大人になることと大きい人になることは違う
とても恥ずかしい話から入るのだが、僕は12歳のころに、初めて成人向けの動画というものを友達と初めて見た。
母親以外の女性の体は強く脳裏に焼き付き、凄く興奮したと同時に、僕は自分の目に映るものが異常だったということに、そのとき気が付いた。
「ねえ、なんで壁に色がついてるの?」という発言に対し、友人の一人は困った顔をし、もう一人は意味が分からない、という反応をしていて、もう一人はそれどころではなく画面に食いついていたように記憶している。
その頃から、自分は背景というものを感じられない、という認識をしていた。それは、肉眼で見た時と何かを通して見たものが違うという発想には至らず、ただ背景だけが欠落しているという結論を僕自身に下した。写真や動画では感じられるものが、自分の目では映り込まなかったからだ。
背景だけが見えないのなら特に支障はない。僕は目が見えないわけではない。そんな風に思っていた。
その結論がおかしいと思い始めたのは、それからさらに3年後、僕が中学校を卒業するその日である。
青春真っ只中の僕、クラスの中で気になっていた佐倉さんに告白しようと思っていて、前日のうちにラブレターを下駄箱に放り込んでおき、式の後、待ち合わせ場所の体育館裏で待っていたときだった。
これまでの経験から、空が青いはずであるが僕には真っ白に見えるということはわかっていて、今日が快晴であることを事前に聞いていたので、それをまず話のネタにしよう、なんて考えていた。待つ間、なんでそんな動き激しいの?と僕に言う笑う彼女のあの笑顔を思い出していた。
遠くの方ではもう下校しているのか、声が移動しているように聞こえた。佐倉さんはまだ来ない。
振り返ってあるはずの大きな桜を見ようとしたが、何もないところから花びらが舞っているように見えた。佐倉さんはまだこない。
流石に驚いて触ってみると、木独特のざらざらした感じと、芋虫的な柔らかい感じに手が触れて思わず叫んだ。佐倉さんはまだこない。
時折風が吹くと枝だけがちらちらと見え、木の根元はもう完全に見えなくなっていた。
佐倉さんはまだこない。
僕の目に映らない背景には今まで見えていたと思っていたものが含まれることを知った。それらは静止しているから見えないのだということに気が付いた。結局佐倉さんにはすっぽかされた。
また月日が経って、高校二年生、夏休みも半ばの一番いい時期に入った。正直黒板は全然見えず、勉強は教科書をひたすら動かしてなんとか読んでいた。テストなんて落ち着きがないからよく先生に呼ばれた。
書く文字も書いたそばから消えていくから、宿題が捗るわけもなく、夏休みのほとんどは徹夜して電気を揺らしながら懸命に書いた。また夜更かしして、なんて言う親に本当のことは言いたくなかった。
その日は友達が友達を連れそのまた友達も呼んで大勢でバーベキューをするつもりだった。天気予報では雨だとラジオで言っていた。
会場の河原では9人くらいの男女がわいわいと騒いでいた。唯一成人してる川島の兄貴という奴は一番大きな声で女子高生相手に盛ってた。
川の水と流れる雲だけが僕らと一緒の時間を過ごした。僕と同じ高校だという凪さんと知り合った。めちゃくちゃタイプだった。ちょっとだけ佐倉さんに似てた。
メアドを交換した。ケータイ振るのって癖なの?と聞かれた。うんそう!って答えた僕の顔は引きつってなかったはず。
帰りに降り出した雨粒が少しずつ小さくなり、やがてザーザーという音だけになった。動くものは、どんなものでも大きさや色に関係なく確実に目に捉えられていたはずなのに。雨強いね、なんて友達に言って、必死で気を紛らわした。
僕は今までどの雨を見ていたんだろう。僕は今までどのくらいのものを見ていたんだろう。僕はこれからどこまで見えなくなるんだろう。
3年に学年が上がり、凪さんと奇跡的に同じクラスになった。グレなくて済んだ、席まで隣だった。
教科書まで振るんだね、なんて笑った顔が可愛かった。ノートまた貸してほしいの?じゃあ帰りにジュースおごってね!なんてザラだった。ねえカラオケいこうよ、みんなで!はちょっと残念だった。
凪さんはオートマチックな歌とか、キリストの母親の名前の歌とかすごく上手かった。僕はモンスターアニメの主題歌とか、最初に呼吸を止める歌とか歌っても引かれなかった。他の奴の歌まで盛り上げてた。
帰りにジュースをおごって、真剣に付き合ってくださいと言った。私でよければと言われて飛び跳ねるくらい嬉しかった。実際飛び跳ねた。その時、一瞬だけだけど、まっしろだった背景が夕日色に染まる鮮やかな街並みに変わった。
夕日、こんなにきれいだったんだねと言うと、君って意外とロマンチストなんだねって笑われた。初めて女性と手をつないだ。汗ばんでてごめん、いや私もさ…ちょっとしたことで笑いあえた。
僕が動けば世界が色づいた。僕が動けば世界も変わってくれる。凪さんは…いや、凪は、そのことに気づかせてくれた。
高校を卒業し、僕は実家を離れて県外で一人暮らし、なんとか受かった大きめの会社に入った。凪は専門学校に合格、どうやら美容師を目指すらしい。僕たちは付き合って三年目になろうとしていた。
僕が動けば世界は色づくが、大きな動作をしないとあんなにきれいな色に遠くの方まで映ってくれない。仕事は近くのものを操るだけの職種にした。変人扱いされても仕事はできたし、仲間もできたし、金にもなった。
凪とは週一回できるかできないかくらいの頻度でデートした。スカートのときは色々考えちゃったし、夏の暑い日に露出が高いと目のやり場にも困ったけど、結局キス止まりだった。
その日はGWの初日で、凪が泊まりにくる予定だった。誕生日が早い僕は翌日20歳になろうとしていた。
ちょっと遠めの場所にある凪の実家からお父様が駅まで送ってくれる。はずだった。
約束の12時はとっくに過ぎ、駅の入り口で立ち往生するのも厳しくなってきたその時、凪からの着信音が鳴る。オートマチックだ。
電話に出ると、声は凪ではなくそのお母様で、凪の乗る車が事故に遭ったと聞いた。
どうやって行ったのか、徒歩だったと思うが、凪のお母様から聞いた病院名だけを頼りに本当に病室まで辿り着いてしまった。手短に言えば凪もお父様も生きていて、でも凪の左足は無かった。正確に言えば、左足がこの世から存在を消したのではなく、完全に動かなくなっている凪のその足を僕の視点から見ると認識することができない状態になっていた。
凪は泣いていた。もう死んで会えなくなるかと思ったと言って、足だけで済んだと言って。
お父様は悔しそうだった。大事な娘の体を壊してしまったと言って。
お母様はもうなんだかよくわからなかったけど、二人が生きていて良かったと言った。
僕も泣いていた。そして決心した、凪、君が成人したら結婚しよう、僕が君の全ての面倒を見よう、そう言った。
みんな動揺していて、一人部外者の僕は早々に看護婦に追い出された。帰りの道のりは方向すら分からなかった。途中にあった自販機で微糖のコーヒーを買おうと思ったら小銭すら持ってなかった。本当に明日から連休で助かった。
僕には見えなくなるものが増えた。僕は機能しなくなったもの全てが見えなくなった。前はもっと、見る世界もでも生き生きしていたはずなのに。
入院先には度々お見舞いに行ったが、退院して外で会うのはその日が実に半年ぶりだった。車いすをぎこちなく扱う凪がこちらへ来る姿はちょっと切なかった。季節は冬へと近づき、冬が過ぎて春が来れば勝手に宣言した君の誕生日も来る。交際は一応順調だった。
けれど凪の進路は順調とは言えず、半年分の遅れは取り戻せそうになかった。結果留年して再挑戦することになるのだが、お金の問題と僕との今後の生き方の方向性の違いでよく衝突した。
凪のご両親、僕の両親とも深く話し合い、今は婚約という形で結婚だけは認めてもらえたが、凪のお父様にはお酒の席で、未だに君のせいじゃないから責任と重くとらないでくれと泣かれてしまう。
仕事では部下が一人付き、自分のことだけを見るようではいけない立場になった。仕事が終わるように、自分と部下の両方を効率よくする、というところまで行きつくには時間がかかった。
凪の足はやはり見えなかった。真っ白くそこだけ切り取られたかのように。あの空は影絵のバックカラーであるかのように。
僕は思い切って、凪に見える景色をそっくりそのまま伝えてみた。
凪は、納得したように、頷きながら聞いてくれた。
凪と手をつないだ。だるまさんが転んだはできるの?、できるよ。このつないだ手は?、見えるよ。…、息止めても見えるから。でもね、その、膝に置いてるはずのケータイは、全然。
こっそり行った眼科でも、脳外科でも、心療内科でも、大きな異常はないと言う。女子の着ている服が透けたらと願う少年時代の僕はもう居らず、ただもっと見えるようにならないかと焦るばかりだった。
結婚して二年。ついに凪は初めて仕事先でお客の髪を切った。僕は主任に抜擢された。ローンを組んで一軒家を建てた。最近の趣味は朝起きて庭を思い切り飛び跳ねて景色を見ること。
順調な生活を送る一方、僕には気にかかる症状が出ていた。視界の端からひょっこりと現れる凪を認識できないことがあったのだ。この頃はもはや動きの有無は関係なく、ただ視界のうちで認識できるかできないか、それだけ。それを僕の中の何が判断しているのか、何を基準にしているのか、もう一度見ることは叶わないのか、何一つ分からなかった。
いずれ凪が完全に見えなくなることはどうしても受け入れたくなかった。でもどうしようもなかった。まだ自分は30歳にすらなっていない、人生60年だとすれば半分も生きていないことになる、そんな折でのこの仕打ち。たまったもんじゃない。
しかし、原因がわからなければ治し方もわからない、病気なのか障害なのか生まれつきなのかすらわからない。そもそも自分がこう見えるのは他の人が同じものを見ているからなのではないか?違うと思っているのはもしかしたら自分だけなのではないか?だとすれば、いま、声の位置もわからない凪を探し出せないのはなぜなのか…?
絶望。現状を打破することはおろか、きっと、今よりもっと未来では見えなくなっているのだろう。
凪が40歳を迎えた。あと二か月もすれば僕は41にもなる。月日が経つのは早いものだ。美容師として半人前だった凪は自分で店を構えるほどの実力者に。子宝に恵まれなかった僕らが飼いだした犬のペロは立派な番犬に。そしてこつこつと仕事の実績を積み上げた僕は特に昇進などはしていないが、生活費の倍を稼げるほどまでにはなった。
僕は見えないものが増えたついでに、想像できるものも増やした。生活に支障のない範囲でしかまだ進行していないのをこれ幸いとし、苦肉の策として出した僕の唯一の抵抗はほぼ成功と言っていいと思う。
ただ気になるのは、凪の体がたまに薄くなって見えること。よくよく観察すると、凪が左手を庇っているときは左腕から全体的に薄く見え、頭を押さえた時は上半身や首が特に消えかかって、という風に、まるで何かが動かなくなることを暗示するように見え方と凪の行動が連動していた。
凪、病院に行こう。まず脳外科に行こう。早く!
凪の脳に腫瘍が見つかった。医者は良性だと言うが、不安は消えない。だって、いつ凪が見えなくなるかをカウントダウンされているかのように薄い色した彼女が目の前にいるのに…薄い色?
違う、薄いわけじゃない、周りの背景がいつの間にか真っ白で眩しいのだ。白さに埋もれた凪が普通に見えるだけなのだ。おかしいのは僕の目の方なのだ…
がくりと膝を床に落とすと、凪は見上げる高さに浮いていた。そうか、凪はベットか椅子の上に座っていたのだ。そんなことも気づけなくなっているなんて…
僕の背中を凪はさすってくれた。医者の声だけがうしろから聞こえる。振り向いてももう真っ白なだけ。何もかもが止まっているから見えないのか?そんなことはなかろう…
僕の目には君だけが映るよ、あらあなたまたロマンチストな気分なの?
君以外はもう目に映らないんだ、光栄なことだわ
僕はまた世界に見放されてしまった、散々あなたは動き回ったものね
僕も世界を見放してしまおうか、まあ私を置いていく気?
僕の視界に色すら付けてくれない世界なんて嫌いだ、私の視界にあなたを入れてくれた世界が好きよ
なんだ君もロマンチストじゃないか、女の子はいつの時代もロマンチストなんですよ
凪、なあに?
僕はこの時を永遠にするよ。
寒さで夢から覚めた。ごろりと寝返りをうつと、誰もいない布団の中にほんのり暖かさが残っている。ゆっくりと起き上がり、ドアに近寄る。探し当てたドアノブを回して前へ進む。おはよう、おはよう。ただ一人、凪だけが存在する僕の世界へ。




