賽ノ目双六
快晴であるはずなのに、空がどんよりと薄暗く見える。
いや、薄暗くどんよりとしているのは自分の心だ。
楽々高校屋上のベンチで、双六はぼーっと空を見上げならがそんなことをずっと考えていた。我ながらわかりやすい落ち込み方であると自嘲の笑いを上げたくなる。
「やる気。出ないなぁ……」
ハァとしみじみと深く息を吐いた。
原因はわかっている。
遊園地で虎徹正義に負けたこと——では決してない。
そもそもの話、賽ノ目双六にとって「負け」とは特別なことではない。
負けは日常的に起こってきたものだ。
短くも長くもない人生の中であるが、負けに対して折り合いをつける術ぐらいとうに身につけている。それでも負ければ悔しいし落ち込んだりもする。
では、双六が負け続けてきた人生を送ってきたかといえばそうではない。
小学生、中学時代を送ってくれば体育祭やクラブ活動といったことで勝ちもしてきた。時には個人プレイではともかくチームプレイでは優勝することだってあった。
勝ちもあれば負けもあった。
負けもあれば勝ちもあった。
時には引き分けだってあった。
それが特別なことかと言われれば、何一つ特別でさえないと言い切れる。
双六と同じような経験をしてきた人物を探せば、街で声を掛ければいくらでもいるだろう。10人いれば9人ぐらいはいても何もおかしくはない経験だ。
——普通な人間が送る普通な毎日。
そして、それこそが双六を落ち込ませている原因でもある。
「本当、泣きたいぐらい情けない」
でも、何一つ自分の瞳からは涙が出る素振りさえない。心の中は豪雨だというのに、目元までその雨が辿り着きさえしない。いっそのこと泣けたら楽なのに泣くことさえできない。
だから、遊園地から数日が経った今でさえ、こうして思い返しては落ち込んでいる。
あの日、虎徹正義に双六が抱いていた劣等感を全て暴かれた。
久遠に対する憧れに嫉妬——共にいるだけで狂いそうになるほど双六はそれらを身近に感じていた。なのに、逃げることさえもできずに久遠のそばに居続け、彼を楽しむことで自分の感情に折り合いをつけていた。
所詮は自分は普通な人間なのだからと言い聞かせて、自分では届くことのない領域にいる久遠を楽しむことで、双六は「楽しい」と言い続けていた。
それら全は幻想だというのに。
道化師のように双六は楽しいと笑っていた。
今更ながら本当に滑稽だと思っている。
普通な自分は異常な久遠には決して追いつけない。
そう思っていたし今でもそう思っている。
それなのに。
それなのに、そんな久遠にあの虎徹正義は勝ってしまった。
双六がそれを知ったのはイベントが終わった後で、久遠の口から直接聞かされた。
——悪いな双六。負けて賞金もらえなくなっちまった。
負けて賞金がもらえなくなるなんてことは別にショックでもなんでもなかった。
むしろ、気がかりだったのは久遠が負けたという事実に対してだ。
おそらくは、弟の虎徹真理にでも負けたのかと思ったが、真理には勝ったが正義には負けたと聞いて耳が遠くなったのかと思った。
どんなことがあって負けたのかを聞いても、久遠はそのこと自体は聞いても教えてくれなかった。ただ負けたと告げただけだ。
同じモニターであり、同じ境遇にあるはずの虎徹正義が勝った。
普通な虎徹が、異常な久遠に勝った。
その事実が双六を落ち込ませる最大の原因だ。
これからどうしようかな——そう思っていたら、
「こんなところにいやがったのカァ。双六君」
「……天音さん」
彼女である天野天音が屋上にやってきた。放課後の屋上は人気がなく誰もいないためか、ジーニモードとなっている。今は「そっち側の人間」に会いたくなかったので、少しだけ億劫な気持ちになった。
「探したゼェ。といっても、双六君の行動パターンは大体読めるから一発目でわかったけどな」
「はは。僕ってば愛されてますねぇ」
「あぁ、お父さんの次ぐらいには愛しているナァ」
「それはありがとうございます」
まさか行動パターンを読まれているとは思わなかった。
あまり屋上には来ないのに、何故分かったのか気になるところではあるが、相手は天才なので気にしたところで意味はないだろう。
「んで、何を落ち込んでいるんだ?」
「別に……大したことじゃないですよ」
周りから見れば大したことのない悩みだ。
嘘は言っていない。
「ふーん、大したことないネェ〜」
「えぇ」
「私には理解できないことか?」
「多分、無理だと思います」
「そうか」
連れない態度でそう言った。
天才である天野には理解できないことだろう。
凡人が天才のことを理解できないように。
天才は凡人のことを理解することはできない。
これで話は終わりだろうと黙っていたら、天音は双六の前に立ち、覗き込むようにそっと顔を引き寄せた。
「あぁ。良い目をしてきたナァ。お父さんに似てきた感じがする」
「そう、ですか」
天音という天才性を有した娘を恐れて死んだ父と似てきた。
そう言われて双六は——心が鈍く痛んだ。
彼女と付き合えばこうなることはわかっていたはずだ。
それでも——傷つくことには変わりなかった。
そして、彼女は引き寄せた双六に自分の顔を近づけ、
「んっ」
キスをした。
軽めのキスではなく、舌を絡めるディープな方だ。
ファーストキスならぬファーストディープキスだ。
なのに、双六の心もしくは性欲は凪の海のように穏やかなままだった。
むしろ、頭の片隅では「早く終わらないかな」とすら思っていた。
「プハァ」
天音のなすがままにキスをされようやく解放された。
上気したように赤らんだ頬が妙に艶めかしく、彼女の「女」を強く感じさせた。
「愛してるゼェ。双六君」
「はは……僕もですよ」
その言葉は恐らく、いや、確実に双六に向けた言葉ではない。
双六を通した父親に向けての——言葉だ。
そして、満足したのか彼女は屋上から出て行き、双六はまた一人ぽつんと残った。
それから10分ほど経っただろうか。
またしても屋上の扉が開いた音がした。
人気はないと思っていても、それでも屋上に人は来るのかと考えていたら、どうやら入ってきたのは自分のよく知る人物だった。
「おーい。何を一人で黄昏てんだ?」
「アツシ……」
いつも一緒につるんでいるアツシがやって来た。
「空見て溜息とかどこの少女漫画の主人公かと思ったぞ」
「アツシが絶対になれないものだね」
「なるよ! むしろ、プチハの主になる男だぞ俺は!?」
「本当に君は残念系主人公だな」
一人で落ち込んでいるとダメだとよく聞くが確かにその通りだ。
アツシと会った途端、さっきまで落ち込んでいたことが嘘のように口が回る。
丁度、天音には追い打ちかけられていたこともあって、すごく馬鹿なことをやりたい気分になってきた。
「ったく、お前は本当にさぁ〜。まぁいいわ。ほれ」
「何これって、うまい棒?」
がさっとうまい棒だけ入った袋を渡された。
「前に言っただろ。うまい棒やるって」
「1本分かと思ったら10本分とか太っ腹だね」
「ふふん。俺の器のでかさを思い知るがいい」
ものすごく自慢げに恩着せがましいことを言われてしまった。
というか、うまい棒の味が10本全部バラバラだったので、実はあまり好きではない味もあった。時々、駄菓子系は消費者でさえ予想もしなかった味を出す場合があり、とりあえず、それはアツシに進呈することに決めた。
「サンキュ。じゃあ、僕からお礼にアドバイスね。——だから、彼女ができないんだよ」
たかだか100円分程度で男の器を語る友人。
誰がどう見ても器の大きさを感じさせないところが凄い。
これで彼女ができるようなら、その彼女はよっぽどのうまい棒が好きな彼女に違いない。
縁の切れ目が金の切れ目ではなく、うまい棒の切れ目が彼女の切れ目になりそうだ。
「うぉい! 女にはもっと貢に決まってるだろ!?」
「はっはー! 馬鹿だなアツシは。できる男は女に貢がせる!」
「た、確かに! そうか。俺に足りなかったのはその要素だったのか!」
「そうだよアツシ。男は貢んじゃない。貢がせるんだよ!」
「なるほど一理ある。——で、お前は天野さんに貢がせているのか?」
「何を言ってんの。無理に決まってるでしょ。アツシはバカなの?」
「お前が言ったことだろうが!」
ハーレムを築きたい男と彼女持ちの彼氏を一緒にして欲しくない。
そもそも、天音は貢こそしないが双六のことを翻弄してくるので、それだけで手一杯である。それこそ貢げといっても、プラチナランクの彼女のことだ。札束を持ち出して頬を叩いても何らおかしくはない。
「まぁいいわ。しけたツラしてるから何かと思えば大丈夫そうだな」
「あれ? 心配かけちゃった」
そこまで顔に出していただろうか。
結構、アツシはそういうところが聡いので、顔に出していなくても気づかれたのかもしれない。
「ばーか。野郎の心配なんか誰がするか。俺が心配するのは女の子だけだ」
「アツシ……。どうしてその気遣いが女の子にできないの?」
「心配ぐらい素直に受けとれよ!」
「ははは。ありがとう。元気出ていたよ」
「じゃあ、今度なんかおごれよ」
「オッケー。アツシが女の子にフラれたらおごるよ」
「そこは普通におごれよ!?」
そして、アツシは「やれやれ」と言って帰って行った。
グッと背筋を伸ばして空を見る。
さっきまで淀んで見えていた空が少し澄んで見えるようになってきた。
「よし。そろそろ帰るか」
いい気分転換になった。
元の調子とまではいかないが、随分マシになった気がする。
今後のことを考えられる余裕も出てきたので、後のことは家に帰ってからまた考えようと楽々高校の校門を出ようとした時に、
「——あぁ、そこの少年。すまないが楽々大学の教員棟がどこにあるか教えてくれないだろうか?」
信じられないくらいの美人に声をかけられた。
アツシではないが、思わず双六もマジマジと見てしまうぐらいの美貌だ。
「え、あぁ、はい。いいですよ」
「ありがとう。ここの校舎は高校と隣接して無駄に広いからわかりづらくてね」
確かに楽々高校と大学は隣接しており敷地面積はかなりのものだ。
案内板はあるものの、初見の人では迷ってしまうのも無理はない。
「いえ、お気になさらず。良かったら案内しましょうか?」
「それはありがたい。是非お願いするよ」
ニコリと笑う彼女に思わずドキッとした。
天音とも違う大人の女性とはあまり接したことがないから余計に新鮮な感じがする。
「へぇ、准教授なんですか」
「臨時のだがね。時折、こうして別の大学に頼まれて講師をしている」
道すがら彼女と雑談をする。
年頃は20代だと思うが、その若さで講師として大学で教鞭を取っているのならば、かなり彼女は優秀なのだろう。
知的なメガネのお姉さん。
アツシに言ったらもの凄い嫉妬されそうなシチュエーションだ。
てくてくと歩くこと5分。
目的の教員棟が見えてきた。
「着きました。あそこに見える建物が教員棟です」
「手間をかけさせたね。ありがとう——<娯楽屋>賽ノ目双六君」
娯楽屋。
そう言われた瞬間に、双六は彼女から距離を取った。
「まったく、少しぐらい休ませてもらえませんかね」
ただでさえ不調なのだから勘弁してもらいたい。
美人だと思って気を許したらこれだ。
今後、美人に出会ったら最大限気をつけようと思った。
「そう露骨に警戒しなくても大丈夫だよ。教員棟に用があるのも准教授なのも本当だから。ただまぁ、君に用があって声を掛けたことに変わりはないがね」
苦笑気味に彼女は言った。
——僕に用がある?
思いつくそうな理由はいくつかあるが、警戒は解かないまま話を続ける。
「——お名前聞いてませんでしたね。どうやら、そちらは僕の名前を知っているようですが」
「私は十八一という者だよ。気に入ってはいないが、周りからは<図書屋>という通称で呼ばれている」
その名を聞いて双六は目を見開き驚いた。
「あなたが——あの<図書屋>なんですか?」
「その通りだと言いたいところだが——すまない、私のことは名前で呼んでもらえないかな。その通称あまり好きじゃないんだ」
曰く、全ての本を読み尽くした者である。
曰く、彼女の肉は紙でできている。
曰く、彼女の血はインクでできている。
彼女は本であり、本は彼女であるとまで言われているほどの有名人だ。
「それで十八さんは僕に何の用なんですか?」
「単刀直入に言えば勧誘だよ。ある目的を果たすために仲間が必要でね。君を勧誘しに来た」
勧誘。
その言葉を聞いて、双六はすぐにその目的を察した。
「あぁ、そういうことですか。それで、僕は誰を紹介すればいいんですか? 久遠さんですか? それとも、天音さんですか?」
「ん? 何を言っているんだ君は?」
十八は首を傾げて双六を見た。
どうやら双六の早合点だったみたいで、少し恥ずかしくなった。
「何か誤解しているようだが、私は君個人を勧誘しに来たんだ。その他の連中に関しては別に知らないよ」
そう彼女は言う。
てっきり、双六を通して後ろにいる久遠か天音に連絡を取りたいという意味だと思ったのだ。
だが、彼女は『双六個人』を勧誘しに来たという。
普通の力しか持たない——賽ノ目双六というただの高校生を。
「何で僕なんですか? 娯楽屋のことを調べたらわかっているでしょうが、僕は普通の人間です。久遠さんには能力面で何一つ敵わないですよ。天音さんだって僕なんか及びもつかないぐらいの天才です。その二人を差し置いて僕を勧誘する意味がわかりません」
正直、メリットがまるでない。
モニターである双六に使える力は限定的なプラチナランクの権限までだ。それならば、プラチナランクである十八が欲しがるものではない。
むしろ、双六が欲しいぐらいだ。
「あまり自分を卑下するものではないよ。君が私の仲間になる十分な理由があって声をかけたのだから。君が遊園地で正義屋の片割れと戦う姿を見てピンと来たよ。この子を私の仲間にしたいとね」
あの情けない戦いを見られていたようでゲンナリした。
ますます仲間にする理由が見当たらない。
「……僕にそんな大層な力があるとは思えませんが?」
「あはは。もちろん今の君の力には何も期待していない。だが、今後どうなるかは——未知数だ。そこに期待している」
「未来に期待しているというのなら、今の時点で優れた者を引き込めばいいじゃないですか?」
自分なら間違い無くそうする。
目的を達成するために仲間がほしいのならば、会社のヘッドハンティングよろしく、優れたものを引き込むのは常套手段だ。
「そこは好みの問題だね。私は物語の中でも『最初から最強』より『成長する主人公』の方が好みでね。意外性に富んだキャラが好きなんだ。それにぶっちゃけると、君が先に挙げた二人は優秀すぎて味方にしても面白くなさそうだ。その時点で勝ちが決まってしまうようなチートキャラはいらないんだ」
「あー、それは何となくわかります」
ゲームであれば開始当初から最強キャラがいるようなものだ。
確かにそれは面白くない。
まぁ、自分の成長が未知数だからといって、そこにどれほどの伸び代があるのかは一先ず置いておく。
それよりも大事なのは、
「で、僕があなたの仲間になるメリットは何ですか?」
仲間になることで得られる報酬だ。
勧誘しに来たからと言ってすぐに「はい」と言う馬鹿はいない。
これがアイドルとかの勧誘ならまだしも、初対面の人間が目的もわからずに勧誘しに来たと言っても何も信用できない。
それを覆すほどのメリット。
さて、それをどのように提示するのかと彼女の返答を待っていたら、
「君の劣等感。それを取り除く手伝いをしよう」
予想外の答えが返ってきた。
「より具体的に言おうか。『賽ノ目双六が久遠健太に勝つ』ための手伝いをしよう。ちなみに、これは『できるできない』の話ではなく『君がやるかやらないか』の話だ。さて、どうするかな?」
ドクンと双六の心臓が強く脈打った。
——何を言っている。
——何故、僕が願っていることを知っている。
——あの久遠さんに勝つなんて、そんなことできるわけがない。
——いや、十八ならもしかしたらできるかもしれない。
——あの化け物みたいに強い久遠健太。
——その男に、僕が勝つ?
目まぐるしく変わる自分の思考に混乱した。
「……返事はいつまでに?」
考える時間が欲しかった。
全くとんでもないメリットを提示されたものだ。
こんなとんでもないことに即断なんてできるわけが——
「おや。時間が必要かい? とてもそうは見えないんだがね」
「え?」
そう十八は笑って言った。
「だって——とても楽しそうに笑っているじゃないか」
双六は自分の顔を触って初めてわかった。
笑っていたのだと。
賽ノ目双六は——久遠健太に勝ちたいとずっと思っていたのだと。
わかったらもうどうしようもなかった。




