愛しい君よ、永遠にさようなら!
「サヨナラが再開の約束」なんて嘘に決まってる。
だって、日本語には「またね」っていう言葉があるのだから。
人はみんな言い訳を考える。
僕もいつも言い訳を考える。
正当化、利己的、狡賢くて騙し合ってるから。
そして人は自分に無いものを欲しがる。
だから僕も自分に無いものを欲しがる。
正直者、優等生、真っ白で素直を求めて。
それが悪い、訳じゃないけど、
後付けをどんどん入れてしまえば、先に入っていた、求めていたはずの素直さが消える訳で、
思ったことを口にすれば、変人のレッテルが、強制的に貼られる訳で。
こうやって人は、妥協し貫き形成する。
その人が、集まり作り積み重なることで社会は出来上がる。
小さな社会が、起き固まり競うことで世界は構築されていく。
その中で、新しい人はまた形成されるのだ。
新しい人が出来るということで、世界は自分自身を壊さないように、古い人を亡くしていく。
新しい人は自分の住処を作るために古い社会を消していく。
新しい人が作った社会のために、古い世界は表皮を新しくする。
そして、進歩か退化か分からないけれど、
人は次々に新しく生まれる。
人は次々と消え去っていく。
もしも「さよなら」に「またね」の意味があったなら、それは人類の進化だと僕は思う。
つまり、先を見越す力、定型的なものが見えているのだから。
逆に、退歩でもある。
僕たちが求めた“まっさらなひと”とはかけ離れているのだから。
それを踏まえて、僕は思う。
ミクロの視点で人は進歩し、マクロの視点で人は退歩しているけれど、
人はとりあえずどっかに歩いてて、少なくとも「またね」を覚えていると。
だから人は、言い訳を考える。
進むために。
そして、僕もまた…




