我慢をすることは最高の瞬間を得るためだ
肌を焦がすような熱気がジリジリと突き刺す。
空へと登る煙は、戦場の硝煙を連想させ今か今かと急かしてくる。
そんな薄暗い部屋の中、正義屋の虎徹正義と真理の二人の兄弟がいた。
いつもならば仲が良い二人であるが、今の二人は対照的な雰囲気だ。ジッと動かずに待っている正義に対し、真理はソワソワとしている。
そんな真理がピクリと動こうとした時に、正義はポツリと言う。
「——格好いい男ってのは我慢もできないとダメだ。わかるか真理?」
「だ、だけど兄ちゃん! 俺もう我慢できねーよ!?」
「馬鹿野郎! その焦りが失敗を呼ぶことを自覚するんだ!!」
これはゲームなんかではない。
戦場なのだ。
たった一つの判断を間違えば、全てを台無しにしてしまうかもしれない状況だ。
その緊張感に耐えきれなくなった弟を兄として正義は止める。
「くっ! ……わかったよ兄ちゃん。俺我慢する!」
「そうだ。それでいいんだ。さすがは俺の弟だ。機を見てじっと待ち続けることも時には必要なんだ」
どうやら弟にもその熱意が伝わってくれたようだ。
もしかしたら我慢する時間は1分に満たないかもしれない。
だが、されど1分。
その1分こそがこの先の明暗を分ける時間となるのだ。
そして、
「……時は来た」
待望の時間が遂に訪れてくれた。
今まで生きていた全ての経験が教えてくれる。
目、鼻、耳の全てがこの時を置いて他にないと訴えてくる。
「キシシ! 兄ちゃん。これが、これがそうなんだな!?」
よくぞ我慢したと弟を賞賛したい気持ちでいっぱいだ。
我慢をしたからこそ、ようやくここに辿り着くことができた。
もう待ちきれないと逸る弟に、正義は笑って言った。
「あぁ、これが最高の焼き加減だ」
ジュージューと焼ける肉の香りが暴力的なまでに食欲を刺戟する。
一滴一滴の脂が下に落ちるたびに「もう食べてもいいんじゃないか?」と何度誘惑したきてことか。
それでも、ここまで耐えきれたのは「美味い肉を最高の状態で食べたい」という欲求にただこれに尽きる。真理は口元がよだれがダラダラと溢れ、左手に持っている白いご飯の上に肉を乗せて食べたいと見せつけるたびに、正義だって我慢を強いられたのだ。
だが、それもここまでだ。
「さぁ食うぞ真理!」
「おう!」
『いただきます!!』
二人揃って目の前にお肉さまに対して頭を下げて頂く。
何せこれはただの焼肉ではないのだ。
遊園地の優勝賞金で行くと決めた高級焼肉店であり、スーパーには決して並ばないようなきめ細やかな脂を持った肉を売りにした焼肉屋だ。
そんな肉を食べて、
「うっま!? 何だこの肉!」
「に、兄ちゃん! 肉って溶けるもんだっけ!?」
「お、おう。兄ちゃんも驚いている。高い肉は溶けるとかコメンテーターの誇張だと思っていたが本当だったんだな」
二人は最大級の感動を文字通り味わっていた。
最初の一口目以降は焼き加減もそれなりに、豊富な種類の肉を次々と放り込んでは口の中に放り込んでいった。
肉を食ったらご飯。
ご飯を食ったら肉。
口の中がくどくなったら野菜。
その止まらない焼肉スパイラルに二人は嬉々として挑んでいく。
「ご飯が! ご飯が何杯でもいけるよ兄ちゃん!!」
「くそ! 野菜までもうまいとかどうなってんだこの店!?」
そう言いつつ二人はガツガツと食べていった。
数十分後、満腹になった二人は満足げにお茶を飲んで一服していた。
「さすがは1人前10万円の焼肉だったNA〜……」
「兄ちゃん。俺今なら肉になってもいい……」
そのお肉は兄ちゃんが全て買う。絶対にだ。
そんなことをバカなこと考えていたら——ポケットにある仕事用の携帯がブルブルと鳴った。
「っと電話だ。ちょっと出てくるな真理」
「お〜わかったよ〜」
仕事に関する電話はあまり真理の近くではしないようにしている。
金銭絡みに関する話はまだ子供の真理に聞かせたくはない。
「はい。こちら正義屋。ユーアーどちらさん?」
肉を食ってまったりしたせいかいつもの覇気は無い。
あるのは満腹感だけだ。
だが、そんな中にピリリと身が引き締まる声が耳元から聞こえた。
『私だ馬鹿野郎』
そのドスの効いた一言で頭の中が強制的に仕事用に戻された。
「ってボスですよね! HAHAHA!」
正義屋直属のボス——碧井桜子。
どこの誰よりも苛烈な女性だと思っている正義は、見えてはいないのに背筋を引き延ばして姿勢を正した。
「で、要件何ですか? 俺も真理も怪我しているんで仕事は当分無理ですよ」
遊園地で娯楽屋である久遠と喧嘩をした怪我が治っていない。
というか、そもそも娯楽屋が優勝して、そいつと喧嘩してこいと言った張本人がボスなのだから、多少は気遣って欲しいと切に願う。
『知ってるよ。今日は部下の労いの電話だよ』
思いがけない言葉に正義は驚いた。
次の仕事の話だと思っていたら労いとは珍しいこともあるものだ。
「どんな風の吹き回しですか? その優しさがおっかないんですけど」
『あん? 私ほど優しい上司この世にいないだろうが』
いるよ。超いるよ。
あんたは「優しい」が全て「厳しい」に変換される上司だろと言いたいが、言ったらまた優しくされそうなので下手なことは言わない。
『まぁいい。よく娯楽屋に勝った。優秀な部下を持って私は鼻が高いぞ!』
全く褒めてない。
むしろ、自分を褒めている。
ただまぁ、上機嫌なボスの機嫌を損ねることもないだろうスルーする。
「紙一重でしたけどね」
『その紙一枚分がデケェんだよ』
確かにと思う。
元々は真理が勝つと思っていたのだ。
だが、そんな真理が自分よりも強い男と出会い負けた。
その事実が最後まで正義を意地で立たせていたのだから。
決して破れないでかい紙一重だ。
『おかげで、こっちもかなり稼がせてもらった』
「あ〜、やっぱりか。このイベントって競馬形式でした?」
『お、気づいてたか?』
最初からではないが気づくことはできた。
あれだけの娯楽稼業の連中がたかだか1000万円のイベントにこぞって参加していたのだ。否が応でも気づく。
「そりゃね。優勝賞金の1000万は小金目当ての出走馬。本当のイベントは馬に賭けている側ってことで合ってます?」
『大体な。賭けるのは自分の出した馬のみに限られるがな』
裏の事情は知らなかったのでなるほどと頷く。
勝率を少しでも上げようと送り込んだから、あれだけの参加者が集まったのかと今更のように納得した。
「だったら、俺らにボーナスくれませんかね?」
『優勝賞金がそのままボーナスだ』
「ひどっ!? がんばったのこっちでしょ!?」
どう考えても優勝賞金が端額だと思える金が動いていたはずだ。
少しぐらい上乗せしてもいいだろうと訴えてみる。
『だから、怪我治るまで休んでていいぞ。それとも仕事するか?』
「休暇でぜひお願いします」
今の状態で仕事なんて冗談じゃない。
仕事をしろと言われたら死ねるレベルだ。
『くく、素直だねぇ〜。次の仕事はまたこっちから連絡する。それまでにたらふく飯食って怪我治しておきな』
「了解。ボス」
とりあえずは休めそうだとホッとする。
真理はともかく正義の方の怪我は簡単に治るようなものじゃないから、時間ができたことは素直に喜ばしい。
そして、真理のいる個室に戻り再度肉でも食おうと持ったら、
「お、兄ちゃん電話終わったのか?」
「あぁ。しばらく休んでていいってよ——って何食ってるんだ?」
明らかに弟が焼肉屋に不釣り合いなものを食っていた。
繊細な飾り付けが施されたケーキにアイスが並んでいた。
どう考えても焼肉屋に出される類のデザートではない。
「デザートのケーキ。ここ焼肉屋なのにパティシエもいるんだって」
「素直にスイーツ屋で働けよ」
どんな差別化を図っているんだ。
しかし、旨そうに食べている真理を見ていると、自分も気になって食べてみた。果物の甘みもさることながら、スポンジのしっとり具合と生クリームとの絶妙な甘さがこれでもかと押し寄せてくる。
おかげで、先ほどまで食べていた焼肉の後の甘みの満足度も完全に満たされてしまった。次もまたここへ来ようと密かに決めた。
「そういや兄ちゃん。怪我の調子はどう?」
「ん? まだ完治には時間が掛かりそうだな」
見た目にはわからないが、服の下には固定用のサポーターをつけている。
久遠の一撃で骨までいってしまったので、くっつくまではこの状態だ。
「そっか。久遠のアンちゃんの拳すげー痛いもんな」
「痛いで済むレベルじゃなかったけどな」
本気で一撃で終わるかと思った拳だ。
正直、あれをもう一度喰らいたいはとは全く思えない。
「でも兄ちゃん勝ったんだろ?」
「まぁな」
「キシシ。さすがだな兄ちゃんは!」
実力でいえば完全に負けていた。
そんなことは真理もわかって言っている。
あの喧嘩はいわば互いの意地を押し通した者が勝ちというものだった。もしも、久遠があの時どうしても譲れないものがあったのだとしたら勝敗は逆になっていただろう。
だが、それでもだ。
それでも正義は最後まで意地を突き通したと胸を張って言える。
だから、そんな自分の行動が一欠片で真理に伝わっていればいいと思う。
そう思っていたら、
「でも、俺——いつか兄ちゃん超えるぐらい格好よくなるぜ!」
いつもの「キシシ!」と人を食ったように笑って言った。
兄を越えてみせると。
その一言が弟の口から出てきた。
かつて、真理は『眼』の力に怯えた。
かつて、真理は『眼』の力を疎んだ。
かつて、真理は『眼』の力を恨んだ。
そんな、弱々しく俯いて「兄ちゃんみたいになりたい」と言った頃の弟の姿はどこにもなかった。
まったく、この弟は。
本当に兄を幸せにする天才なのではないかとつくづく思ってしまう。
だから、
「ばーか。そう簡単に兄ちゃんは越えさせねぇよ」
「キシシ。それでこそ俺の兄ちゃんだ!」
正義はこれからも堂々と胸を張って生きるだろう。
弟が目指す壁がさらに高くなるように。
弟が越えた壁は、確かに超えるだけの価値があったのだと言えるように。
正義はこれからも格好良く生きたいと強く思った。




