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第6話

 部屋に入れてホッとしたのか、それまで息を詰めていたらしい司が、大さな溜息を吐いた。暗がりから非常灯にほのかに照らされた横顔が、心配して苦しくなっていた私の胸の閊えを癒して解き放ってくれる。


 それにしても、こんなに遅くまで一体何をしていたのよ?


 司の予定に自分で勝手に巻き込まれて、不機嫌かつ寝不足になっていた私は、安心し切って靴を脱いでいる司の真上にあった照明スイッチをいきなりONにした。


「わあっ?」


 無防備でリラックスしていた司は、すぐ眼の前にパジャマ姿で仁王立ちになっている私に気付いて、飛び上がるほど驚いたみたい。


「ど、どこに行っていたのよ?」


 司が私の予想以上のリアクションで驚いてくれたお陰で、思わず吹きそうになってしまう。でも、今はちゃんと注意して叱っておかないと、また次に同じ事をしでかすに違いないわ。


 そう思って、緩みそうになった口元を引き締めると、キッと司を見上げた。


 身体を屈めて片足を上げ、靴を脱ぎかけたまま固まってしまった司は、眼を大きく見開いた状態で私の方を見ている。


 そしてその頬に、べったりと赤いインクみたいなものが……


「あ……なにその赤いの……?」


「えっ?」


 私の言葉に司は慌てて、手の甲を遣って顎の辺りをゴシゴシと擦った。


 本来玄関先の照明は、昼間のような明るさを必要としない。だけど私は司の右顎の辺りに赤ものが付いているのを発見して、胸が締め付けられるような不快感を直感的に味わった。


 拭った手の甲に残された赤い色が移り、それを見て司は一瞬だけ驚いたみたい。


「なんだ。さっきの口紅か……焦らさないでくださいよ。何処かで怪我したのかと思ったじゃないっすか」


 平然としてそれが『口紅』だと言い切った司の態度に、今度は私が固まる番だった。


 今まで心配して眠れなかった自分が馬鹿みたい。


 損をしたような気がして、俄かに悔しくなって来る。



 司の女癖の悪さは水守みもりんの調査報告で知っていた。


 私の部署に配属が決まるよりも先に、木村に採用する事自体が間違っているのだと水守りんが心配していたし、上役連中も懸念して噂されていた事だ。


 でも、私は一通りの護身術を心得ていたし、司が他の誰と付き合おうと私に迷惑を掛けないのであれば、それは司の自由なのだからと割り切っていた心算。



 なのに……


 誤魔化す処か、この私の目の前で……面と向かって『口紅だ』……だなんてハッキリと言うの?


 しかもこの状態で私の眼の前に現れても、ちっとも悪びれないと言うか、開き直っていると言うか……その度胸は一体何処から湧いて出て来るものなのよ? 


 こっちは流石に落ち込んでしまうわ。


「った……ただいま……」


 俄かに曇った私の表情を見た司は、焦りの色を隠せないまま取り敢えずの挨拶を遣した。


「『ただいま』じゃ無いでしょう? 今、何時だと思っているのよ!」


「四時半」


「時間を聞いているのじゃないわ」


「『何時だと思っている』のかって、課長言ったじゃないっスか。今」


 いつもと違う低い声で静かに言い返す。表情からは読み取れないけれど、少しだけ司がイラ立っているのが判る。


「そ、そうじゃなくって、わ、私は司の常識を訊いているのよ。女の人と一緒なら、朝までそうしていればいいじゃない! こっちは夜中に起こされて迷惑だわ」


「へぇえ……」


 私からの苦情を聞いた途端、司は肝を据えて開き直ったのか、急に不敵な態度を取った。


 司は靴を脱ぐなり私にずんずん近付いて来て、気圧されて後退さった私は壁際に追い詰められてしまった。それでも司は歩みを止めず、全身を密着させて来た。


「やっ……な、なによ?」


 ごつごつした司の身体。一通りの護身術をわきまえてはいるけれど、男の人にこんなにぴったりと身体を密着されてしまったのは、これが初めての事だった。


 むさ苦しい程の威圧感に私は戸惑う。


「課長、もしかして俺の事を心配して、起きていてくれたんスか?」


「ま、待ってなんかいないわよ。でも、し、心配くらいするでしょう? 帰りが遅いって書き置き残していても遅過ぎるわ……そっ、それよりも、くっ付かないでよっ!」


「ゼロ距離での護身術なんてありましたっけ?」


「な、何の事? っは……離れてよ!」

 

 私は惚けて答えた。もちろんこんな状況から逃げ出せるすべくらい心得ている。だけどそれを遣ってしまうと、今度は司の心が私から離れて行ってしまいそうな気がして……そして、いつでも逃げ出せるのだからと言う奢った安心感のお陰で、今は司がどう出るのかを知りたい欲望に取り憑かれてしまったの。


「あん!」


 司は私の顎に手を掛けると、強制的に顔を上げさせる。


「綺麗だ……」


「な、なにが?」


 吐息が直接掛りそうなくらい顔を近付けられてしまい、私は思わず息を飲み怯んだ。


「課長の口紅……ピンク色で旨そう……」


「く、口紅? メイクなんてしてやしないわ」


 就寝中にお化粧なんかしたら、お肌が荒れてしまうでしょ? その辺りの事は、この私よりも司の方が詳しいのじゃないかしら?


「ちょっとだけ……盗っちゃっても……いい?」

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