とある男の娯楽
カタカタ。暗い部屋の中に一つの音が絶え間なく続いて響く。
湿った空気が部屋全体を覆い、床には封の開けられた食べかすが残ったビニール袋。液体が少し零れたペットボトルがフローリングの床を隙間なく化粧する。甘い香りと不快な埃とカビの匂いが充満しているが、そこにいる人間はどこ吹く風と光の画面を見つめている。
パソコンの画面から零れる青い光が男の顔を照らし出す。眼球は赤い血管がくっきりわかるほど狂気に彩られ血走っていた。口元はだらしくなく緩まり、男は『本日の成果』について、画面の向こう側にいる仲間達に報告していた。
そのサイトは俗に言えば裏サイト——それも会員制の極少数のメンバーからなるもので、男はある写真を載せていた。
それは別になんてことはない——ただの死体の写真。
写真に写っているのは、赤黒い血を首から垂れ流したスーツを着ている女性だ。
そのサイトをよく見れば、その男がアップした以外の写真もいくつか見えた。普通の人が見れば、ただそれだけで吐き気を催すような——痛々しい写真の数々。
しかも、男がアップした写真はどれも、女子供のものばかりだった。
だが、男は嬉々とした子供のように、その写真を眺めている。
「あはっ。今日の戦果はこんなものです。また一つ社会のゴミを綺麗に片付けましたっと」
流暢な手つきでキーボードを打ちつけ、仲間に報告している。
すると、数分も掛からずに、彼の書き込みに対しての返信が続々と寄せられた。
曰く『超クール!』『何回ぐらいで死にましたか?』『どんな声で鳴きましたか?』『殺し方はナイフですか? それとも、絞殺から刺殺のコンボですか?』などが書いてあった。どこにも男のやったことを止める者はおらず、むしろ、積極的に殺人という行為そのものを楽しんでいた。
それを読んだ男は背筋がゾクゾクするのを感じ、痩せこけた頬が吊り上がる。男の口元が三日月の形を作り、鋭く笑う様子は、どこか獣じみた不気味さを感じさせる。
——ここでなら、自らが行った行為を称えてくれる仲間たちが大勢いる。
それは、彼にとっての充実感であり、正義であり、自分にしかできない仕事であった。
だから、殺す。楽しんでくれる人がいるから。
男にとって殺人を犯す動機なんてそれだけで十分だった。
そして、男は再度、返信をくれた人たちにレスをしようとしたところ——
ぴーんぽーん。
間の抜けた玄関のチャイムが聞こえた。
だが、男は聞こえたにも関わらず無視して書き込みを続ける。どうせ何かの集金だろうと思い、いつも居留守を続けているし、そのために部屋の電気もつけていないのだ。
そして、もう一つの可能性についても、男は何一つ危機感を抱いていなかった。自らを捕まえに来る誰かの存在。それこそあり得ないことだと思っていた。会員制のサイトだからということではない。自分のやっていることは正義そのものであり、殺される側が悪。ゆえに捕まる道理は一つもない。さらに言えば、殺人なんてものは漫画や小説、空想の世界ではくらでも起きているではないか。
そう、男にとって殺人とは——ただの日常と成り下がり、いつの間にか、暗くジメジメした、誰にも見向きもされなかった過去が、空想の出来事となっていた。
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴんぽーん。
なおも続くチャイムの音——というよりも、嫌がらせとしか思えない連打。さすがの男もあまりの煩さに舌打ちをする。正義の邪魔をする悪を追い払うために玄関へと赴かねばならないと、静かに立ち上がった——瞬間、玄関から爆発したかのような大きな破裂音と振動がした。
「はぁっ!?」
一体何が起きているのかを確かめに、男は慌てて玄関へ走り出す。床に落ちたゴミが邪魔だが、移動する分には問題ない程度に隅っこに寄せている。いくつかのゴミを踏み潰しながら玄関に辿り着くと、そこには二人の男がいた。
「いやいや、玄関壊すことないじゃないですか? ほら、見てくださいよ。家の人驚いて出てきたじゃないですか? あのまま待っていれば、きっと扉開きましたよ」
「うるせー。こっちはそんなことに構っている時間がねーんだよ。おい、双六。あいつで間違いないんだろうな?」
「んーと、久遠さん。ちょいと待ってくださいね」
写真を取り出した、まだ幼さが残る顔立ちをしている高校生ぐらいに見える——双六と呼ばれた少年は、羽織っているシャツの胸ポケットから写真を取り出して、目の前に立っている男の顔を写真と比較し、確認しているようだ。
「お、お前たちっ! いい、一体何してんだよ!? ここは俺の部屋だぞ! 何勝手に入ってきてるんだよ!」
わけがわからない。ついさっきまで、正義の報告をしていたはずなのに、いきなり見知らぬ二人が乗り込んできたのだ。不安と焦燥感が背中を駆ける。
「あん? 用があるから上がっているだけだろうが。何か文句あるのか?」
もう片方の久遠と呼ばれた男は、鋭い目つきで睨みつける。
どう聞いても文句しか出てこないはずなのに、男は口が利けなかった。
なぜなら、久遠は見上げないといけないぐらい身長が高く、そして、あきらかに体格の良いそれは、貧弱な部屋の持ち主にとって威圧的に映り、脅威に思えた。
そう、まるでテレビ番組のヒーロードラマに出てくる悪の幹部であるかのように。
男の頭のパズルが勝手に組みあがった。そう、こいつらは正義のヒーローである自分を殺しに来た殺し屋で、正義の味方である本拠地が見つけられたのだ。
——こうしてはいられない。
男は丸腰で武器を持っていない状態では、さすがに分が悪い。
それに気づきパソコンのある部屋に置いてある武器を取ってこなくてはと踵を返す。
「あ、暗がりでわからなかったけど、その人で間違いないです。いやー写真と人相が大分変わってたから、わかりづらいもんですね」
「そうか」
双六が言い終わる前に、久遠は引き返そうとした男の後頭部を大きな手で掴んだ。
そして、何とはなしに男の頭を——そのまま壁に叩き付けた。
ドガっと鈍い音が聞こえる。壁紙が破れ、叩きつけられた男の額が擦れて壁にズズッと血がついた。
「あ、やべ。やりすぎたか」
何の悪気も聞こえない言葉なのに、叩きつけられた男の耳には何も入ってこなかった。打つけられた衝撃で頭が朦朧とする——それはまるで、ジェットコースターを連続で乗り降りした時のような、胃液が逆流する気持ち悪さが全身を駆け巡り、その場から動けずにいた。
「いったそー。まぁ、仕事はやりやすくなりましたけど、少しは様式美とか考えてくださいよ」
そう言いつつも、双六は鞄からテープを出し、男を手馴れた様子でグルグル巻きにして、簡易的に拘束をした。
「うるせー。こっちは明日の履歴書とかエントリーシート書かなきゃいけねーんだ。ったく、なのにこんなわけのわからん仕事をさせられてんだぞ。俺の将来が明日にかかってんのわかってるはずなのに、狐島の奴め。本当に最悪だな」
「久遠さんにとってこの仕事より、就職活動に重きを置いていたことにびっくりです」
「当たり前だ。俺は早くこんな最悪な都市から出て行くんだ」
「いつも言ってますよね。それ」
双六は最後にビリっとテープを破り拘束を終える。
床には、蓑虫のごとく這いつくばる男の姿がそこにあった。男は逃げようだとか、テープの拘束をどうにかしようだとかも、考えることはできなかった。
ただただ何が起こっているのかわからない事態に対して、困惑が深まるばかりばかりだ。
頭に警報機があれば、すでにレッドランプが付いているだろうが、残念ながら男の警報機は故障して修理に出したまま返ってきていなかった。
この状況下においてなお、男は自分がヒーローであると信じ続け——この場をどうにか切り抜けられる夢のようなお花畑を思い描いていた。
「……お、お前ら何者なんだよ!? 俺にこんなことしてただで済むと思ってんのか! お、俺はヒーローなんだぞ!」
這い蹲りながらも、そう言い張る男は何とも形容しがたいほど滑稽であったが、双六と久遠の二人にしてみれば何を言っているのかさっぱりだった。目を見合わせたが、互いに首を振る。
そこで、双六が男の部屋の中にあった本棚や人形を見ると、アニメ雑誌や漫画、それにヒーローものの人形が所狭しと置かれていた。
「あぁ、なるほどなるほど。だからヒーローですか」
納得したように頷く双六。
「そ、そうだ! これでわかっただろ! 俺がヒーローだってな!」
何が面白いのかニコニコしたまましゃがみ込む双六。
少しでも床で寝ている男と目線を合わせようとしているが、傍から見ていれば犬とじゃれる飼い主みたいな構図だ。
「はいはい。わかりましたよヒーローさん。だから、あなたは今までの人たちは悪の手先だから殺していたわけですね?」
「そうだ!」
「へぇー。何の罪もない女の人三名に、公園で遊んでいた子供たち五名が何の理由で殺されたというんですか? ヒーローのあなたが守るべき人たちではないんですか?」
酷薄な笑み。双六は口元は笑っているが、目元は何一つ笑っていなかった。
だが、男はそんな双六を見ても何も思うことなく、歪んで楽しそうに言う。
「違うさ! あいつらは悪なんだよ! あいつらは悪の手先だという報告が入ったから俺が殺したんだ! 殺したら皆が褒めてくれるんだよ! 楽しんでくれるんだよ! 街が平和になったってさぁ!! あひゃひゃひゃひゃ——————―!!」
壊れたゼンマイ人形としか言えないほど、男は床で笑い転げる。
双六は表情を何も変えなかったが、久遠が嫌なものを見たと舌打ちする。
「そうですかそうですか。——でも、僕は何一つ楽しくないですよ」
すっと音もなく立つ双六。向かう先は男の部屋だ。
そして、双六はブンっと腕を振るい、飾ってあったヒーローのフィギュアが棚から一掃される。
「お、お前、何てことをするんだよ!?」
男の制止を聞かず、なおも双六はフィギュアを踏みつけ壊す。壊す。壊す。
彼の表情は終止変わらずニコニコとしながら——壊し続けていた。
「や、やめてくれ! もう勘弁してくれよっ!!」
涙目になりながら言うも、双六は止まらず壊し続け——全ての破壊を終了した。嗚咽を漏らしながらヒーローを自称していた男は、宝物を壊された子供のようにただ泣きじゃくってきた。
「はぁ、困るんですよね。あなたみたいな人がいると。わかります? いや、全然わからないですよね。こういうものを所持されるとですね、世間はこう言うわけなんですよ。漫画やアニメの影響で殺人をするようになったってね。はっきり言って迷惑なんですよ。誰が? 決まっているじゃないですか。楽しんでいる僕らがですよ」
双六が男の目の前に立ち、再度しゃがむ。
今度は薄い笑みでなく、心の底から楽しんでいる子供の笑顔をしながら。
「大人たちは何もわかっていない。いや、わかっているくせに卑怯な振る舞いをする。漫画やアニメの影響があるからそうなったんだって? そりゃ、影響なんてあるに決まっているじゃないですか。ですがね、それはあくまでも影響にすぎないんですよ。影に響く。ということは、既に光があるんですよ。素質があって素養があるんですよ。ていうか、影響って言葉自体卑怯なもんですよね。そもそもが、影響じゃなくって自分が学び取った結果だと僕は思うんですよね。じゃあ、例えばですよ。その人が漫画やアニメがなかったら殺人をしなかった? んなわけないでしょう。ないならないで、他の媒体がきっかけでトリガーを引くんですよ。引いちゃうわけなんですよ。殺人者は生まれながらに殺人者なんです。大人はそれがわかっているのに、わざわざわかりやすいものに責任を転嫁するんですよ。自分たちのせいじゃないってね。責任回避能力最高ってね! だから『影響』なんて安易な言葉を多用して、臭いモノには蓋をする精神が育まれたわけですよね。大体、僕から言わせてみれば、教師や政治家、警察とかなんてただの犯罪者の巣窟じゃないですか。取り締まるべきはそこじゃないかって——」
「双六。うるせーぞ」
久遠が後頭部を掻きながら、双六の話を遮る。
熱が入り込んでいた双六は我を取り戻し、咳払いをして、改めて仕切りなおす。
「すみません。つい熱が入りましたね。つまり、僕が何を言いたいかというとですね。あなたはヒーローじゃないんですよ。——ただの、快楽殺人者です」
第三者に突きつけられた事実に、男はひどく取り乱した。
「ち、違う! 俺はヒーローだ! ヒーローなんだ!!」
「ははは。ヒーローが殺人を犯すわけないだろ。娯楽のクズ」
心から楽しそうに、良い笑顔の双六は、なおも男を責める。
「しかも、ターゲットに強そうな男が誰もいないじゃないか。その時点で、あんたはただのヒーローの偽物——すらおこがましいよ。あぁ、もう聞かなくてもわかる。あんたただのいじめられっ子でしょ。それで、社会のレールから外れてドロップアウト。そして殺人者の道へ。うわー三流小説にもならないな。これ」
「お、おれは……ち、ちがう。おおおおれは、みみみみんなのために」
男の眼球がキョロキョロ動く。額に脂汗をかく。
目をそらしていた事実——しかも、双六の言っていたことは全てが当たっていただけに、見たくもない、どこか別の世界へ追いやっていた空想が現実に引きずり出された。
それを認めたくなくて、自分よりも弱い奴を虐げて、自らはより強い人間なのだと自覚する儀式——それが彼にとっての殺人だ。
「そう! 皆のためになることをあなたに教えるために、僕ら娯楽屋は来ました! さぁ~て、巷で有名な連続婦女子殺人事件の犯人さん。あなたは人一人の値段って知ってますか? おおよそになりますけど、人間って生涯に稼ぐお金って一億から二億……間を取って一億五千万ですかね。つまり、あなたは計八名の人間を殺しているわけですから十二億円の負債を抱えています。というわけで、楽しいお仕事場に連れて行って欲しいと依頼があったので、あなたには労働時間が二十時間の残業なし、フレックスなし、三食付の四時間睡眠という素晴らしいお仕事を紹介します! ただし、お給料は一切なし!」
もはや、双六は男の反応など構わずに喋り続ける。突然来訪され、殴られ、縛られ、さらには命と同じぐらい大切なフィギュアを壊され、理不尽なことを告げる目の前の少年が——最初はどこか遠くの存在のように感じたが、今は沸々とある感情が湧き出てきた。
人間なら誰しもが持っているーー理不尽に対する怒りだ。
「ざっけんな! 誰がそんなことするかよ! 俺は、皆が望んだから殺していたんだ! そいつらだって同罪じゃねぇか! しかも、依頼だと? 誰だよ。依頼した奴は。ヒーローにこんなことをしてただで済むと思うなよ。殺してやる。お前も殺してやる。全員殺してやる。どんなことをしても殺してやる! 必ずぶっ殺してやる!! あひゃひゃ! 娯楽都市にいるんだから、殺人をしたっていいんだよ! なんたって、楽しいんだからなぁ!」
怒号に空気が震える。男の心に溜まっていた暗く、濁って、ドロドロして、赤くて、黒くて、青くて、紫で、色々なグツグツしたものを撒き散らす。その支離滅裂な言動が、今の男の心を代弁していた。清々しいまでに矛盾をしたヒーロー。
いや、そもそも彼の中に確たるヒーロー像があればこんなことになっていなかったであろうが、後悔は先に立たない。
さらに、双六は何かを言おうと口を開きかけた——が、それは久遠によって阻まれた。久遠は乱暴に男の胸倉を左手で掴み、空いている右手の拳を強く握り締める。彼の体格に見合う大きな拳が——男の鼻っ柱にめり込んだ。
廊下をゴロゴロと滑り、壁に激突して止まった男は体をぴくぴくと動かしてはいるが、完全に気絶した状態になる。鼻血は垂れ流れ、血溜まりができていた。
「お前ら二人ともうるさすぎ」
「ありゃま。久遠さん、この手の話は嫌いでしたっけ?」
「ちげーよ。気が変わっただけだ。こいつは、このまま警察に突き出す」
「依頼人さんの仕事内容を無視するわけですか?」
「構わねーだろ。そもそも、殺人犯を強制労働させるような依頼だ。どっちにしろ、ろくなもんじゃねーよ。まぁ、狐島の奴には俺から言っておく」
「……久遠さんがそう言うならいいですけど、完全にただ働きになりますよ」
「それがどうした」
「いえ、ただの確認です」
「それにだ。こいつを裏で処理しちまったら、表で悲しんでいる人たちがやるせねーだろ」
「それをわかった上での依頼だったんですけどね。まぁ、別に文句はありませんよ。僕としてはそれなりに楽しめましたから」
言葉通りの意味なのだろう。久遠は何も言わず、寝転がっている男を担ぎ上げた。
男の血で肩が汚れてしまったが、久遠は気にせず男を外に連れ出す。
玄関に来たところで、思い出したように、久遠は後ろにいる双六に対して、顔だけ振り向く。
「そーいや、双六。さっき、人の値段が決まっているとか言ったよな?」
「言いましたが、何かありました?」
それがどうしたのかと不思議そうに双六は首を傾げる。
「人に値段なんかねーよ。覚えとけ」
「あはは。覚えておきます」
二人はそのまま静かに部屋に去った。男が次に目を覚ましたときは警察署の檻の中であったが、記憶が綺麗に飛んでいたせいで、昨夜に何があったかわからないままだった。