
「これ…」
少し震える声で、少女は小さな紙を差し出した。握りしめていたのか、くしゃくしゃだ。話せないのか。いや、最初にごめんなさいという少女の声は確かに聞いた。
「?」
その紙を受け取り開いてみると、殴り書きしたような日付と時間が見えた。今日の日付。時間は午後3時。若干過ぎてはいるだろうが、ほぼ今の時間だ。そして、名前。ひらがなで《さくや》と書かれていた。
「ケーキ…」
「は?」
「さくやの…なくなっちゃう」
そこで、もう一度その紙を見て、やっと理解した。知らないカタカナの名前の横に書いてあるのは、1と2000という数字。
どうやら、クリスマスケーキの予約の引渡し券のようだ。この少女はそれを受け取りに行く途中なのだろう。そして、店にたどり着けずに付近を彷徨い、やっと出会った私に救いを求めているというわけだ。
「ここに書いてある店に行きたいのか?」
こくっと少女は頷く。
改めて、紙を見ると下の方に、店の名前と住所電話番号が見えた。40に近くなった辺りから、老眼が始まってきたらしく、特にここ最近では手元の小さな文字は見えにくかった。
目を細めてみたが、やはり読み取れない。少女に紙を差し出す。
「ここ、読めるか?」
指で示した住所を覗き込んだ少女は、額に皺を寄せてそれを睨んでいたが、すぐに首を横に振った。まあ、漢字を読めるような年ではなさそうだから、期待もしていなかったが。
数字は読めるだろうが、あいにくと携帯を持っていなかった。この付近に公衆電話も無い。
再び手にした紙を見つめる。徐々に紙との距離が開いてゆくのが、自分の年を意識するようで、複雑な心境だった。記憶にある地名とかさねながらで、何とか読めた。
その時になって、ここから15分ほど歩いた先にある、毎日のようにその前を歩いていた店だと、やっと気付いた。
黙って、私の様子を見ている少女に紙を渡した。
「この店ならば知っている。ここをまっすぐ行って…」
指をさした方向に少女の顔が向けられる。
そこで、ふと思った。ここから15分でたどり着く店。それなのにたどり着けず、道に迷った少女。これから日が沈む。この辺一帯の人影は少ない。ましてやこれから夜になる。無事に店に行き、そして家に帰る事が出来るのだろうか。
人家から洩れる光と街灯の明かり。一応それだけあれば道が解るが、この近辺は坂道が多い。そのため、毎日通る自分でさえ、不意に出現する車のヘッドライトに驚く事がある。
車…ヘッドライト…。
ずきりと後頭部が痛み、思わず手を痛む場所に当て顔をしかめた。ここ数年、時折この痛みが襲う。痛みは一瞬ですぐに消えるが、一度病院にでも行った方がいいのだろうか。
頭に触れた手を引き戻してみると、手のひらが赤い物でべっとりと濡れている。血なのか。一瞬、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
「大丈夫?」
聞こえてきた声に我に返り、見下ろすと、少女が自分を見上げていた。その大きな瞳の中にあるのは、不安と心配だった。
再び手に視線を戻すと、そこには何も無かった。普通の乾いた自分の手だ。その手をゆっくりと下ろすと、小さく頷いた。
「ああ…大丈夫だ……その店には、私も行こう」
少女の顔が、少し明るくなった。
歩き出してすぐに、少女がまたコートの裾を掴んでいる事に気付いた。立ち止まり見下ろすと、慌てて少女は手を離す。コートを掴まないように言うと、少女は頷くのだが、再び歩き出すと、またすぐにコートが引っ張られる。再び立ち止まると、コートから手は離れる。その繰り返しだった。何故、コートを掴もうとするのか解らない。しかし、これでは目的地には行けない。
じっと自分を見つめる少女の目の前に、コートのポケットに入れていた左手を差し出した。
「コートではなく、こっちにしてくれ」
パッと少女の顔が明るくなる。そっと少女が私の手を握る。小さな手。握りしめると手の中にすっぽりと納まりそうだ。だが、その指先は冷たかった。
手を繋ぎ歩き始める。自分の歩調に合わせて、少女の歩調がやや駆け足に近くなっているのに気付き、歩調を落としゆっくりと歩く。
ようやくその時になって、足の速い私に置いて行かれるのかと、不安になってコートを掴んでしまったのかと、少女の心情を理解する事が出来た。
少女の手が冷たい事が気になり尋ねてみる。
「寒いか?」
首を横に振る少女も、一応コートは着ている。帽子と同じ赤い色に白い縁取り。やっとそれが何であるのか理解できた。サンタクロースの格好だ。コスプレという奴か。もこもこしたニットのコートは、私が着ている物より暖かそうだ。立ち止まると繋いでいた手を離し、不安そうに自分を見上げる少女の頬に触れてみると冷たかった。やはり、長い時間外にいたのだろう。
手の熱で温まる事はないかと撫でていると、猫のように目を細めて少女が笑う。
「くすぐったい」
そう言われ、少女の頬から手を放す。思ったよりも暖かく、触り心地が良かった為、つい長く触っていた自分に気付き、驚いた。人の肌に触れるのは一体何年ぶりの事だろう。
頭上から烏の鳴き声が聞こえた。びくっと怯えたような眼差しを少女は頭上に向ける。同じように頭上を見上げると、空はまだ雲は少なく明るい青のままだ。その中にポツンとシミのような黒い烏の姿。
まるで自分のようだと、根拠もなくそう思った。
日は傾きつつある。暮れる前に家に送った方がいいだろうか。ケーキは親に取りに行かせればいい。家に帰った方がいい。そう伝えると、少女は思った以上に激しく首を横に振った。たどたどしい声が、さくやのだからと繰り返す。さくやという名前の者の為のクリスマスケーキ。子供なりの責任感なのだろう。
その健気な心意気に、少し心が和んだ。このご時世だ。少女を探しに来た家人に誘拐犯と間違えられそうだが、少しばかり、この少女の冒険に付き合ってやる気になった。
手にしていた荷物を下に置き、少女の目の前にしゃがみこんだ。
何をするのかと、自分を見つめる少女の目の前で、巻いていた自分のマフラーを外すと、少女の首に巻きつける。赤いコートに茶色のマフラーは不釣り合いだが、寒さをしのげるならば、見た目など構ってはいられない。
「少しはましだろう?」
少女は小さく頷くと、何を思ったのか、ちょっとマフラーの匂いを嗅ぐと、先程まで私がしていたように、マフラーで顔半分を包んだ。
「すまんな。少し匂うか?」
香水の類はつけていないが、それなりに何らかの匂いはあるだろう。自覚は無いが、加齢臭もあるかもしれん。先程自分も匂いを嗅いでみたが、自分には解らなかった。
そう言うつもりで言ったのだが、意味が解らなかったらしく、きょとんとした顔の少女は、すぐに半分隠れた顔でもはっきりと解るほどの笑顔を作った。先程までの私の真似をしたとでも言うのだろうか。その姿に思わず顔も綻ぶ。
「行こうか」
立ち上がり、少女の歩調に合わせるようにゆっくりと歩き出した。
店に着くまでの間、ぽつりぽつりと言葉を交わした。さくやというのは少女の名前で、どうやら、この子は父親はおらず母親と二人暮らしらしい。そうかと言って、それ以上父親の事は尋ねずにいた。如何なる事情かは知らぬが、ひとり親など珍しくない。自己満足の為に詮索する気もなかった。
それよりも、少しでも母親の助けになりたくて、一人でケーキを取りに出かけたという、健気な少女の優しさに心を温めていたほうがいい。
少し歩き始めた所で、少女が道に迷った理由が何となく解ってきた。
少女は、時折目に映る物を口にして私に伝えてくる。それだけでは無く、不意に手を離しては、庭先に咲く花や、塀の影から顔を出す猫に近付こうとしたり、犬の吼え声に怯え駆け出したり。なるほど、これでは迷うのは無理も無い。それでも、すぐに私を振り返り、慌てて手を繋ごうとする所を見ると、いつも母親に注意されているのだろう。
店の前までくると、一人で店に入るように促した。店の中は客が多くいる。不安げな少女に、店の前で待っている。家に着くまでは付き合うと伝える。振り返りつつ店の中に入ると、大人たちに混ざり、引換券をどうやって渡そうか戸惑っている少女の姿を見て、ふと今の自分を思い返してみた。
実際、自分の年齢から考えて、子供の一人や二人いてもおかしくない。妻がいたのだ。私は辛うじて結婚していた事は覚えている。子供がいた記憶は無いが、そのままだったら、いつか子供が出来て、こうして子供の手を引く事など日常茶飯事だっただろう。
何故、今の自分の傍らには妻がいないのだろう。あの時買ったばかりの家は…。私は慌てて思考を切り替えた。何かを思い出そうとすると、激しく頭が痛むのだ。今の自分で解っている現実は、何年も前から一人っきりでいるという事だ。
時間が掛かったが、何とか店の人間に引換券を渡す事が出来たようだ。店員の一人が気を利かせて、少女が店を出るまで付き添ってくれた。
満面の笑みで少女が店から出てくる。しっかりと掴んだ手にある大きな袋には、念願のケーキが入っているのだろう。
家の場所を聞くと、住所こそ言えなかったものの、近くにある建物の事とかで推測する事は出来た。出会った場所からそんなに離れていなかった。
ケーキを持とうかと尋ねると、少女は首を横に振った。
「さくやのだから、さくやが持つの」
ごくごく当たり前の事なのだが、それが何とも言えないほどに微笑ましい。
日が傾きつつある。あっという間に辺りは赤く染まり、暗くなってゆく。辺りは家路へと急ぐ人がぽつぽつと増えてきた。その人たちは、今まで私の存在すら気付かない振りをして、私の傍を通り過ぎ、追い越していたものだったが、今は、どこか優しさを含んだ眼差しで、私と少女を見つめてくる。中には足を止め、少女に短い言葉をかけてくるものもいる。
そのいずれにも少女は笑顔で答える。相手も笑顔になる。それにつられて笑っている自分に気付いた。見知らぬ人に笑顔を見せるなど、何年振りなのだろうか。
少女が私の隣にいる。ただそれだけだったのに、暗く冷たい世界に色が付き始めていた。頬を撫でる風は相変わらず冷たい。だけど、どこかほんの少し暖かさを感じる。
それは、左手の中から来るものだと気がついたのは、彼女が不意に立ち止まってからだった。
「あそこがお家だよ」
比較的新しい、やや小さめな一軒の家。小さな表札がローマ字で書かれている。何かを思い出しかけ、それに意識が向かう前に、私は自分の左手から少女の手が離れるのを感じた。
『行くのか』
少女との別離なのだと、はっきりと意識した。何か言わねばいけないのだろう。何かを伝えたい。もどかしさだけが募っていたが、口は開こうとはしなかった。
家から洩れる光に向かって、小走りに去ってゆく少女の後姿。それを見送り、少女の手がドアに触れるよりも先に私は背を向けた。
もう、私の役目は終わったのだ。少女はこれから母親と共に暖かい部屋でケーキを食べながら、小さな冒険を話すのだろう。母親は、笑顔でその話を聞きながら、それでも、見知らぬ人に近付くなと軽く注意をするのだろうか。
そうして、幾日かが過ぎてしまえば、少女は私の存在など忘れる。…それでいい。
……だが…。
ふと、何かを感じ、私は立ち止まった。何か聞こえる。
「ありがとう」
背中に当たった小さな声。自然と目頭が熱くなる。振り返りたいのを必死の思いで止める。叫びだしたいほどの何かがこみ上げてきた。ここ数年、ずっと胸に秘めてきたもの。一日でも忘れた事の無い、だけど思い出すたびに激しい痛みに苦しめられたもの。
それらを振り払うように、私は振り向こうとした。その瞬間、横から来た眩しいまでの光が私の体を包んだ。光が私を包んだ瞬間、私は思い出した。少女の家にあった表札のローマ字。
《THUDA》
つだ…津田。それは…
「ただいまぁ」
「おかえりなさい。ケーキはちゃんと受け取れた?」
「うん」
自慢げにケーキの入った包みを差し出す娘を、誇らしげな気持ちで私は見つめていた。少々時間が掛かったようだが、店が混んでいたのかもしれない。許容範囲内の時間だ。
「じゃあ、まずは……」
「解っているよ」
妙に大人びた口調でそう言うと、娘は部屋の片隅にある仏壇の前にケーキを置いた。おりんを鳴らし、手を合わせる。いつも私がやっていることを真似して行うと、どうだと言わぬばかりに自慢げな顔をする。
そんな表情すらも愛おしい。日に日に成長する娘は私の自慢だった。大袈裟に仏壇にお参りした事を褒める。嬉しそうな照れくさそうなその表情がふと変わった。ちらりと自分の様子を伺うような目つきでこちらを見る。
「あのね。…本当は道が解らなくなって、そうしたら、知らないおじさんが助けてくれた」
「え?」
一瞬、目の前が暗くなった。明るい昼間という事と、見知らぬ他人についてゆくような子ではないと、今回のお使いを一人で行くよう頼んだが、心細い時などは容易く人について行ってしまうのだろうか。たまたま、親切な人に出会っただけの幸運を、この子は理解出来るのだろうか。
コートを脱ぎつつ、娘は嬉しそうに言う。
「優しい人だったよ。手を繋いでケーキ屋まで行って、おうちの前まで一緒にいてくれたよ」
「さくや…その人は…」
どんな人だったのか。そう聞くつもりだった、
「ちゃんとお礼は言ったよ」
娘はそう答えると、洗面所に手を洗いに行った。じきに水音とうがいをする音が聞こえてくる。
その音を聞きながら、自分の不安を必死で宥めた。今回はたまたま幸運だった。もっと、しっかりしなくては。夫が死んで随分たつ。自分にはこの子しかいないというのに。家の近くだから大丈夫という保証など一つも無い事は、夫の死で骨身に染みた筈だ。
「あれ?」
不意の驚きの声に顔を向けると、娘は不思議そうに自分の首の周りを触っている。
「どうしたの?」
ん~と、首をひねっていた娘がぽつりと呟いた。
「おじさんのマフラー、ない…」
どうやら、寒そうだからとマフラーを借りたらしい。
「その人に返したんじゃないの?」
「してない…」
娘はほんの少ししょんぼりとし始めた。自分が無くしてしまったと思っているようだ。
確かに、家に入ってきた時から姿を見ていたが、娘はマフラーなどしていなかった。ではどこかで落としたのか。
「どんなマフラーだったの?」
「んと、毛糸の茶色のしましまで…。はしっこに、うちのと同じのがあった」
「え?」
「ママ、教えてくれたよね。玄関の傍にあるの。あれと一緒だった」
「…」
忘れようとしても忘れられない。茶色の縞模様のマフラー。自分で毛糸を選び編んだもの。タグには私が刺繍で名前を入れた。一日早いがクリスマスプレゼントとして、出勤しようとしている夫に渡し、夫はそれを首に巻いて仕事に行き、そして、帰宅途中道に倒れていた男を助けようとして、飲酒運転の車にはねられて死んだ。
…それが7年前の今日。
そのとき、私は妊娠中だった。自分でも疑っていたが、病院での検査でそれがはっきりと解ったのだ。それを私は、仕事から帰ってきた夫に告げるつもりだった。夫は、子供好きかどうかは知らなかったが、それでも喜んでくれるだろうと、密かなクリスマスプレゼントにするつもりだったのだ。だから、夫は自分に子供が出来ていた事を知らないまま死んでしまった。
以来、私は周囲の言葉に耳を貸さず、生まれた娘と二人っきりで、夫の残したこの家に住んでいる。
この子は夫のマフラーなぞ知らない筈だ。写真などとってもいない。あのマフラーは夫と共に荼毘にしたからだ。
ならば誰が、私が夫にあげたマフラーを、娘に貸してくれたというのだろうか。
まさか、まさか、まさか…。
「ママ!」
急に玄関に向かった母親に驚きつつ、それでも後を追った少女は、門の所に立ちすくむ母親の姿を見つけた。母親の後ろ姿に、思わず不安になった。
「ママ…ママ…お外は寒いよ。風邪引いちゃうよ。おなかすいたよ。おうちでケーキ食べようよ」
「……そうね」
すがりつき見上げると、ゆっくりと母親は顔を自分に向けてきた。もう、いつもの母親の顔だった。優しい、しかし、どこか疲れた顔。その顔に微かに笑みが浮かんでいた。
「寒いね。入ろうか」
差し出された母親の手を握り、家に入ろうとして、ふと、少女は後ろを振り向いた。
一瞬、道路の反対側、街灯の下に人影が見えた気がしたが、そこには誰もいなかった。
いかがでしたでしょうか。受け取るものは様々でしょうが、ただ甘いだけではなく、ほんのりした暖かいものが伝われれば何よりです。