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愛と背信の記録

作者: 末長敬司
掲載日:2026/10/01

〈登場人物〉


片桐沙紀(かたぎりさき)(38)

県警本部警務部監察官室長補佐/警部。

服務事故や不祥事を調べる監察官。本作の主人公。


片桐修司(かたぎりしゅうじ)(42)

県警本部警務部警務課/警部。

沙紀の夫。県警の人事に関わり、美里と亜希の双方と関係を持つ。


坂井美里(さかいみさと)(34)

国会議員公設秘書。

沙紀の妹。姉の夫・片桐と不倫関係にある。


野村卓也(のむらたくや)(44)

県警本部警務部監察官室/警部。

沙紀と5年間組んできた同僚。亜希の夫。


野村亜希(のむらあき)(42)

民間危機管理・広報コンサルタント。

元地方紙記者。野村の妻であり、片桐のもう一人の愛人。


野村湊(のむらみなと)(19)

大学1年生。

野村と亜希の息子。沙紀との出会いをきっかけに、両親の世界へ巻き込まれていく。


久保田和彦(くぼたかずひこ)(56)

県警本部警務部首席監察官/警視正。

沙紀を監察官へ引き上げた恩師。


坂井正志(さかいまさし)(68)

元県警警視正/警備関係団体顧問。

沙紀と美里の父。かつて県警中枢にいた人物。

挿絵(By みてみん)


 県警本部警務部監察官室長補佐の片桐沙紀(かたぎりさき)警部が帰宅したのは、午後10時前だった。

 夜間監察が対象者の入院で流れたが、これでも珍しく早い方だ。

 玄関に入ると、真っ先に見慣れた女物のパンプスが目に入った。

 妹の坂井美里(さかいみさと)がいつも履いているものだった。


 台所の灯りだけがついていた。

 沙紀がリビングへ入ると、全裸で冷蔵庫の前に立っていた美里が、牛乳のパックを持ったまま振り返った。

 テーブルにはワイングラスが2つ。

 片方には口紅が残っていた。


 寝室の扉が開くと、夫の片桐修司(かたぎりしゅうじ)がシャツのボタンを留めながら出てきた。

 県警本部警務部警務課で人事を扱う警部が、妻を迎える格好ではなかった。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 沙紀は美里を無視して冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを1本取った。

「気にしないで。続けて頂戴」

 美里が眉を動かす。

「お姉ちゃん」

「せっかくワインまで開けたんでしょう。香り、飛んじゃうわよ」

「沙紀、話そう」

 片桐が言った。

「何を?」

 沙紀はキャップを開けずに家を出た。


 数日後、沙紀はホテル地下の駐車場で片桐の車を待った。

 照会端末は使わない。

 夫の不倫を調べるのに、警察官の身分は要らない。


 午前零時を回り、エレベーターから片桐が女と出てきた。

 民間の危機管理・広報コンサルタント、野村亜希(のむらあき)。

 監察官室で5年組む野村卓也(のむらたくや)警部の妻だった。


 亜希は笑いながら片桐のネクタイを直し、そのまま指先で胸元を撫でた。

 片桐はその手を取って、一度だけ口づけた。


 沙紀は2人を数枚撮った。

 そのまま帰宅せず、車内で亜希の公開情報を拾った。

 大学1年の息子、野村湊(のむらみなと)19歳。


 写真を見て、沙紀はメッセージを送った。

《野村湊さんですか》


 翌日、沙紀はシティホテルのラウンジを指定した。

 湊は約束より10分早く来た。

 紺のパーカー、白いシャツ、履き潰したスニーカー。


 注文を取りに来た店員へ、沙紀はワインを1杯頼んだ。

「彼には、何かジュースを」

「コーヒーを。ブラックで」

 湊が口を挟んだ。

 沙紀が横目で見る。

「無理しなくてもいいのよ」

「子供扱いしなくてもいいですよ」

「19歳でしょう」

「成人です」

「お酒は20歳になってから」

「そういう所だけ、真面目なんですね」

 沙紀は少し笑った。

「そういう所だけ、ね」


 沙紀は結婚指輪を外さなかった。

「母とは、どういう知り合いなんですか」

「そうね、あなたが知らない方がいい知り合いかな」

「じゃあ、どうして僕と?」

「会ってみたかったから」

「それだけですか?」

「どうかしらね」


 ラウンジを出ると、沙紀は立ち止まった。

「ここで帰ってもいいのよ」

「帰ってほしいんですか」

 沙紀は答えず、エレベーターの上階ボタンを押した。

 扉が開くと、湊も乗った。


 翌朝、カーテンの隙間から白い光が差していた。

 服は椅子の背にきちんと掛けられている。

 湊はベッド脇でスニーカーの紐を結んでいた。


 沙紀は窓際でコーヒーを飲み、湊の背中を見た。

「ずいぶん静かなのね」

「何がですか」

「こういう朝なのに」

 湊は少し考えた。

「初めてだったので」

 カップを口へ運ぶ沙紀の手が止まる。

「出会って直ぐの女と寝るのが?」

「起きた事、全部です」


 エアコンの音だけが響いた。


「言わなかった」

「聞かれなかった」


 その音を押しのけるように、湊のスマートフォンが鳴る。

 画面に亜希の名前とメッセージが出た。

《何を知ってる?》


 沙紀はカップを置いた。

「お母さん、仕事が早いのね」

「あなたから連絡が来たって話したんです」

「それで?」

「会って、何を知ってるか確かめて来いって」

「それでここまで?」

「いえ、来たのは僕の意志です」


 沙紀は初めて少しだけ困った顔をした。

 湊が続けた。

「父も知ってます。母と、あなたの旦那さんの事」

「いつから」

「父は、多分かなり前から」

「それでよく夫婦を続けていられるわね」

「そういう家庭なんですよ」

「便利な言葉ね」

「あなたの家庭も、似たようなものじゃありませんか」


 沙紀は答えなかった。


 県警本部へ戻ると、ホテルの写真、野村の職員情報、過去3年の服務事故記録と人事異動表を広げた。

 権限の範囲内だけだ。


 酒気帯びを起こした警視は処分を免(まぬか)れ、翌年、本部の要職へ上がっている。

 暴力沙汰の警部は地方署へ飛ばされ、半年後に本部へ戻った。

 どちらも起案、調整、面談記録に片桐の名がある。

 1件には美里が勤める議員事務所との面会記録。

 もう1件には亜希の会社名。


「そこまでにしておけ」


 背後には野村がいた。

 沙紀は振り返らず続ける。

「全部知ってたのね、野村警部」

「何をだ」

「奥さんの事よ。それに片桐警部の事も」

「ここで家庭の話をするな」

「お話が家庭を飛び出したから聞いてるの」

 野村の顎(あご)が動いた。

「家庭なんてものは壊れる。人も辞める。だが組織は残る」

「だから奥さんまで差し出したの?」

「順番が逆だ。個人より組織の方が長く残る。それだけだ」

 野村は机上(きじょう)の写真へ目を落とした。

「この世界には、知らない方がいい事だってある」

 沙紀はようやく振り返り、笑った。

「それ、今朝は私が言った台詞よ」


 と、扉が開いた。

 入って来たのは久保田和彦(くぼたかずひこ)警視正だった。

 警務部首席監察官で、沙紀を監察へ引き上げた恩師だった。

 野村が一歩下がった。

「今日はもう帰り給(たま)え」

「それは監察を止めろという指示ですか」

「沙紀」

 久保田が初めて名前で呼んだ。

「帰りなさい」

 声量は変わらなかった。

 理由は言わない。

「分かりました」

 沙紀は書類を閉じ、机に戻した。

 必要なコピーはバッグの底にある。


 エレベーターが1階へ降りる途中、知らない番号から電話が鳴った。

「片桐です」

「その写しは、戻していただけますか」

「お願い?」

「忠告です」

「どちらさま?」

「あなたは知らない方がいい人間です」


 通話が切れた。


 県警本部を出た沙紀は、その足で実家へ向かった。

 連絡は入れなかった。


 元警視正の父、坂井正志(さかいまさし)は、娘を咎(とが)めず居間へ通した。

 沙紀が古い木のテーブルへ置いた紙を一枚、じっと見る。

 驚かず、急須から茶を注いだ。


「これを消したの?」

「消してはいない。現にこうやって残ってるだろう」

「じゃあ、何に使ったの」

「人は、助けられた恩を忘れない」

「脅したの?」

「選ばせたのだ」

「何を」

「辞めるか、働くか」


 沙紀はもう1枚を置いた。

「この警視、酒気帯びを握られて処分を免(まぬか)れた。そのあと、美里のところの議員が推した人事を通してる」

「つまり?」

「不祥事を揉み消したんじゃない。残して貸しにする。人事で助けて、後で返させる」

「そういう言い方なら、何でも汚く見える」

「これに綺麗な言い方ってある?」


 坂井は静かに茶を飲んだ。

「政治家は安全圏から警察の弱みを探す。だから先にこっちが握る。自分達の弱みをな」

「それで何が守れるというの」

「警察という組織だ。法治国家の最後の砦だ」

「誰から?」


 坂井は答えなかった。


 沙紀は資料を外へ出さなかった。


 情報には出し方がある。


 片桐には、久保田が自分を切るように見える部分を。

 美里には、片桐が亜希との関係を議員側へ売るように読める記録を。

 野村には、妻と片桐の写真を。

 亜希には、美里が握る政治家側の面会記録を。

 久保田には、坂井が別の後継を立てると読める資料を。


 嘘は1つもなかった。

 全てを見せる事だけは、誰にもしなかった。


 沙紀が置いた情報に、全員が保身で動いた。

 片桐が久保田の名を出し、久保田は片桐を人事から外した。

 美里は議員事務所から資料を持ち出した。

 野村は亜希を切ろうとしたが、亜希は先に記者へ流した。


 数日後、朝のニュースが1人の更迭(こうてつ)を伝えた。

 昼には2人。

 夕方には県警本部の正面へ中継車が並び、夜には議員の名前が出た。


 片桐から着信が3度あった。

《話せば分かる》

 4度目だけメッセージが残った。

 沙紀は迷わず削除した。


 美里からは1度もなかった。


 坂井から電話が来た。

「全てを壊すつもりか、沙紀」

「いいえ」

 人気の消えた監察官室で、沙紀は外を見た。

「席替えが起きるだけ」


 その夜、久保田の連絡先へ資料を1枚だけ送った。

 返事はなかった。


 3日後、知らない男から電話が来た。

「久保田さんの後は、どなたと話せば?」

 沙紀は机の人事異動表を伏せた。

「私と」

 沙紀は通話を切った。


 湊と会えたのは、それから1週間後だった。

 場所は夜のファミリーレストランだった。

 湊は小さなUSBメモリをテーブルへ置いた。

「母が隠してました。警察には出してません」

 誰に何を見せたか追える記録だった。

 世に出れば、沙紀も無傷では済まない。


「これはあなたが持って帰りなさい」

「駄目です」

「私を売れば、あなただけは元の生活に戻れる」

「戻るところは、もうありません」

「お母さんは?」

「まだ僕の母です」

「だったら」

「それと、これとは別です」


 沙紀はUSBを押し返した。

「もう私といる理由はないでしょう」


 湊はそれを押し戻す。

「あります」


 店員が2人の間に水を置いた。

 どちらも触れなかった。


 その夜。

 沙紀の車は山道を走っていた。

 助手席には湊がいる。

 ラジオは県警幹部の更迭(こうてつ)と議員側への事情聴取を伝えた。


「これから、どうするんです」

「考えてないわ」

「嘘です」

「どうして、そう思う?」

「考えてない人は、そんな顔しませんよ」

「どんな顔?」

「怖い顔」


 沙紀が少し笑った。

「あなたはこの件から降りた方がいいわ」

「嫌です」

「まだ19歳でしょう」

「もう成人です」

「そういう所だけ大人ぶるのね」

「そういう所だけ子供扱いするんですね」


 沙紀は一度だけ助手席を見る。


 バックミラーに大型SUVが映った。

 距離が詰まるが、追い越す気配はない。

 ヘアピンの手前で、後部に一度だけ衝撃が来た。

 車体が横を向き、タイヤが鳴く。

 湊がダッシュボードへ手をついた。

 沙紀はハンドルを切ったが、戻らない。


 ダッシュボードの上でスマートフォンが点灯した。

 沙紀が画面を見る。


《県警案件終了》


 差出人はなかった。


 前方にガードレールが迫る。

 白い光が車内を満たす。


 沙紀は咄嗟(とっさ)に左腕を湊の胸の前へ伸ばした。


 次の瞬間、車体が宙(ちゅう)へ出た。

挿絵(By みてみん)


念願だった「東海テ〇ビの昼ドラみたいな情念と愛欲のドロドロW不倫警察モノ」です。


つい出来心でやってしまいました。

反省しています。

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― 新着の感想 ―
短編の中に濃密な世界観が凝縮されており、とても読み応えがある作品でした。この続きはどうなるのか??気になりますσ(^_^;)
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