弱肉強食は世界の理
大抵いつも頭がカッとなるとわけがわからなくなる。
その後我に返って自分が何を仕出かしたのかを思い出すと、その度に愕然とする。周囲の冷ややかな子供の目に好奇に見てくる大人の目が久遠の心を傷つけ苛立たせた。
いっそ忘れられたら良かったのに、腹立たしいぐらいに鮮明に思い出すことができた。なのに、暴れている最中は堰を切ったかのように怒りが溢れ出して止められないのだ。
だからだろうか。
いつしか、こんなわけのわからない力なんてコントロールできるわけがないと思い込むようになった。
無理だ。
無駄だ。
ならば、せめて心穏やかに暮らしていきたいと思うのに、周囲がそれを許してくれなかった。それに暴れ終わったら心がスッとすることから、管音が紹介する仕事も悪態はつくものの決して頑なに断ることはなかった。
けれど——正義屋と出会ったことで久遠の考えが変わった。
真理と戦っている最中に、久遠すら驚くほど感覚が鋭くなる瞬間が何回かあった。それは、冷静とは言い難いほど高揚していたのにも関わらず、怒りで我を忘れた時と同じぐらいに身体を動かすことができていたのだ。
もしかしたら——異常は自分の意思でどうにかできるのかもしれない。
そう思えるようになっていた。
以来、久遠は娯楽屋として生きることを決心し、己の力と向き合うようになった。そう思った矢先にガチンコ屋と名乗った戦場が現れた時は正直チャンスだと思った。
——思う存分力試しができる。
物は試しとやってみたら、結果はあっさりと暴走してしまい、あわや戦場を殺す寸前まで追い詰めてしまった。まぁ、向こうもかなりの実力者であったためか、命の危険を察知して戦いの場から逃げてくれたのは不幸中の幸いだった。
さすがに、この歳で殺人者の罪は重すぎる。
いや、歳は関係なく殺人罪は重いのだが。
そんなわけで、気軽に試すのは大変危険だということがわかり、それ以上の力試しは久遠も自重した。
どうしたものかと管音に相談してみたら「らー、だったら山奥で修行したらどう〜?」と勧められたので、その勧めの通り山を駆け巡ったり動物を捕まえたりなどをしたりしていた。
もはや、修行というか野生生活みたいな感じになっていたが、意外と性に合っていたのか、人のいない山の中で全力を出すという行為が、これほど気持ちが良いものだとは思わなかった。危うく山に住みたいと思うほど好きになっていたが、管音からは相談料代わりに「るーるー。私様に毎日会いに来るように〜♪」と言われていたので、その約束は守ったため山に住むことはなかった。
その結果久遠は——全力を出すことに慣れた。
今まで力を込めて殴れば人が死ぬかもしれない恐怖から、おっかなびっくりとダメージの少ない部位への攻撃を多用したり、人を投げ飛ばしたりしていたが、どの程度力を込めれば動物を仕留めることができるのかがわかった。
つまるところ、久遠は今まで自分の力の全容を知らなかっただけだ。
100メートルを何秒で走れるかを知らなかったように、久遠は自身の力を忌み嫌っていたせいで感覚的にどの程度のものかを知らなかった。力を扱う経験値が圧倒的に低かったのだ。いくら圧倒的な力があろうと、扱う経験がなければ結局は暴走させてしまうのは自明の理だ。
言うなれば、無免許の人間がジェット機を扱っているようなものだ。
そんなわけで久遠は力を出すことに慣れた。
力を知ったことで恐れが減った。
細やかなコントロールはまだまだであるが——どの程度の力を出せばいいのかがわかった。
ルピンにいいようにやられていたのは、ルピンが改造人間であるせいでどの程度の力を出せばいいのかわからなかったのだ。
けれど、ルピンは言った。自分は改造人間であると。
そして久遠は自分の得た経験から——全力を出しても構わない人間だと判断した。
全力を出しても死なない人間だと——判断できた。
◆
さっきまで呼吸が荒かった久遠健太が急に静かになった。
感情的でギラギラした瞳が凪のように穏やかになり、久遠から放たれていた重圧が小さくなっていった。目を凝らさなければわからないほどに、久遠の気配が薄くなった。
改造人間でありエリート教育を受けてきたルピンは警戒度を上げる。戦闘教育の過程で、こういうことをする人間はいた。敵意をあえて消すことで油断を誘い、その隙に殺しにかかろうとする技術があった。
だが、それすらもルピンにとっては対応策が思いつく程度のありふれた技術にしか過ぎないのであった。
(ま、所詮はこの程度かなー)
久遠健太と戦ってわかったことがある。
彼は戦闘においてはズブの素人だ。喧嘩慣れはしており、争いごとにも強いことは否定しない。ただし、結局それは久遠健太のバカみたいな身体能力に依存したものでしかない。
そんなものはルピンから言えば、チンピラが最高品質の刀を持っているようなものだ。宝の持ち腐れにもほどがある。宝石は研磨しなければ石ころだし、刀は研がなければ棒に過ぎない。
改造人間によって作られた身体能力。
身体能力に基づいた高等教育。
全てを兼ね揃えたルピンにしてみれば、久遠健太など宝の持ち腐れをしている凡人にしか見えなかった。これが自分の改造人間のモデルになったかと思うと涙が出てきそうだった。
終わらせよう。
そして——これからずっとオセロと一緒にいるのだ。
それでいい。
それで何もかもが終わる。
ルピンが終わらせようと一歩踏み出した瞬間——久遠健太が消えた。
「は?」
思わず声が出てしまった。
何しろルピンにとって初めての経験だったのだ。
人がいきなり視界から消えるというのは。
そのせいで呆気にとられてしまい——油断してしまった。
ガサリとほんの小さな足音に気づいた時には、全てが遅かったことを悟った。
久遠健太がいつの間にかルピンの左横に移動し、拳を構えていた。
「がぁっ————!!」
久遠の拳が当たり数メートル先までルピンが吹っ飛ばされる。
奇跡。偶然。無意識。
何でもいいがルピンは久遠の拳が当たる寸前に左腕を差し出しガードが間に合った。代償は左腕が動かないことだが死ぬより全然マシだ。もしも、ノーガードであんなものを喰らっていたとしたら、胴体の骨が折れ曲がり内臓を傷つけていたかもしれない。
冷静になれ。落ち着け。
痛みの感覚は意図的に遮り、状況を把握に努める。
久遠健太の動きを見失い、強力な一撃をもらってしまった。左腕は動かないが特に問題はない。片腕になっても戦う訓練は積んでいるので、その動きに変更すればいい。
もう二度と油断はしない。
一瞬の内に心を立て直し、気を引きしめて久遠健太を見る。すでにルピンに追撃を出そうと動き出しているが——今度は見える。
確かに、さっきまでとは段違いと言っていいほど動きが良くなっているが捉えられないレベルではない。きちんと集中しさえすれば対応はできる。
久遠の力が凄まじいのであれば逆にその力を利用して返り討ちにしてやると決めてルピンは待ち構える。今までと同じような、力一辺倒の久遠の拳が来ると構えているとルピンはあることに気づいた。
久遠の拳が握られていないことに。
「まず——!?」
言い終わる前にルピンの腕は——引き裂かれていた。
ルピンの腕から血が溢れ、ポタポタと流れ出る。
もちろん久遠は刃物など持っていない。
久遠がルピンを引き裂いた武器は人間なら誰でも持っている爪だ。本来ならば引っかき傷など血がにじむ程度か、人間を深く抉ろうとすれば自分の爪が剥がれてしまう。
だが、久遠はその圧倒的な力と肉体により人間の爪を、ナイフよりも鋭利的な武器へと変えてしまっていた。
迂闊に防御しようものならば、その爪で切り裂かれることは必至だ。
(だったら!!)
ルピンは攻撃に転じる。
久遠に何が起きたのかは不明だが、今の久遠に後手に回っていては危険だ。少なくとも余裕を見せて格上に見せる演出は取り下げる必要がある。
ルピンは格闘有段者が青ざめてしまいそうなキックを胴体に向けて放つものの——久遠に避けられてしまった。
ただし、それはとても人の行うような避け方ではなかった。
地面に四つん這いに這いつくばって、四速歩行する獣のような姿勢になって躱し、さらにはその姿勢のまま勢いよく駆けていく。そう思ったら、今度は久遠は二足歩行に変えて、またもや鋭い爪でルピンを切り裂いていく。
こんな攻撃はルピンが習ってきたどの戦闘術にもなかった。
当たり前だ。
ルピンが習ってきたのは、普通の人間の身体能力で戦う術であって、異常な人間の身体能力で戦う術ではない。
久遠はその巫山戯たレベルの身体能力を利用して、人間では明らかに不可能としか思えないような動きでルピンを翻弄していく。
それにルピンはついていくことができない。
久遠と同じ異常な力を人為的に施されルピン。
なのに、その足を引っ張るのはエリート教育を施された部分であるのは、なんという皮肉であろうか。
警察組織すら圧倒したルピンが、今やたった一人の男に翻弄されていく。
「久遠……健太ぁ……!!」
隠しきれない憎しみが言葉となって出る。
あれだけの苦しみと実験を乗り越えてなお立ちはだかる存在。
だが、これを乗り越えたときこそルピンは『人間』になれるのだ。
——決して負けられない戦いだ。
だから、ルピンは覚悟を決めた。
「殺してやる!!」
感情に任せて一直線に向かう——演技をした。
この久遠を相手に傷つかないで勝とうというのが間違いだった。
ならばいっそのこと、久遠の一撃はあえて受けることにする。一撃程度ならば、久遠と同じ異常な身体能力を有したルピンならば耐えきることができると計算し、距離を詰めればルピンの学んだ技術が活かすことができるからだ。
そして、ルピンの鋭いパンチが放たれるものの——久遠はそれを掻い潜りルピンの腹部めがけてカウンターを入れた。
「ごふっ……」
強烈な一撃。
嘔吐感が一瞬で身体を駆け巡り、口から胃酸が溢れ出しそうになるのを耐えた。
耐えきることができた。
ルピンは久遠の首元の襟を掴んで反転する。
背負い投げの体勢に入った。
ただし、本来ならば受け身などを考慮して投げるが、そんな甘っちょろいことなどしない。確実に仕留めるために頭から地面へと叩きつけるつもりだ。
ルピンが肉を切らせて骨を断つ作戦が成功したことを確信した。
勝った!!
ルピンが思ったその時、ありえない喪失感がルピンを襲った。
背負い投げに入ろうとした久遠の口が牙が、ルピンの肩に突きつけられ噛まれていた。
そのまま久遠は鋭い歯と顎で肉を食いちぎった。
「があああああああああああっっっっっ!!!!!!」
悲鳴が奈落に轟く。
肉を切らせて骨を断つどころか、肉を切らせて肉が食われてしまった。
とめどなく溢れでる血液がルピンの服を濡らす。
見誤っていた。
ルピンは改造人間であり、久遠はそのモデルとなった人間だ。
だから、ルピンは久遠はその延長線上にいる人間であると思っていたはずなのに、その前提がそもそも間違っていた。
これは——人ではない。
これは——獣であった。
久遠が今行っているのは弱肉強食の世界に則った生存競争だ。勝負ですらない。勝ち負けではなく命のやり取りを行っているのだ。
だから、彼は人の技など使う必要はなく、そもそも生き物を殺すのに必要なのは自らの爪と牙で十分なのだ。
殺される。
そう認識した時、ルピンの背中からどっと汗が流れ落ちた。
一歩ずつすり寄ってくる久遠。
それが死神の足音のように聞こえた。
そして、死神が目の前に立ち、自分は死ぬのだと思ったら、声が聞こえた。
「何やってんだ。あの双六は?」
言っている意味がわからなかったが——さっきまでの獣ではなくなっていた。
助かったのか?
混乱する頭でルピンは考えながら、次の瞬間、ようやく久遠の言っていたことを理解した。
普通の人間ならば決して聞こえないであろう感高い女の悲鳴が聞こえた。
「オセロ?」
聞き間違うはずがない。
自分が最も大切な——オセロの悲鳴が聞こえた。




