王と名のついた人間は思わせぶりに登場する
「へぇ〜。桜子ちゃんがここに来たんだ。折角来たならお茶の一杯ぐらい出したのに」
「あぁ、そのようだが——どうする?」
「どうするって?」
片方は幼き少年の声。もう片方はバリトンボイスの渋い声が部屋に響いた。
少年は一目で高価だとわかる豪奢なベッドの上で横になりながら、お菓子が溢れることも何のお構いなしに摘みながら目の前の男の話を聞いていた。
親子ほどにも年齢差があるような二人なのに、友達のような気安ささえ感じる。
男はそんなくつろいだ様子の少年の言葉に眉をひそめて言う。
「彼奴等とは盟約を結んでいただろう。まさか忘れてはいまい?」
「え、何か約束してたっけ?」
とぼけているわけではない。間違いなく忘れているとわかる少年の言葉に、ギロリと目を細めて男は睨んだ。大抵の子供ならば、それだけで泣き出しそうになるほど恐ろしい形相をしている。
それを見た少年は、これはまずいと思い、ふかふかのベッドの上で正座をして、居住まいを正した。
「もうそんな睨まないでよ。ちょっと忘れてただけさ。えーと、うーんと……ちょっと待ってね。喉まで出かかって……」
喉まで出かかっていると言って、正解が出た試しがない。
男は怒りの矛を収め、疲れたように深く息を吐いた。
「《娯楽》と《奈落》の不可侵盟約のことだ」
「もう! 先に言わないでよ! 何だい何だい。自分がちょっとばかり物覚えが良いからって自慢かい!?」
「お前が忘れっぽいだけだ」
「代わりに君が覚えてるんだからいいじゃないか」
「覚えさせられるこっちの身になれ」
口先を尖らせてブーブーと文句を言われる。
忘れた自分が悪いはずなのに、理不尽だと思わずにいられないが、もはや慣れたもので一々突っかかっていると、これ以上話が全く進まなくなる。
少年も、それをわかってかゴロンと再び横になってお菓子を食べ始める。舐め腐った態度のようだが、これが少年の話を聴くスタイルなのだ。
「はいはい。それで不可侵盟約だっけ? 別に放っておいたら良いんじゃない? 桜子ちゃんとやり合うと面倒だしねー」
「そうもいかん。他の連中に示しがつかん」
「えー」
自分たちの縄張りに許可なく入れば痛い目を見る。
特にこういう地下世界の住人にしてみれば、その傾向が特に顕著である。一度ぐらいは良いだろうと多目に見れば次もまたとずるずると馴れ合いが続くことになってしまい、そうすると下の連中の統制が効かなくなる。
そういったことを踏まえて少年に散々忠告しているはずなのに、全く頭に入っていないようだ。いや、たとえ頭に入っていたとしても、少年は同じく面倒臭がるに違いないことが目に見えるようだ。
やれやれと心の中で毒づき、もう一つの報告事項を伝える。
「それに桜子以外にも侵入した奴らがいる」
「かなりの命知らずがいたもんだね。それどんなバカなの?」
《娯楽》の連中にとって《奈落》とは忌避されている場所だ。
その理由の一端どころか、ほぼ全てを担っているのは《娯楽》の連中が足を踏み入れれば文字どおりただでは済まさないことを徹底しているからだ。
奈落に足を踏み入れれば、奈落の住人となるか、それとも——無事では済まない体となって奈落の底から生還するか。
そのどちらかしか存在しない。
少年のが面倒臭がっている通り、桜子は別枠としても、もう片方の存在は看過するわけにはいかない。
そして、男は奈落に侵入した者の名を告げた。
「娯楽屋という連中らしい」
「……へぇ。この娯楽都市において『娯楽』の名前を冠するとはね。良い度胸してるなー。となると、これは管音が出張ってきたのかな?」
ベッドから起き上がり、先ほどまでの怠けていた雰囲気が霧散した。
湖面の底が映る湖のような、どこまでも澄んだ笑みをして懐かしげに狐島管音の名を呼んだ。
すると少年はニコリと笑って男に言う。
「ま、庭先をちょっとばかり歩き回られただけさ。大目に見てあげようか。ほらボクって器の大きいオトコだからね」
それは駄目なのだと再度忠告しようと男は口を開きかけ、
「だから——半殺しで許してあげるとしようか」
少年はさらりと言い切った。
娯楽屋を、賽の目双六と久遠健太を半殺しにすると。
その言葉に、男は「わかった」と頷いた。
「うんうん。ボクって優しいと思わないかい? ねぇ、イチロー。君もそう思うだろ?」
「お前が優しいかなど俺にはどうでもいいことだ」
「まったく君はつれないなぁ〜」
「知るか」
命令は下された。
奈落に無断に侵入した者たちに鉄槌を下すのは自分の役目だ。
今までも、これからも。ずっと、ずっと、続けてきた。
そうとなれば、早速行動に移す。
「では、その娯楽屋を始末してくる」
「始末じゃなくて半殺しでいいってば」
君が本気を出すと相手が死にかねないじゃないか——と、少年はくれぐれも気をつけるように念を押した。初めてお使いに行く子供じゃないのだから、下らない心配はするなと行って、部屋の扉に手をかけた。
「はいはい。じゃあ行ってらっしゃい——イチロー」
「あぁ、では行ってくる——奈落王」
イチローと呼ばれた男は、振り返らず扉から出て行った。
そして、あとに残された少年——《奈落》の底辺に堕ちた奈落王は、イチローのせっかちな行動に苦笑しながら、ゴロンとベッドに転がった。
「まったく彼は本当に忙しないな〜。というか、あと何か忘れてる気がするんだけど何だったかな〜」
パリポリとお菓子を頬張りながら、奈落王は宙空を見ながら思い出す。
盟約のことはするっと忘れていたのに、今度はすぐに頼み事を思い出した。
「あ、娯楽に行くならお菓子のお土産頼見たかったんだけど、もういないか」
残念残念と奈落王は「ま、どーでもいいか」とすぐに切り替えた。
それよりも、今はイチローが帰ってきた時のことを考える方が楽しみだ。
何せ、今度の相手は一筋縄でいかない相手だ。
「さてさて管音。久しぶりに遊ぶとしようか」
狐島管音と同じ淡い紫の髪をした奈落王が呟いた言葉は、部屋の中にそっと消えていった。




