娯楽屋VS正義屋の決着!
少なくとも今まで生きていた中で自分に匹敵する人間はいなかった。
この『眼』の力のせいで、あるいは力のおかげでケンカに負けたことなんてない。相手の動きなんて丸見えなのだから当然の結果だ。
ゲームや賭け事をしても、真理の類稀なる動体視力を前にしてみれば動いていないも同然であり、言葉通り『視認』してから自分が動けばいいだけなのだからイージーにも程があった。
——止まったように見える世界。
それが真理にとっての世界であった。
そんな停止した世界で動けるのは自分だけなのだから、大抵は思うがままにすることができた。
こないだのチンケなヤクザの若頭なんて隙だらけで、背広の中に仕舞っていたナイフと銃を奪ったら笑えるぐらい情けない姿を見せた。
なのに。
それなのにだ。
今目の前にいる男は真理の世界を——壊してしまった。
「……キシシ! アンちゃん本当につえ〜なぁ!」
久遠と喧嘩をしてどのくらい程度の時間が経ったのかすらわからない。
そんなこともわからないぐらい熱中していた。
「お前もな」
久遠の姿を見れば多数の切り傷が刻まれていた。
かくいう真理は傷らしい傷は目に見えないが、久遠との度重なる激突による打撲によって体力が決定的に削られていた。いや、それ以上に一撃でもまともに食らえば終わるという緊張感も相まって、身体が鉛でも付けたかのように重く感じる。
それとは対照的に久遠は傷こそ真理より多く見えるが、どれも決定的と呼べるほどのものではなく、むしろ余裕さえ見て取れる。
これ以上の戦いは——不利だ。
そう悟った真理は決断した。
「オリャァァァァァ——————!!」
弾丸のように鋭く前へ踏み出した。
小細工はもはや不要だ。
全身全霊、残された全ての力を振り絞って加速する。
久遠は動かず、真理が自分の間合いに踏み込んだら迎撃する構えだ。
勝負は交差する一瞬。
久遠が放つ拳を躱せるかどうか——そこに尽きる。
彼の間合いまで三歩まで来た。
残り三、二、一、零。
寸分違わず真理が間合いに入った瞬間に久遠の拳が放たれた。
何も問題はない。
真理の眼には久遠の拳は見えている。筋繊維、骨格、血管、全ての要素からどこにどう拳が来るのか、一瞬先の未来はわかっている。
わかっている。
わかっているはずなのに。
真理の身体が未来に——付いて来れなかった。
「ガァッ……!」
吸い込まれるように打たれた拳が肩に当たった。
腕から肩にかけて消えたかのように錯覚する程の衝撃が走り宙を舞った。
呼吸がひどく乱れうまく空気を吸い込めない。
——苦しくて辛い。
ひんやりと感じる地面の冷たさが心地よく感じる。
このまま眠るように意識を手放したら、どれだけ気持ちいいのだろうか?
そんな甘い誘惑が真理を誘う。
そして、ゆっくりと瞼を下ろそうとして——真理は唇を噛みきった。
「ぐっ! ……っんの、まだだ!!」
口内に溢れる鉄臭い血の味が教えてくれる。
このまま終わっていいわけがない、と。
片方の腕はまともに動かない。
ならば、もう片方の腕を使い、ガクガクと震える脚に無理やり気合を入れて、全身の力を使って——ようやく起き上がった。
「キシシ。お楽しみはまだこれからだぜ?」
途方もない倦怠感と疲労。
ピクリとも動かない片腕。
そんな状態であってもなお真理は笑ってやった。強がってやった。
まだまだ終わってなんかやるものかと。
だけど、
「もうやめておけ。気づいてんだろ?」
久遠はその全てを見抜いていた。
喧嘩を始めた時のようなパフォーマンスを保てるだけの体力はすでになく、ガタイの良い久遠の体力は有り余っている。
勝負なんてもう見えている。
決着なんてすでに決している。
そんなことわかりすぎるぐらい、わかっている。
——だが、それがどうした?
真理が憧れた世界一格好良い男なら絶対にこう言うはずだ。
「っせーよ! 強い野郎を前に尻尾巻いて逃げるなんて格好悪い真似死んでもしねぇ!!」
どんなに苦しくても。
どんなに辛くても。
どんなに逃げたくても。
兄はいつも胸を張って堂々としていた。
それを知っているから、弟の自分が格好悪い真似なんてできるわけがなかった。
「——名前」
ポツリと久遠が呟くように言った。
「チビ。お前の名前を教えろ」
今までチビとしか言ってこなかった久遠が名前を聞いてきた。
——認めてみせろよ。
喧嘩を始めた時のことがはるか昔のように思える。
けれど。
とうとう、久遠に自分のことを認めさせることができた。
「虎徹真理。世界で二番目に格好良い男の名前だ。覚えてろ!」
「もう覚えたよ。真理」
それが最後の足掻きだった。
名乗り上げた後、真理はフラリと脚の力が無くなり体を支えられなくなった。
そして、フラリと後ろに倒れそうになって——
「男前の面になったじゃねーか。真理」
背中に大きく温かな兄の手が支えてくれた。
ボコボコにされた弟の顔を見て、兄はいじわるそうにニヤリと笑ってそう言った。
「キシシ。だろ?」
だから、自分だって殴られてヒリヒリするけれど、我慢してニヤリと笑って男前の顔を自慢するように見せてやった。
どうだカッコイイだろって。
兄に見せつけてやった。
そして、兄は「少し待ってろ」と言って、真理をそっと座らせた。
「おーいケンタ君。肩のこれ取りに来てくれない?」
正義が肩に担いでいた双六を指差す。
何があったかのかは知らないが、完全に気を失っているらしくグッタリとしていた。
その様子を見て久遠は「やれやれ」と言って近づいてきた。
「……一応聞くが何やったんだ?」
「ま、人生の先輩からの説教ってとこだな。どう育つかは知らないけどな!」
「ったく、こいつは何やってんだか…」
仕方がないと久遠はヒョイと正義から受け取った双六を担いだ。
荷物の受け取りが終わった正義は改めて真理に向かい合う。
「ごめん兄ちゃん。負けちまった」
「そっか」
自信満々に出て行った結果負けてしまった。
言い訳のしようもなく結果だけを兄に告げる。
そして、兄は何も言わずに弟の頭を撫で、
「んで、楽しかったか?」
そう言った。
馬鹿みたいにはしゃいでナイフを振り回し、思うがままに駆け回り、死ぬかもしれないと思うような拳や蹴りによる緊張感の末に負けたのだ。
そんなの言われなくても答えなんか決まっている。
「キシシ。最高にな!!」
またあんな喧嘩をしたいと血が滾るほどに楽しかった。
でも、負けたことだけは悔しかった。
「だったら次は?」
「必ず勝つ!!」
兄が差し出した拳に自分の拳を合わせて宣言した。
負けないじゃなく。
必ず勝つと。
「よし! 後のことは兄ちゃんに任せとけ」
「任せたぜ!」
さすがに限界だった真理は目を閉じた。
後のことの心配なんて——何一つせず安心してグッスリと眠った。
◆
「つーわけで選手交代だ」
真理を介抱した後、虎徹正義がそう言った。
仕方がないと、久遠は気を失っている双六を建物の陰に置いた。
「っと、その前にこれ返しておくな」
正義がポケットから何かを取り出し、それを久遠に向かって投げた。
受け取ったそれを見れば、正義たちに奪われていた優勝メダルであった。
「いいのか?」
何しろ賞金1000万円分のメダルだ。
久遠としては願ったり叶ったりだが、これから戦おうとしている相手が手放した理由がわからない。
「真理がやるって言って負けたんだ。それはケンタ君のもんだよ」
「なら、なおさら俺と戦う意味ねーだろ?」
正義の中ではメダル争奪戦の勝負は着いているらしいが、余計に正義が自分と戦う理由がない。
「弟に後は任せろって言っちまったからな〜。お兄ちゃん頑張らないといかんわけよ」
「そうか」
どうやら向こうには向こうの理由があるらしい。
そういう手合いは今までにもいたので、断る方が面倒だ。
「それに二人の楽しそうな様子見たら俺も喧嘩したくなっちゃった☆」
冗談めかしたように正義は言った。
その一言を聞いた久遠は、
「——楽しい?」
かつてない程の戸惑いを覚えた。
「おう。二人とも笑って戦い合ってたZE!」
「あぁ、そうか。俺は『楽しかった』のか……」
ようやくあの感情の正体が分かった。
手足が妙に軽くて、地に足が着かないようにフワフワして、この時がずっと続けばいいなと思ったあれこそが——楽しいだった。
あれだけ普通になりたいと願っていたのに。
やはり、こういったことに巻き込まれ、自分の拳を振るえる状況になれば気分がスッとしてしまう。
本当にどうしようもない人間だと——自分を嗤いたくなる。
「あ〜、何だ。もしかしてケンタ君は——『普通』に憧れているクチかい?」
「……何でわかった?」
今考えていたことが当てられて驚いた。
どうも真理だけでなく、正義とも話していると調子が狂う。
「真理が——弟がいるから、なんとなくな」
「あぁ、なるほどな」
考えてみれば真理も小さいながらもあれだけの力を持っていたのだ。
久遠と同じような環境にいることは容易に想像がついた。
「だから双六といるのかい?」
「まぁな。あいつといれば俺みたいな奴でも『普通』がわかると思ってな」
「双六も救われないねぇ〜」
前にジーニである天野にも言ったことだ。
双六は久遠を見て楽しんでいているのと同じように、久遠もまた双六を見て普通の人間の在り方を理解しようとしていた。
互いにメリットがあるからこそ、久遠は双六と組んでいるのだ。
「ケンタ君。アンタに一つだけ忠告しておくぜ。『普通』にアンタの求めるものは何もねぇよ」
「……何でお前にそんなことがわかる?」
聞き捨てならない久遠の言葉に噛み付いた。
こんなにも普通を渇望している久遠にとっては看過できないことだ。
「わかるさ。俺だって双六と同じ『普通』の人間だからな」
「だったら、俺と戦って無事に済むわけないことはわかってるだろ?」
「十分にな」
何しろ久遠と同程度に戦えた真理が身近にいるのだ。
その弟よりも正義は確実に身体能力面的には劣る。戦闘技術があっても、それを覆すだけの、捩じ伏せるだけの能力を有しているからこその異常な人間たちだ。
やめるなら今の内だと——そう言おうとしたら、
「それ以上言葉はいらねーよ。男が喧嘩しようって口説いてんだ。断るのかい?」
「……悪い。無粋だったな」
覚悟を決めた男を前にして、やめようだなんて言えなかった。
ならば、久遠もまた覚悟を決めた。
「ルールは?」
「さっきと同じだZE」
「一発で終わらせてやるよ」
「そりゃまたおっかないねぇ」
久遠と正義が互いに一歩ずつゆっくりと歩む。
別に互いに示し合わせたわけではない。
男と男が殴り合おうといったのだ。
無駄なことは必要ない。
ルール通りぶっ倒れるまで殴り続けるだけだ。
そして、お互いの拳が届く距離にまで届いた瞬間——久遠が先に動いた。
男の勝負に手加減はしない。
久遠はありったけの力を込めて、正義の腹に拳をぶち込んだ。
「グァッ……!!」
これで終わりだ。
久遠が本気で殴って立ち上がった者などいない。
宣言通り一発で終わらせた。
そのはずだったのに——正義はまだ立っていた。
いや、それどころか拳を強く握りしめ、久遠の顔に向かって打ち込んできた。
「クッ!」
正直、ダメージはない。
精々が拳の衝撃で口の中を少し切ったぐらいだ。
だが、それ以上に久遠は驚きに満ちていた。
「何で——倒れない?」
正義の脚はガクガクと震えていた。
立っているのがやっとどころではない。久遠は自分が殴ったらどうなるかなんて良くわかっている。確実に相手を沈めるに足るだけの強さで殴ったのだ。
なのに、虎徹正義は立っていた。
「……弟の前では世界一格好良い兄貴でいるって決めたからなぁ」
だから「倒れられないんだよ」と正義は言った。
ルールは相手が倒れるまでだ。
もう一発久遠が殴れば終わるだろう。
けれど、久遠は正義のことを殴れずにいた。
そして、正義はジリジリと久遠に駆け寄り、胸ぐらを掴んだ。
「真理は確かに異常な力を持ってる」
ギリリと正義はさらに力を込めた。
まるで、そうしていないと立ってられないかのように。
「そのせいで、あいつは子供の頃から独りでさ、俺みたいな『普通』の人間に憧れを持っちまった」
——真理も自分と同じだった?
いや、それはおかしいと久遠は思った。
少なくとも久遠のような後ろめたさや、異常な力に対する劣等感みたいなものは微塵も感じられなかった。
「だけどよ……それってすげー格好悪いことだろ?」
普通を目指すことは格好悪い。
それは、久遠にとって胸に突き刺さる一言だった。
「俺は真理に胸張って堂々と笑って、楽しんで、幸せに生きて欲しいと願っている」
幸せに生きて欲しい。その一言は、虎徹正義というよりは弟を心配する兄の一言のように感じた。
誰かの中にいて、誰よりも浮いてしまう弟を心配する優しい兄の姿だ。
「普通だからといって、弱く、下向いて歩くような小さい男になんてなって欲しくないんだよ」
ふと眠っている真理を見た。
少なくとも弱く、下を向いて歩くような小さな男に見えなかった。
「だから、てめーのない頭絞って考えたさ。どうすりゃいいかってな。そして、わかったんだよ」
ドンと正義は久遠の胸に拳を当てた。
「真理が俺に憧れてるんなら、兄貴が格好良く生きればいいんだってな」
それは久遠が考えたこともないことだった。
いつだって久遠が考えていたのは普通になることだった。
いつか自分の異常な力が大切な人を傷つけるかもしれない。
ずっと、そう思っていた。
だから、普通を目指すことだけが、自分の進むべき道だと思っていた。
「頼むよ、ケンタ君。アンタもそんなすげー力持ってんだから、普通なんてチンケなもんに憧れないでくれよ」
悲しそうに正義は笑った。
普通を目指すことは格好悪いことで。
普通を目指すことはチンケなことで。
格好いい男でいてくれと——言われた。
「じゃねーと、真理がアンタと喧嘩して楽しかったことがウソになるじゃねーか」
ふっと目を閉じて思い返す。
真理と喧嘩をしていた時のことを。
久遠が殴ろうとしてもあっさりと躱され、驚くような身のこなしで迫ってきて、何度も何度も笑って立ち向かってきた。
それが楽しくなかったって?
——楽しかったに決まってんだろ。
そんな楽しい一時を共有できた相手が、普通になりたいと言っている。
真理の側から考えた時、相手がそんなことを言ってきたらどう思う?
答えなんて考えるまでもなかった。
「虎徹正義——だったよな?」
「おう」
そう言えば真理の名前は覚えていたが、兄貴の方を呼ぶのはこれが初めてだったなと思った。
最初は、変な奴だと思っていた。
娯楽都市によくいるような人間だと。
でも、全然違った。
「生まれて初めて——俺は他人を格好いいと思った」
素直にそう思う。
今目の前にいる男は、とても格好良かった。
だから、この選択は当然のことだった。
久遠は先ほど渡されたメダルを正義に向かって投げた。
「俺の負けだ。それはアンタ達のもんだ」
パシっと正義はメダルを受け取った。
「いいのかい?」
「二度もダサいこと言わせるなよ」
「違いねぇ。パーっと真理と美味いものでも食うとするよ」
それでいい。
久遠は優勝賞金なんかよりも、遥かに大切なことを教わった。
まぁ、問題があるとしたら双六や天野にどう説明するかぐらいだ。
「正義。真理に伝えておいてくれ。確かにお前は世界で『二番目』に格好良い男だってな」
「はは。あぁ、伝えておくよ」
先ほど置いてきた双六を肩に担ぐ。
この遊園地にはもう用はない。
十分に楽しむことができた。
だから、久遠は心の底から笑って言った。
「またな正義。次は負けねーよ」
「またなケンタ君。安心しろ。次は弟が勝つからな」
そして、それと同時に遊園地側のアナウンスが伝わり鬼ごっこは終了した。
娯楽屋と正義屋の戦いの決着。
それは、世界一格好いい兄によって決められた。




