愛と背信の記録
〈登場人物〉
片桐沙紀(38)
県警本部警務部監察官室長補佐/警部。
服務事故や不祥事を調べる監察官。本作の主人公。
片桐修司(42)
県警本部警務部警務課/警部。
沙紀の夫。県警の人事に関わり、美里と亜希の双方と関係を持つ。
坂井美里(34)
国会議員公設秘書。
沙紀の妹。姉の夫・片桐と不倫関係にある。
野村卓也(44)
県警本部警務部監察官室/警部。
沙紀と5年間組んできた同僚。亜希の夫。
野村亜希(42)
民間危機管理・広報コンサルタント。
元地方紙記者。野村の妻であり、片桐のもう一人の愛人。
野村湊(19)
大学1年生。
野村と亜希の息子。沙紀との出会いをきっかけに、両親の世界へ巻き込まれていく。
久保田和彦(56)
県警本部警務部首席監察官/警視正。
沙紀を監察官へ引き上げた恩師。
坂井正志(68)
元県警警視正/警備関係団体顧問。
沙紀と美里の父。かつて県警中枢にいた人物。
県警本部警務部監察官室長補佐の片桐沙紀警部が帰宅したのは、午後10時前だった。
夜間監察が対象者の入院で流れたが、これでも珍しく早い方だ。
玄関に入ると、真っ先に見慣れた女物のパンプスが目に入った。
妹の坂井美里がいつも履いているものだった。
台所の灯りだけがついていた。
沙紀がリビングへ入ると、全裸で冷蔵庫の前に立っていた美里が、牛乳のパックを持ったまま振り返った。
テーブルにはワイングラスが2つ。
片方には口紅が残っていた。
寝室の扉が開くと、夫の片桐修司がシャツのボタンを留めながら出てきた。
県警本部警務部警務課で人事を扱う警部が、妻を迎える格好ではなかった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沙紀は美里を無視して冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを1本取った。
「気にしないで。続けて頂戴」
美里が眉を動かす。
「お姉ちゃん」
「せっかくワインまで開けたんでしょう。香り、飛んじゃうわよ」
「沙紀、話そう」
片桐が言った。
「何を?」
沙紀はキャップを開けずに家を出た。
数日後、沙紀はホテル地下の駐車場で片桐の車を待った。
照会端末は使わない。
夫の不倫を調べるのに、警察官の身分は要らない。
午前零時を回り、エレベーターから片桐が女と出てきた。
民間の危機管理・広報コンサルタント、野村亜希。
監察官室で5年組む野村卓也警部の妻だった。
亜希は笑いながら片桐のネクタイを直し、そのまま指先で胸元を撫でた。
片桐はその手を取って、一度だけ口づけた。
沙紀は2人を数枚撮った。
そのまま帰宅せず、車内で亜希の公開情報を拾った。
大学1年の息子、野村湊19歳。
写真を見て、沙紀はメッセージを送った。
《野村湊さんですか》
翌日、沙紀はシティホテルのラウンジを指定した。
湊は約束より10分早く来た。
紺のパーカー、白いシャツ、履き潰したスニーカー。
注文を取りに来た店員へ、沙紀はワインを1杯頼んだ。
「彼には、何かジュースを」
「コーヒーを。ブラックで」
湊が口を挟んだ。
沙紀が横目で見る。
「無理しなくてもいいのよ」
「子供扱いしなくてもいいですよ」
「19歳でしょう」
「成人です」
「お酒は20歳になってから」
「そういう所だけ、真面目なんですね」
沙紀は少し笑った。
「そういう所だけ、ね」
沙紀は結婚指輪を外さなかった。
「母とは、どういう知り合いなんですか」
「そうね、あなたが知らない方がいい知り合いかな」
「じゃあ、どうして僕と?」
「会ってみたかったから」
「それだけですか?」
「どうかしらね」
ラウンジを出ると、沙紀は立ち止まった。
「ここで帰ってもいいのよ」
「帰ってほしいんですか」
沙紀は答えず、エレベーターの上階ボタンを押した。
扉が開くと、湊も乗った。
翌朝、カーテンの隙間から白い光が差していた。
服は椅子の背にきちんと掛けられている。
湊はベッド脇でスニーカーの紐を結んでいた。
沙紀は窓際でコーヒーを飲み、湊の背中を見た。
「ずいぶん静かなのね」
「何がですか」
「こういう朝なのに」
湊は少し考えた。
「初めてだったので」
カップを口へ運ぶ沙紀の手が止まる。
「出会って直ぐの女と寝るのが?」
「起きた事、全部です」
エアコンの音だけが響いた。
「言わなかった」
「聞かれなかった」
その音を押しのけるように、湊のスマートフォンが鳴る。
画面に亜希の名前とメッセージが出た。
《何を知ってる?》
沙紀はカップを置いた。
「お母さん、仕事が早いのね」
「あなたから連絡が来たって話したんです」
「それで?」
「会って、何を知ってるか確かめて来いって」
「それでここまで?」
「いえ、来たのは僕の意志です」
沙紀は初めて少しだけ困った顔をした。
湊が続けた。
「父も知ってます。母と、あなたの旦那さんの事」
「いつから」
「父は、多分かなり前から」
「それでよく夫婦を続けていられるわね」
「そういう家庭なんですよ」
「便利な言葉ね」
「あなたの家庭も、似たようなものじゃありませんか」
沙紀は答えなかった。
県警本部へ戻ると、ホテルの写真、野村の職員情報、過去3年の服務事故記録と人事異動表を広げた。
権限の範囲内だけだ。
酒気帯びを起こした警視は処分を免れ、翌年、本部の要職へ上がっている。
暴力沙汰の警部は地方署へ飛ばされ、半年後に本部へ戻った。
どちらも起案、調整、面談記録に片桐の名がある。
1件には美里が勤める議員事務所との面会記録。
もう1件には亜希の会社名。
「そこまでにしておけ」
背後には野村がいた。
沙紀は振り返らず続ける。
「全部知ってたのね、野村警部」
「何をだ」
「奥さんの事よ。それに片桐警部の事も」
「ここで家庭の話をするな」
「お話が家庭を飛び出したから聞いてるの」
野村の顎が動いた。
「家庭なんてものは壊れる。人も辞める。だが組織は残る」
「だから奥さんまで差し出したの?」
「順番が逆だ。個人より組織の方が長く残る。それだけだ」
野村は机上の写真へ目を落とした。
「この世界には、知らない方がいい事だってある」
沙紀はようやく振り返り、笑った。
「それ、今朝は私が言った台詞よ」
と、扉が開いた。
入って来たのは久保田和彦警視正だった。
警務部首席監察官で、沙紀を監察へ引き上げた恩師だった。
野村が一歩下がった。
「今日はもう帰り給え」
「それは監察を止めろという指示ですか」
「沙紀」
久保田が初めて名前で呼んだ。
「帰りなさい」
声量は変わらなかった。
理由は言わない。
「分かりました」
沙紀は書類を閉じ、机に戻した。
必要なコピーはバッグの底にある。
エレベーターが1階へ降りる途中、知らない番号から電話が鳴った。
「片桐です」
「その写しは、戻していただけますか」
「お願い?」
「忠告です」
「どちらさま?」
「あなたは知らない方がいい人間です」
通話が切れた。
県警本部を出た沙紀は、その足で実家へ向かった。
連絡は入れなかった。
元警視正の父、坂井正志は、娘を咎めず居間へ通した。
沙紀が古い木のテーブルへ置いた紙を一枚、じっと見る。
驚かず、急須から茶を注いだ。
「これを消したの?」
「消してはいない。現にこうやって残ってるだろう」
「じゃあ、何に使ったの」
「人は、助けられた恩を忘れない」
「脅したの?」
「選ばせたのだ」
「何を」
「辞めるか、働くか」
沙紀はもう1枚を置いた。
「この警視、酒気帯びを握られて処分を免れた。そのあと、美里のところの議員が推した人事を通してる」
「つまり?」
「不祥事を揉み消したんじゃない。残して貸しにする。人事で助けて、後で返させる」
「そういう言い方なら、何でも汚く見える」
「これに綺麗な言い方ってある?」
坂井は静かに茶を飲んだ。
「政治家は安全圏から警察の弱みを探す。だから先にこっちが握る。自分達の弱みをな」
「それで何が守れるというの」
「警察という組織だ。法治国家の最後の砦だ」
「誰から?」
坂井は答えなかった。
沙紀は資料を外へ出さなかった。
情報には出し方がある。
片桐には、久保田が自分を切るように見える部分を。
美里には、片桐が亜希との関係を議員側へ売るように読める記録を。
野村には、妻と片桐の写真を。
亜希には、美里が握る政治家側の面会記録を。
久保田には、坂井が別の後継を立てると読める資料を。
嘘は1つもなかった。
全てを見せる事だけは、誰にもしなかった。
沙紀が置いた情報に、全員が保身で動いた。
片桐が久保田の名を出し、久保田は片桐を人事から外した。
美里は議員事務所から資料を持ち出した。
野村は亜希を切ろうとしたが、亜希は先に記者へ流した。
数日後、朝のニュースが1人の更迭を伝えた。
昼には2人。
夕方には県警本部の正面へ中継車が並び、夜には議員の名前が出た。
片桐から着信が3度あった。
《話せば分かる》
4度目だけメッセージが残った。
沙紀は迷わず削除した。
美里からは1度もなかった。
坂井から電話が来た。
「全てを壊すつもりか、沙紀」
「いいえ」
人気の消えた監察官室で、沙紀は外を見た。
「席替えが起きるだけ」
その夜、久保田の連絡先へ資料を1枚だけ送った。
返事はなかった。
3日後、知らない男から電話が来た。
「久保田さんの後は、どなたと話せば?」
沙紀は机の人事異動表を伏せた。
「私と」
沙紀は通話を切った。
湊と会えたのは、それから1週間後だった。
場所は夜のファミリーレストランだった。
湊は小さなUSBメモリをテーブルへ置いた。
「母が隠してました。警察には出してません」
誰に何を見せたか追える記録だった。
世に出れば、沙紀も無傷では済まない。
「これはあなたが持って帰りなさい」
「駄目です」
「私を売れば、あなただけは元の生活に戻れる」
「戻るところは、もうありません」
「お母さんは?」
「まだ僕の母です」
「だったら」
「それと、これとは別です」
沙紀はUSBを押し返した。
「もう私といる理由はないでしょう」
湊はそれを押し戻す。
「あります」
店員が2人の間に水を置いた。
どちらも触れなかった。
その夜。
沙紀の車は山道を走っていた。
助手席には湊がいる。
ラジオは県警幹部の更迭と議員側への事情聴取を伝えた。
「これから、どうするんです」
「考えてないわ」
「嘘です」
「どうして、そう思う?」
「考えてない人は、そんな顔しませんよ」
「どんな顔?」
「怖い顔」
沙紀が少し笑った。
「あなたはこの件から降りた方がいいわ」
「嫌です」
「まだ19歳でしょう」
「もう成人です」
「そういう所だけ大人ぶるのね」
「そういう所だけ子供扱いするんですね」
沙紀は一度だけ助手席を見る。
バックミラーに大型SUVが映った。
距離が詰まるが、追い越す気配はない。
ヘアピンの手前で、後部に一度だけ衝撃が来た。
車体が横を向き、タイヤが鳴く。
湊がダッシュボードへ手をついた。
沙紀はハンドルを切ったが、戻らない。
ダッシュボードの上でスマートフォンが点灯した。
沙紀が画面を見る。
《県警案件終了》
差出人はなかった。
前方にガードレールが迫る。
白い光が車内を満たす。
沙紀は咄嗟に左腕を湊の胸の前へ伸ばした。
次の瞬間、車体が宙へ出た。




