ZIGGY BETTER WAY
シェンディー・ロザベラは夢を見ていた。自身が夢を見ている事を自覚していた。
『たまにあるのよね…』彼女はその場で振り返る。
例えば別れた恋人のワトサップが出てくる憂鬱な夢がそうだった。
まるで映画の中のゾンビの様に執拗に襲い来るワトサップから逃げ惑う途中、彼女はその必要性を全く感じなくなってしまったのだ。
『ああ、これは夢だ』そんな下らない事実に気付き、途端に彼女は、幼い頃『神曲』を読まされた時以来の退屈な気持ちになってしまった。
『下らない…』振り返った先の風景が先程まで前方に位置していたそれと趣を異にしている事に気付くと、彼女のモチベーションは一層低下した。
『ほら、やっぱり…』だから彼女は、夢と現の2つの世界で同じ言葉を吐いて覚醒した。
「ZIGGY BETTERはお手のもの!!」
それは彼女がキンダーガーデンに通っていた時分に幼馴染のアントンから教えて貰ったお呪いだった。意味は分からないが、頭から離れず今でもよく唱えるシェンディーの合言葉だ。
ところが、だ。
『これはどういう事?』
彼女の前にアントンがいた。あのキンダーガーデンにいた小さなアントンだ。
「あ…」
シェンディーは思わず小さく息を飲んでいた。急に現れたアントンに、何故か動揺していた。
アントンがシェンディーの声を聞いて顔を上げた。
「何だよ、どうした?」
透き通る様な蒼い目。右膝を抱き、抱き寄せる右手の親指の爪を噛むその姿は、アントンが何か考え事をする時、決まってとるポーズだった。
シェンディーは慌てて頭を振った。
アントンは少しだけ怪訝な顔をしたが、すぐに目を閉じて、何かをブツブツと呟きだした。
「D-23、配置には着いたか?…よし!!C-73はどうだ?…アイダム!!B-18、応答せよ!!…よし諸君!!時は満ち、我々は世界地図の色合いを変える瞬間を迎えた。私は君達を誇りに思う。」
優秀なる指揮官はそこで一息の間を設け、続ける。
「諸君らは、我が国の発展に対し、多大なる希望と成功を与え続けた。それはとても誇り高き貢献である。それは揺るがない。」
眉間に皺を寄せる。
「しかしながら我々は、尚一層の栄光と成功に邁進しなければならない。何故なら我々は…」
咳払い。最早シェンディーは、小さなアントンの名演技に酔いしれていた。
「我々は国民に対し、栄光と成功を約束しているからである。過去は捨て去り、また新たな栄光を、今、築こうではないか!!」
シェンディーは無意識に拳をギュッと握っていた。アントンの鼓舞は、それほどまでに見事だった。
「…話が長くなったな。作戦コードA-477。作戦開始時間を1102(ひとひとまるにい)とし、ここに作戦開始を指示する。ZIGGY BETTERはお手のもの!繰り返す。ZIGGY BETTERはお手のもの!」
幼い優秀な指揮官は、そこで目を見開いた。
それからしばらく、アントンは虚空を睨んでいた。シェンディーは固唾を飲んで、彼の言葉を待つ。彼女は虚空を睨むアントンが世界で一番イカしてると思った。
かくしてアントンは、ゆっくりと目を閉じ、二度、三度頷いた。果たして遠くで炸裂する幻の爆発音は、アントンの鼓膜を振るわせたのか?
ゆっくりと、アントンは目を開ける。
そして彼は、眩しいほどに温かい視線をシェンディーに与えた。
「ミッション・コンプリート。諸君等の甚大なる活躍に感謝する。各隊は撤退準備に入れ、それが完了次第、分散。次に会うのはカスピ海の上だ。」
シェンディーは諸手を挙げて喜んだ。
「アントン!!また成功?」
アントンはヘッドホンを外す仕草と共に、左の親指を立てた。
それから、ふと、諸手を挙げたシェンディーの、その左手に視線を向けた。
「ヘイ、ロザベラ!血が出てるぞ!!」
言われて左手を見ると、確かに彼女の掌には血が滲んでいた。と同時に、彼女は、自身の体がアントン同様、キンダーガーデン時代のそれである事に気付いた。
直後、不意に彼女は、フォーチュンクッキーを覗かれた様な、好きな人を言い当てられた様な、耐えようもない恥じらいを感じ、左手を後ろに隠した。
「隠すなよロジー。さぁ、こっちに見せるんだ!」
アントンが椅子から立ち上がり、左手を差し出してきた。
シェンディーは頭を振る。何故かはわからないが、とても恥ずかしい。
「さぁロジー、いい娘だからこっちに見せてご覧」
優しいアントンの声に、シェンディーは目を泳がせた。だがアントンは待ってくれない。
「さぁ」
シェンディーはその手を見て、アントンを見て、それからやっぱり視線を宙に泳がせて、消え入りそうな声で言った。
「でも、恥ずかしいわ」
すると、アントンはまた少し考えて、言った。
「じゃあロジー、一つおまじないを教えよう。」
そう言って彼女の前にしゃがんだアントンは、抱き締める様に彼女の腕を取り、目を瞑った。
端正な顔立ちが、目の前で無防備にも目を瞑っている。口衣付けをしたい衝動に抗いながら、シェンディーはジッとアントンを見詰めた。
アントンはゆっくりとシェンディーの指を口に含む。夢と分かっているのに、シェンディーは何故か彼の温もりを感じた。
「いいかい、ロジー」
口から指を出し、目を開きながらアントンは呟く。
「僕は将来アーミーになりたいんだ。エア・フォースやマリーンズじゃないぜ。アーミーだ。しかもただのアーミーじゃない。僕はいつか陸軍の総司令官になる。そしてこの国を脅かす悪を打ち払い、必ず君を迎えに来る。だから、だからねロジー。君の傍にズッとはいられないんだ。だから僕は、君に僕を忘れない魔法の暗号を預ける。」
アントンはそう言うと目力を増した瞳でシェンディーの眼を射抜いた。
「僕に続いて復唱して、『ZIGGY BETTERはお手のもの!』」
シェンディーはその眼力に負けて復唱する。
「ズィ、ZIGGY BETTERはお手のもの」
アントンは頷くと、尚も唱えた。
「ZIGGY BETTERはお手のもの!」
「ZIGGY BETTERはお手のもの!」
アントンは満足気に頷く。それからちょっと照れた様に言った。
「僕が考えたコードだから、知ってるのは君と僕の二人だけだ」
その笑顔に見とれていると、ドアを叩く音がした。
ドンドンドンドン…
ドンドンドンドン…
目を開けると、酒瓶とジャーキーの袋で散らかった机が見えた。今日がサタデーなら昨日はフライデーだった筈だ。
「…んと、何だったっけ?」
こんな時、記憶にない事を自分に訊くのがシェンディーの癖だった。
体を起こそうとすると、腹の辺りで丸くなってた猫のジルが非難がましく一声鳴いた。
「ううんっと」
記憶を掻き回しているシェンディーの耳に、再びその音が届いた。
ドンドンドンドン…
ドンドンドンドン…
「はーい、ちょっと待ってね」
もぞもぞと、それでも急いで立ち上がり、ジーンズを履く。
『ああそっか、テッドと別れた憂さ晴らしだったんだ』
そんな事を思い出し、付き合ってくれたベスに後で電話を入れよう等と考えながら玄関まで来たシェンディーは、チェーンロックを外す途中で声を聞いた。
それは懐かしくとも新しい、今の彼女には余りにもうってつけな声だった。
「ZIGGY BETTERは?」