異常な男と恋した女の子
ガチャリ。ノックもなくドアを開けるのは信頼の証からなのかはわからない。
でも、いつだって互いの関係にノックなど不要だったから、ノックはしないだけだ。
今から入るから入ってもいいか?
じゃなくて。
今からそっち行くからな。
そんな、関係だった。いつだって。今だって。これからだって。
だから、ノックなんてしない。
「よう。狐島」
「およ? ケンケン、どーしたの? どっかーん」
狐島が、ゴムボールを放り投げる。机の上に広がっている街の模型に色とりどりのプラモデルや怪物のフィギュアがガラガラと音を立てて倒れていった。
「後片付けが大変なんだから、その辺にしとけ」
「るーるー。もう、ケンケンは私様のオカンかよー。ぷんぷん!」
「いいから早く片付けろ。落ち着かねぇだろうが」
「あいあいー」
果たして、それを片付けと呼んでよいのか躊躇われるが、大きな空箱の中に乱暴にガサゴソと詰め込んでいる。玩具が壊れないか心配ではあるが、狐島の持ち物なので、そこはとやかく言わないことにしている。
「およよ? ケンケンはまたしゅーかつの帰りかい?」
「あぁ。まぁな」
スーツ姿の久遠を見て、狐島はそんなことを尋ねる。
「ふふー。浮かない顔を見るとまたダメだったよだねー。れーれー」
「うるせー。昨日の今日であんなわけわかんねーことあったんだ。駄目に決まってる」
罰の悪そうに、久遠は顔を背ける。
むしろ、あんなことがあっても就職活動ができる久遠も大概なのだが本人はそのことに気づいてすらいない様子であった。
「そーそー。そのことなんだけどさぁー。あまちゃんは依頼破棄するってさー」
「ふん。そうか」
依頼の破棄と聞いても、久遠は特に気にした様子も見せずに煙草を吸い始める。
決して気にしていないわけではないのだが……これ以上、関わるのはごめんだった。
殺人倶楽部とかいう三人を殴り倒した後、神島が泣き叫んでいた。愛しい恋人の名前を延々と呼び続けていた。
一応は彼女のその行為を止めたわけなのだが、犠牲になった坂月やただ巻き込まれただけの屋久寺もいたことを思うと、やるせなくなるし――後味が悪い。
ずっと、残っているのだ。
人を殴った感触が。纏わりつくように。ずっと残る。
しかも、その感触は――痛くない。身体にも、心にも痛くない。
いや、むしろ。
胸が少しだけスッとした。
胸のつかえが取れたわけではないのに、腹の中にあったモヤモヤが少しだけ消えて。
楽しかった。
……わかっていたはずなのに。
こんなことになるだなんて――ずっとわかっていたはずなのに。
なのに、抜け出せないでいる。いつまでたっても。
本当にきっかけは些細なことだったと思う。
ある日、突然気づかされたのだ。自分は異常な人間だということに。
だから、異常でいるのが嫌だったから、この娯楽都市に来た。この都市ならば、自分という人間を埋もれさせてくれると信じて。
だけど。確かに、この娯楽都市ではおかしい奴はいっぱい溢れかえっている。なのに、自分と同じように、異常な人間は誰もいなかった。イカれた人間と、狂った人間はおぞましいほどにいるのに、異常な人間だけは見当たらなかった。
自分と同じような、異常な人間が……いない。
「なぁ、狐島」
天井に顔を向けて煙を吐き出す久遠は――少しだけ疲れたように言う。
「俺は――異常なのか?」
いつも、そう実感し、他人とのズレを感じる。
周囲に合わせようと努力をしても、周囲から絶対に浮いてしまう自分という異常な存在。
今回の事件だけじゃない。
その前からずっと、その答えを探している。異常とは、自分とは何なのか。
それが知りたい。
「んー? 何かケンケンが真面目に考えてるーるー」
「茶化すな」
「ろー。しゃーないなー。じゃあ、私様も真面目に答えましょうー」
真面目にとか言いながらも、テーブルの上にある一口チョコレートを口に含みながら、狐島は久遠を見て言う。
「一般論〜。異常とはー常識を外れたものー。普通とは異なるものだよねー。るー。ただ、この場合は元となる常識が問題だよねー。あはは。そのせいで戦争は起こるもんねー。俺らの常識がー私の常識がー邪魔だお前ら、ずがががーってさー。相対論相対論。るるー」
互いの常識が違うせいで、互いが普通で互いが異常となる。
確かに、そういったこともあるのだろう。
生まれ育った環境が違えば、それ以外の環境を異常だと思う。
そんな文化を認められない、受け入れられないという、そんな小さいことが許せないせいで、人はすぐに争うことができる。
「れー。ていうか、そもそもふつーっていうのが、難しいよね。勉強だってできる人もいればできない人もいるしー。運動もできる人もいればできないひともいるしー。じゃー異常ってーのは、極端ってーことかなー。違うよねー」
それとも。
「ろー。考え方がおかしい人なのかなー。例えば、ゴロ君は楽しむことにかけては異常な欲を出すしー、それに関しては私様もそかなー? 今回の事件の殺人倶楽部もそうだよねー。考え方がおかしいとイカれてるとか、異常とかってよくきくよね。でも違うよねー」
それも異常とは違うと狐島は否定する。
そして、
「ケンケンの異常は――絶対論だ」
狐島は絶対の正解を告げる。
久遠にとって、絶望にも近い正解となる答えを。
「るー。ケンケンは、自分でわかっていないようだから私様が言うよー。ケンケンはさー、決して自分のことを強いだなんて思ってないよねー」
だって。
「ケンケンは、ケンケン以外の人間が弱くて弱くて仕方がないと思ってるんだよねー」
だからこその――絶対論。
温度の絶対零度という概念があるように、絶対零度が全ての温度の基準となっていて、久遠という人間もまた絶対零度と同じように基準となっている。
ただ絶対零度と違う所は——久遠は全ての人間に対しての最大の基準であり、久遠以外の人間は全て弱いということだけだった。
奇しくも、その頃は双六も天野から似たようなことを聞いていたことを狐島が久遠に告げる。どうしてお前たちはそんなに遅いのか、と。
「るらー。力が弱くて、五感が弱くて、能力が弱くて仕方ないんだよねー。あはは。そりゃ、ケンケンは周りから浮くよねー」
そう、昔から不思議だった。
自分が軽く殴れば、相手は大怪我を負い。
自分が走れば、どんな連中も追いつけなくて。
視力だって、嗅覚だって、触覚だって、味覚だって、聴覚だって、他の連中比べると違っていた――本当に文字通り、自分の性能のケタが違った。
「……そうだな。確かに、その通りだ」
どうして、お前たちはそんなに弱いのかがわからない。
いや、というよりも。
「何でそんな弱くて生きていけるのかが――俺にはわからない」
だから、異常なのだろう。久遠健太という人間は。
生まれて努力でどうにかなる範囲を超えた――生まれついての異常。
誰も追いつくことのできない。本当に異常な人間として久遠は存在している。
「俺は普通になれないんだろうな」
必然。そうなってしまう。
交わることのない平行線どころの話でない。
最初から、線などない。次元が違うのだから。
それは、本当に。少しだけ。少しだけ。寂しいとさえ思う。
久遠は、そう呟くと、
「てかさー。何でケンケンがふつーにこだわるかがわかんないよー」
逆に不思議そうに、狐島が言う。
「私様は、そんなケンケンが大好きなんだよ?」
それをわかってる?
本当に自然で、何一つ恥ずかしげなく、狐島は椅子の上で膝を抱えながら告げる。
「愛してるーるー!」
ニコニコ。
子供のようでありながらも、全てを笑って受け入れる母親のように、狐島は笑ってくれる。
それはいつだって変わらず。
異常な久遠の隣にも、後ろにも位置できないはずの彼女ができる――唯一の方法。
ずっと、同じ場所にいてくれること。
ただ、逃げないで。変わらないで。
笑って、そこにいるから。
久遠は帰ってこれる。
だから、二人の間に、ノックは要らない。
そんな彼女が優しいから。
甘すぎるぐらい優しいから。
泣きたくなるぐらい、一緒にいてくれるから。
普通になりたかった。
そう。
久遠は一度も考えたことなんてない。
自分のために普通になりたいなんて考えたこともない。
いつだって、彼女が一緒にいてほしいから。
彼女を守れる――普通になりたかった。
異常では、壊すしかないから。
いつか、壊すんじゃないかって怖かったから。
普通になりたいんだ。
「本当に。お前はさ……」
それ以上は、うまく言葉にできない。できたとしても言わない。
言わない代わりに、態度で示す。
細心の注意を払って、彼女の頭に手を置いて――撫でる。
殴ってばかりだった、久遠の手に――狐島のサラサラした髪の感触が残る。
そんな狐島は「えへへー。るんるん」と、嬉しそうに撫でられたままだ。
――やっぱ。このまんまじゃ駄目だよな。
撫でるのをやめて、ガタリと椅子を避けて立ち上がる。
「俺さ。もうちっと就活がんばってくるわ。まだ面接とかもあるし」
「ん。私様も今日は十分楽しめたからいいよー。らーらー」
「そうか。じゃあ、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいりー」
帰ってくるから。
行ってきます。
そして、今日も久遠は普通になるために就職活動をする。
決して諦めないで、愚直に続ける。
◆
誰もいなくなった娯楽研究会の部室。
最上階一帯を占めているので部屋数も部屋の大きさも半端ないほど広い中に、狐島は一人そこにいる。
風呂トイレが完備どころか、ネットで頼めば日用品すら全て届けてくれる、部室に狐島は住んでいる。
というよりも、部室からほとんど出ることが無い。
ある意味、引きこもりの最高峰とも呼べる場所だ。
「るー。ケンケンも帰っちゃったなー」
暇だなーと、静かな広すぎる部室に言葉が消える。
今のところ、娯楽研究会に仲介を頼んでくる仕事もないので。本気で暇だった。
暇で。退屈で。つまらないから。
電話をした。
「もしもしー。私様ー」
何やら、狐島かけている電話の向こう側の人物は慌てているようだ。
「今日はねー。お願いがあって電話をしたのー。いいー? ていうか、聞いてもらわないと今後お仕事を回してあげないけどねー。困るでしょー」
そうそうと言って電話を続ける。
「あのねー。この後、そっちに面接に行く久遠って人いるから、ちゃんと落しといてね。万が一逆らったらー潰すからー。理由? 言わないといけないほど君は無能なの? うん。そういうことだから、よろしくねー。今度はもう少しお安くしておくよー」
じゃあね。ピッと電話を切り、狐島は携帯電話をおざなりに投げ捨てる。
「ふふー。これで明日もケンケンが来るなー」
部屋の隅に寄せていた玩具の箱を取り出して、狐島はそれらを並べる。
「らーりー。楽しみだなー。早く明日にならないかなー」
並べた玩具目掛けて、ボールを投げつける。
「そしたら、またケンケン落ち込んで頼ってくれるもんねー」
らんらん。
「れー。今度は、ケンケンも楽しめるお仕事見つけないとねー」
久遠が怒るから、床に散らばった玩具を拾ってはまたテーブルにのせる。
ふと、久遠に少し似た人形が目の前にあったので、それを目の前に来るように持つ。
「ケンケン。愛してるーるー。らーりーるーれーろー」
それは、本当に楽しそうに。何も考えてないぐらい楽しそうに笑っていた。
これ以上、楽しいことがないというぐらい。
本当に幸せそうに。
無邪気に。
娯楽都市で、一番素敵な笑顔を浮かべながら。
彼女は、明日来る王子様を待つ。
恋焦がれる少女のように。




