オッサンと桜と酒と
若い頃は新しい味を求めて違う店を渡り歩いていたものだが、歳を重ねるにつれて一つの店に足を落ち着けると他の店に足がまったく伸びなくなった。面倒臭くなったと言えばそれまでだが、それでも一つの店に足繁く通うと店主とは顔なじみになるし、料理の好みの味付けの優遇もそれなりに利くようになる。
こじんまりとした個人が経営する居酒屋であり、決して綺麗とか豪華とは言い難いが、オッサンが一人で飲むのを歓迎する——そんな雰囲気に惹かれたのかもしれない。誰かと飲む時は違う店を選ぶが、一人で飲む時は必ずここに来る。
嫌なことであったり。
嬉しいことであったり。
そのどちらであっても、この店に来るようにしている。
ただ——今日この日だけは違った。
「いよ〜う銭形ちゃん」
「あれ? 桜子さんじゃないですか。どうしたんすかこんな汚い場所に」
店主の親父が聞こえていたのか「汚い場所で悪かったな!」と怒鳴られてしまった。
いや、それよりも驚くのは上司である碧井桜子がこの場にいることだ。真っ赤なスーツに流れるような金髪な彼女は、つくづくこの居酒屋に似つかわしくなく浮いている。
「どうしたとは随分なご挨拶じゃねーか。アタシだってたまにはこういう所で酒を飲みたくなるもんだぜ」
「組織の長たる人間にふさわしい場所で飲んでくださいよ。ここは40代の疲れたオッサンが飲みに来るぐらいで丁度いいんですがねー」
カウンターに座っていた自分の隣に桜子が腰掛けて酒とつまみを注文する。自分から見てもはたから見てもおかしな組み合わせだ。といっても、こんな居酒屋で飲んでいる連中は他の客なんて大して気にしないから気が楽でいい。
「はっ。どこで飲もうがアタシの勝手だよ。それに美人なねーちゃんが隣にいてやってんだ。泣いて喜ぶところだろ?」
「はぁ。少しはご自分の歳を考えてくださいよ」
「あ”? 何か言ったかてめぇ?」
「……いや〜美人上司と飲めてこの銭形至福の極みでございます」
殺されるんじゃないかと思うぐらい、とんでもない殺気だった。
思わず年齢に対して口が滑ったが今後気を付けなければ深く反省する。
上司の年齢を聞いて人生を棒に振るなんて間違っている。
そして、桜子の酒が来たので「乾杯」とグラスを合わせてグイッと飲む。
「それで娯楽屋は依頼を受けたか?」
「えぇ。滞りなく」
「よし。これでちったぁ面白くなんだろ」
ここに桜子が来た時点で気付いてはいた。
桜子が今回銭形にルピン捕獲についての依頼を娯楽屋に出すように命令したのだ。理由については命令の時点で聞いていないが、恐らく相当腕が立つ人間であることは見当が付いていた。
「しかし、<娯楽屋>の久遠君ってそんな強いんですか?」
「ん? 強いよ。お、銭形ちゃんグラスが空じゃねーか。ほれ」
「あ、こりゃどうも。じゃあ、ご返杯っと」
「おう。っかぁ〜うめぇな!」
あっさりと桜子が久遠のことを「強い」断言した。
それだけで、今日出会った久遠健太がかなり強い人間なのはわかった。
ただ、問題あがあるとしたら銭形が久遠とルピンのどちらがより強いのか——その一点に関しては強さの定規が違いすぎて測れないでいることだろう。
「どうも歳のせいか未だに現実感がないんですよねー」
「そりゃあれだけコテンパンにやられたらな」
あの悪夢みたいな出来事を引き起こした怪盗ルピン。
未だに夢なんじゃないかと疑いたくなるぐらい——銭形にとってそれは現実味のない物語のような事件となっていた。いっそ夢だったらと思いたいぐらいなのに、日々の報告書で書いている数字が嫌が応にも現実を教えてくる。
「……ちなみに、責任者自分なわけですが怒らないんですか?」
「アホか。経費度外視の警備計画立案してあの結果だったら誰がやっても同じだよ。それでゴチャゴチャ言う奴がいたら泣きついていいぞ。黙らせるから」
「頼もしすぎてオッサン本当に泣きつきますよ」
桜子は恐ろしいまでに現実主義だ。
本来なら責任者であった銭形は警備失敗の責任を取らされる立場であるはずなのに——実際責任を負わせる声は多い——桜子は咎めないでいた。
自分が気に入られているとかそういうわけではないことを銭形は知っている。
それ故に責任を取らなくてラッキーと思うよりも遥かに、自分自身への不甲斐なさに泣きたくなって、ここで酒を飲んでいたのだ。そのせいなのか、はたまたアルコールが入っていたせいなのか、今日は口元が随分とゆるくなってしまっていた。
「——自分の名前が『銭形』っていうこともあって、少しは気合入れてたんですよね」
「はは。自分語りいいねぇ〜。いいぜ。部下の愚痴を聞くのは上司の仕事のうちだ」
まったくありがたい限りである。
お言葉に甘えて銭形はグイッと酒を煽り、本格的に話し始める。
「ありがとうございます。まぁ、名前が警察入った動機なのは今更言うまでもないんですがね。そんな俺がいるところに『ルピン』ですよ? 何かもう運命感じましてね。年甲斐もなくはしゃいじゃったわけですよ」
ハァと深く息を吐いた。
認めなければらならない。正直、銭形は浮かれていた。浮かれきっていた。ルピンという名前の怪盗が現れたことで銭形である自分がライバルとして捕まえなければならない——なんて使命感すら抱いていた。
その使命感の結果があの大掛かりな警備計画なのだ。それをルピンの圧倒的な力によって打ち破られてしまい、警察組織の貴重な人員に怪我を負わせる事態になってしまった。損害や補償を考えたらどれだけの損失なのか考えるだけで頭が痛くなってくる。
「それで部下を全滅させたもんですから、本当、なんかもう申し訳ないやら恥ずかしいやらで、オッサンいたたまれないですよ」
「かかっ。ちっとは上に立つものの苦労ってのがわかったじゃねーか」
苦労とかそういうレベルじゃない。
胃に穴があきそうだ。
銭形のレベルでそれなのだから、桜子の立場となったらどれほどのものなのか想像すらできない。まぁ、桜子のメンタルならばそれさえも楽しみそうであるので、やはり上に立つものというのは立つべくして立つものだと実感した。
「親父。この店で一番いい酒出してくれ。あと、出し巻き卵頼む。まぁ、こういう時はいい酒の一つでも飲んで忘れるもんだ。安心しろアタシのおごりだから」
「それじゃ遠慮なく」
普段は飲まない一番高価な酒がドンと目の前に置かれた。
グラスに溢れるぐらいに注がれ、口元を近づけてから喉に流し込む。カッと熱いものを感じながら舌に残る清流のような味わいは格別なものがあった。
「染み渡りますねぇ。美人上司の奢りだと特に」
「煽ててもこれっきりだからな」
「はは。こりゃまた手厳しい」
その後の二人は飲み続けた。
塩辛いものを食べては飲む。
漬物を食べては飲む。
魚を食べては飲む。
どうしてこうも酒というのは際限なく飲み続けることができるのか。特に塩っ気のある料理を食べると益々美味しくなる。
「いい感じに酔いも回ってきたな〜」
「そんだけ飲んでいい感じなのがすごいですね」
銭形はある程度酒量を考えながら、酒の味を楽しんだのでそこそこ抑えていたが、隣の桜子の酒量はもう瓶で何本飲んだのかわからない。若い頃であってもあれだけ飲んでいれば吐いている自信があるほどの量を飲んで、桜子はケロッとしている。
後は〆に茶漬けか何かを頼んでお開きだろうと思っていたら、
「あぁ、そんで銭形ちゃん。一つ相談っつーか聞きたいことがあるんだよ」
桜子がそう言った。
「何ですか? 借金と恋愛相談は別の人を紹介しますよ」
「アホか。誰がくたびれたオッサンにそんな相談するか」
そりゃそうだと苦笑する。
酔っているせいかどうも頭が回らない。
なので、また明日聞かせてくれないかと言おうとしたら、
「怪盗ルピンに勝ちたくね?」
その一言で銭形の酔いが完全に覚めてしまった。
つくづく桜子と飲む酒は——まるで油断ができない。




