雪、帰り道。
二月も末だというのに、今日の天気は荒れに荒れている。吹き付ける風が既に積もった雪を更に吹き上げ、まるで冬将軍が最後の地上侵攻を仕掛けたかのような様相を呈する。
そんな日に営業に出掛けていった川北嘉之は、朝方の晴れた空を信じて、若干薄めのコートを羽織って出社した自分を恨んだ。もちろん営業先で雪に降られた彼に、更なる防寒具の備えなどあるはずもない。渋々、吹雪く真っ白な世界に飛び込み、今ようやく会社があるビルの軒に辿り着いたところだった。
「し、ぬ」
凍えた唇からは、ぽつぽつとしか言葉が出てこない。さっさとビルの中に入ればいいのだが、如何せん雪まみれの彼にはビルの自動ドアをくぐる前に、その肩や頭や鞄に積もった雪を素手で払わねばならないという試練が待っていた。残念なことに彼は手袋も履いてなかったから、かじかんで真っ赤になった手先が、一段と冷えて赤いままぷるぷると震えだす。
北国ではごく日常の光景だが、下手をすると霜焼けになってしまう。ほんのりと赤い指先は、営業としては働き者だと思ってもらえるかもしれない。しかし、後々自分を襲うであろう厄介な痒みを思って、川北は悩ましく長い、白い息を吐いた。
そろそろビルの中に入って暖を取りたい。川北は少しだけ肩口や背中に張り付いている雪にちろりと目を向けつつも、そのまま建物の中へと入ることにした。自動ドアを抜け、七階にあるオフィスまでのエレベーターを凍えながら待つ。すると、一階に着いて開いた扉から、背の高い男性が一人出てきた。川北の表情が一瞬固まる。
男性は川北に気づくと、表面上だけの微笑と分かる笑みを浮かべて「ああ、お疲れさま」と口にした。
吉川邦生。川北と同じ会社に所属する社員であり、事務職の一部を統括する二十九歳だ。眼鏡の細面で少し長い前髪の、非常に真面目そうな男である。背がひょろりと高く、眼鏡の向こうの感情が読みにくいという一点を除けば、「付き合いたい」という女性が何人かいるほどには彼は整った容姿をしていた。
「お、つかれさまです」
どもりながら返事をする川北に特に感想もないのか、「じゃあ、また」と淡白な挨拶をして、吉川は今し方、川北が入ってきたドアの向こうへと去って行く。
川北はそんな吉川の背中を見つめつつ――黒い厚手のコートを羽織った背中が、白い吹雪の中に消えるまで見送ると、目前のエレベータがゆっくりと閉まっていくのに気付いて、慌てて中に駆け込んだ。
川北は、少しだけ吉川に憧れていた。
川北の入った会社はそんなに大きくもないのだが、石油ストーブの製造・販売・メンテナンスまでを一手にこなしている。新技術を取り入れたストーブは着実に売上を伸ばし、会社は少しずつ業務を拡大。つい先ごろ、新卒の求人を出すまでに成長する。
会社の最初の新卒として入ったのが川北で、そのとき既に吉川は現在の地位で、現在より少しだけ規模の小さい事務作業をこなしていた。
吉川の仕事の完璧さに、営業と事務という畑の違いはあれど、川北は尊敬の念を抱く。先輩の女性事務よりも細やかな気遣いでこなされる、書類の言葉の選び方やレイアウトの見易さ。そしてそのクオリティは、期日が迫っていようといなかろうと、全く変わらない質の高さを維持し続ける。
こんな人もいるんだなあ、と川北は思う。
吉川の物腰は、勤務時間中は非常に柔らかい。しかし彼の目の奥が、吹雪いていない冬の朝の如く静かに冷え切っているのに気付いたのは、いつだっただろうか。その最初の出来事を、川北は既に覚えていない。彼自身、今年で入社三年目を迎え、やっと何とか仕事が一通りこなせるようになってきたばかりである。吉川の仕事ぶりに、逐一感動しているわけにもいかなかった。
ただ三年目ともなると、少しばかり周囲に気を配る余裕ができ、付け加えると個人の仕事のやり方に、少しだけ個性らしきものが見え始めてくる頃、といえるのかもしれなかった。
その日は珍しく、決裁すべき書類も業務連絡も机の上の片付けさえ、定時直前に完了した。仕事が終わったのだから帰宅すればいいし、事実、先輩や後輩でさえ、仕事のない面子は帰り支度を始めている。残業慣れしてしまって、帰宅しても特にすることもない川北にとって、妙に座り心地の悪い時間が流れた。
彼は意を決する。今日は早く帰れるのだから、久しぶりにしっかりとした食事を作って身体に栄養を与えよう。そうと決まれば早い。さっさとコートを羽織って、帰り際に雑談している数人の同僚の前を「お疲れさまです」と笑顔で横切る。
「今日は冷えるから、気をつけるんだぞ」
「はい」
上司の忠言に笑顔で応えつつ、川北はエレベーターホールへと向かった。
冬のこの時間帯は、六時を少ししか回っていなくても、既にとっぷりと暗い。廊下は真っ暗で、だから川北は黒いコートを羽織った人物の発見に、当人より一歩遅れた。
「お疲れさま」
川北はびっくりして、自分より先にエレベーターを待っていた吉川に目を向ける。
「お、つかれさま、です」
挙動不審。その上言葉も詰りがちな川北に、吉川は苦笑する。
「営業の……」
「か、川北です。いつもお世話になっています」
「ああ、そう、川北君。僕の名前は覚えてる?」
「あ、はい。吉川さんですよね」
「そう、吉川です。同じ会社なのに、あんまり話したことなかったね」
そうですね、と笑い返すべきだろうか、と川北は一瞬迷った。吉川が会社の行事にあまり参加しないのには、理由があるのだ。その理由は会社に入って少しすれば、誰も秘密にはしていないから誰もが知るところの内容ではあったが、それでも何となくデリケートな事情があるような気がして、川北はやはり言及を避けた。憧れの先輩にそんな不躾な行いをするなど、川北の良心が好奇心に許すはずもない。
エレベーターが七階に止まり、川北は先に乗り込んで「開」のボタンを押した。
「ありがとう」
吉川の目の奥は、やはり冷えている。けれど事務の先輩と一緒に過ごせるなど、滅多にあることではない。川北は恐れる心と嬉しさの同居した、妙に落ち着かない気持ちのまま、「いいえ」と言葉を発した。
エレベーターを降りてビルの外に出ると、先日の大雪が嘘のような、漆黒の夜空が広がっている。昼間晴れると、どうして夜には星の光が落ちて来そうなほどに冷え込むのだろうと、いつも川北は疑問に思う。
「じゃあ、僕は駅だから」
吉川が指を指して告げる先には、確かに地下鉄の駅がある。
「吉川さん、地下鉄なんですか?」
「いや? バスだけど」
「あのっ! 俺、地下鉄なんで、駅まで一緒に歩いてもいいですか?」
賭けのような気持ちで、川北は誘う。
「いいよ。じゃあ、一緒に歩こうか」
「あ、ありがとうございます!」
川北の声が、半径十数メートル範囲に響き渡る。
「声でかいって」
「す、すみません……」
吉川は苦笑して、川北の行いを嗜めた。
吉川と一緒に連れ立って歩けるなんて、今日は何かいい行いをしただろうか、と川北は一日の行動を少しだけ振り返る。特に善行を成した覚えはない。とすればこれは、俗に言う「日頃の行いがいいから」なのだろうか。
憧れの先輩と、並んで帰宅できるなど。
「今日は晴れていたね」
「ですねえ。晴れている日は、逆に冷え込むのが嫌ですよね」
「僕としては、晴れている分には何でも良いよ。むしろもう雪には降らないでもらいたいね。朝早く起きて、雪撥ねするのが面倒なんだから」
「あっはは、面倒くさいですもんね」
全くだよ、と嘆息する吉川は、仕事中の彼とは違って見える。少しだけ親しみが垣間見えて、俄かに川北は緊張した。
「まあ、雪が降って寒くなってくれれば、うちのストーブがたくさん売れるから、良いことなのかもしれないけれどね」
「あはは……全くです」
自身の売上が天気と関係しているかどうかなど、実はこの瞬間まで川北は気にしたことがなかった。そこまで気を回す余裕が、無かったといっても過言ではない。これは早急に調べ上げて纏めてみよう、と心のメモに川北は書き付けた。
「川北君ってさ」
唐突に話を振られて、川北は固唾を飲んで吉川を見つめた。吉川は固くなった川北を見て取り、苦笑する。
「そんなに硬くならないで聞いてよ。褒めようとしてるんだから」
川北は自分の耳が拾った音が、間違いではないだろうな? と脳に確認を求めようとした。しかし川北の確認作業を待たずして、吉川の言葉は続く。
「君はね、他の面子みたいな派手派手しい成績は上げていないけれど、関わったお客さんをすごく大事にしているんだよね。だから、うちみたいな小さい会社の売上をしっかり底上げしている……なかなか出来ることじゃないよ」
憧れの吉川から、なんともはや嬉しい言葉の数々を向けられて、久しぶりに川北は心が舞い上がるのを感じた。ここまで心がふわふわと浮ついているのは、同期の女性社員から別の同僚へのチョコの受け渡しを頼まれるために、オフィスの休憩室に呼び出されて以来だった。もちろん彼女の本命はその同僚で、川北は単なる受け渡し人に過ぎず、何ともやるせない気持ちを後に味わったのは言うまでもない。
しかし今の吉川の言葉はそれとは全く別の、ストレートな賛辞だと分かるだけに、川北はこの極寒の季節に頬に熱が集まるのを感じてしまった。
「書類の上からだけど、そういうの分かるから」
「……ありがとう、ございます」
返事の声は、思いがけず小さいものになる。吉川の微笑む気配に、川北は居た堪れなくなって顔を俯けた。誇らしいような、こそばゆいような、けれど嬉しい気持ちが川北の身体を満たす。
「これからも、頑張ってね」
「っ! はいっ! 頑張ります!」
そして例の如く、川北の声は周囲数十メートルに晴れやかに木霊した。
楽しい時間はあっという間に終わってしまうものだ。
路面のほとんどはアスファルトが露出しているため、川北も吉川も足元に気を取られることなく、駅に到着する。
「じゃあ僕、こっちだから。お疲れさま」
軽く手を上げて、吉川はバス乗り場の方へと身体を向ける。
「お疲れさまですっ!」
川北の大きい声が、天井の低い駅の出入り口に反響する。
「……だから、大きいって」
呆れたような吉川の声に、けれどどこか甘やかすような表情があって、川北は若干呆然とその様子を眺める。
「す、すみません……」
反射的に謝ると、吉川はあっさりと身を翻す。
「じゃあ、また明日」
「あ、はい!」
吉川の背中が見えなくなると、川北は満面に笑みを浮かべて、地下鉄に続く階段を駆け下りていった。
こんな日もあるのだと、白く長く息を吐いて。
お読みいただきありがとうございます。
夏の暑い時期に、冬の寒い話をお届けいたします。
ネタはたまたま作者の横を通り過ぎていった、年若い会社員二名の雰囲気です。片方は眼鏡を掛けていらっしゃいました。
「頑張ります」と眼鏡を掛けていないほうの男性が、息を弾ませながら応えていらっしゃいました。
……それだけでここまで妄想してしまった自分にあきれ返る気持ちで一杯ですが、これくらいの「にほう」感じが、自分としては好みです。
重ねて、ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。