実直勇者の追走劇
「クソッ!」
ロイに発見されたと認識した人影は、悪態を吐きながら慌てて逃げ出した。
人影は走りながら自身を覆っていた何かを脱ぎ捨てるような仕草をする。すると、体の一部しか見えてなかった体が全身見えるようになった。
どうやら、身を隠す特殊なマントか何かを身につけていたようだった。
ロイの技の直撃を受けた人影だったが、拾った枝では技の威力は不十分だったようで、その足取りが弱まった様子はなかった。
「諦めろ! もう逃げられないぞ!」
逃げる背にロイが声をかけるが、当然ながらその程度で足を止めるような人影ではない。
だが、人影の先にあるのは、十メートルはありそうな館の壁だ。近くには樹木などの高さのある障害物もなく、他に逃げ道となりそうな隠し通路も見当たらない。
完全に手詰まりと思われたが、そのまま壁際まで駆けた人影は、壁に足をかけると、華麗な身のこなしで断崖絶壁の如く垂直に切り立った壁をすいすいと登り始めた。
「な、なんだと!?」
猿のような身のこなしを見せる人影に、ロイは絶句する。
館の壁は、石をくみ上げて造ったもので、僅かにではあるが凹凸は存在する。しかし、それでも手をかけ、体重をかけて体を持ち上げるには到底至らないとロイは思っていた。
しかし、人影はまるで自分の体重がないように易々と壁を登っていく。
後を追いかけようにも、館の入り口まで迂回していたら確実に人影に逃げられてしまう。
せっかくナルキッソスを見つけたのに、逃げられてしまうのか? 見ているしかないロイが悔しげに歯噛みしていると、
「ロイ、これを……」
下着姿に白い上着をひっかけた姿のプリムローズが、庭にあったロープを持ってやって来た。
「プリム、ナイスだ!」
プリムローズの機転に、ロイが歓喜の声を上げる。
そうこうしている内に人影は壁を登りきり、悠々と館から脱出していった。
だが、そこで慌てるロイとプリムローズではなかった。
プリムローズからロープを受け取ったロイは、壁を背にすると両手を股の下で組み、足を開いて立つ。一方、プリムローズはロイから距離を取り、跪いて肩幅に開いた両手を地面につける所謂、クラウチングスタートの姿勢を取る。
「よし、いいぞ!」
「わかった」
ロイの掛け声と共に、プリムローズが地を強く蹴って一気に飛び出す。
矢のような速さで駆けるプリムローズは、あっという間にロイとの距離を詰めると、その勢いを殺さずにロイの組んだ両手に足をかける。
「いっけえええええええっ!!」
手に体重がかかると同時に、ロイは全身に力を込めて手を振り上げ、プリムローズを思いっきり上へと投げ飛ばした。
ロイに渾身の力で投げられたプリムローズは、重力に逆らってどんどん上昇し、壁の頂上まであっという間に辿り着いてみせた。プリムローズが壁を登りきったのを確認したロイは、手にしていたロープを投げ、上で待機しているプリムローズへと渡す。
ロープを受け取ったプリムローズは、旗が括りつけられる鈎針へと手早くロープを固定すると下へと垂らす。垂らされたロープを手にしたロイは、一息で壁をよじ登ってみせた。
壁を登りきったロイは、ロープを中へ投げ入れてプリムローズに質問する。
「プリム、あいつは?」
「あそこだ。屋根の上に」
そう言うプリムローズが指差す先には、建物の屋根の上を疾駆する人影の姿があった。
大分距離を離されてしまったが、目を離さなければ見失ってしまうことはないだろう。
「行くぞ!」
隣に一声をかけてロイが飛び出すと、間髪をいれずにプリムローズが後に続く。
ロイたちは貴族街の一階層下、平民街の煉瓦で出来た屋根へと着地すると、甲高い音を響かせながら前方を走る人影を追う。
「クッ、この足場でよく走る」
不安定な足場と暗がりの所為で、全力で駆ける事が出来ず、通常の倍以上の体力と精神力が削られていくからか、珍しくプリムローズが弱気な発現をする。
対するロイは、プリムローズとは対照的にどこまでも強気だった。
「だが、条件は俺たちのほうが有利だ」
いくら地の利が向こうにあったとしても、こちらは向こうが通っている道をそのままトレースするだけでいいので、向こうよりも速度が出でいるのか、徐々に相対距離が縮まっていた。
「奴に追いつくのは時間の問題だ。このまま気を抜かずに一気に行くぞ!」
「わ、わかってるよ。ちょっと肌寒いと思っただけだ!」
プリムローズは赤い顔で反論すると、はだけかけていた服を元に戻す。
それなら、ちゃんと服を着ておけばいいのに……と思うロイだったが口にはしない。
何故なら、
「プリム!」
何かに気付いたロイが、プリムローズに向かって鋭く叫ぶ。
「わかってる!」
ロイの言葉を阿吽の呼吸で理解したプリムローズが速度を緩めずに身構える。
次の瞬間、ロイとプリムローズ目掛けて何かが風を切り裂いて飛来してきた。
「よっ!」
「ハッ!」
飛んできた二つの飛来物を、二人は回避するどころか、いなしながらキャッチしてみせた。
飛来してきた物体は、拳大ほどもある大きな石だった。
「俺は右を……」
「じゃあ、あたしは左だな」
お互いの標的を確認したロイとプリムローズは、二人同時に石を飛んできた方向へ向かって投げる。
石は矢のような勢いで飛んでいき、あっという間に闇の中へと消えていった。
「……やったかな?」
「さあな。だが、牽制ぐらいにはなっただろう」
ロイの読み通り、暗闇からそれ以上の追撃は行われる様子はなかった。
ナルキッソスに仲間がいたのは予想外だったが、脅威になるほどの存在ではなさそうだった。
「ふぅ……」
一先ずの脅威を振り払ったプリムローズが小さく息を吐き、引き続き前方の人影を追うために目を前へと向けると、
「あれは?」
前方の小さな変化に気付き、目を見張る。
人影が何かした様子はない。どちらかと言えば、変化があったのは人影とプリムローズたちとの間の空間だった。前方、五メートル程の距離に指先ほどの小さな光が現れ、プリムローズたちと距離を合わせるように移動していたのだ。
「虫……なのか?」
前方の人影から目を逸らすのは危険だと承知しているが、光はまるで意思を持っているかのように、器用に素早く空中に模様を描くように舞う。
その幻想的な光景に、プリムローズが目を奪われた瞬間、突然小さな光が爆発し、辺り一面に眩い閃光を放った。
「――っ!?」
目の奥まで突き抜けるような光の奔流に飲まれ、天地さえもわからなくなる。
プリムローズは安全を確保する為、堪らず足を止めようとするが、
「うわっ、わわわわわっ!?」
地面を捉えたと思った足が、空を切ったのだ。
まだ視界が回復しないプリムローズは、慌てて手を振り回し、最初に手が触れた物に無理矢理体を投げ出すようにして抱きつく。
「あがっ!」
対象の大きさを把握せずに力一杯抱きついたので、顎を思いっきり強打してしまい、プリムローズは涙を流しながら転げまわった。
途中、何度か屋根から落ちそうになりながら痛みと戦い、どうにか視界が回復したところで身を起こすと、自分が抱きついた物が屋根に取り付けられた煙突であったと気付いた。
煙突に抱きついたので、白いシャツは煤で真っ黒になっていたが、そんな事を気にしている場合ではなかった。
「……ロイ?」
辺りを見渡してみても、何処にもロイの姿がなかったのだ。
「ロイ、何処だ? 返事をしてくれ」
もしかして屋根から落ちたのか? プリムローズは慌てて付近を捜索し、ロイの姿を捜す。
しかし、地面にも、屋根の上にも、何処を見渡してもロイの姿はなかった。
「まさか……」
あの閃光に臆することなく人影を追ったのだろうか?
ロイが消えたかもしれない方向を見やっても、既にロイの姿は何処にもなかった。




