第3話
他部署に提出する設計図面の計算式で、間違っている箇所を見付けたから呼び出してミスを指摘した。
上司である私が勝手に訂正しても、何ら問題は無い些細なミスだけれど、この先彼を業務で成長させて行く過程では『気付かせて、以後の業務に反映出来る対策を立てさせる』事も必要だった。だから、簡単なミスであっても、指摘指導はするべきだと私は考え、敢えて彼を呼び出した。
ところが、その遣り取りが気に入らなかったらしく、加えて長い間の空腹に苛まれてイライラしていた彼は、遂に怒りを爆発させて強い貧血を起こしてしまった。
流石に目の前で倒れられたら、誰だって慌てるわよ。
私は彼の身の上に降りかかった『災難の後遺症』を見過ごす事が出来なくて……身を寄せる所も無くなっていた本人の了解を得ずに、自宅に『お持ち帰り』をしてしまい、以後彼とはなんとなくの関係を続けている。
「恵理の好みのタイプはどんな人? やっぱ総務部長の伊達さんかしら?」
琴美から『伊達』の名前を口にされてしまい、私は飛び上がりそうになるくらい驚いて、嫌な汗を掻いてしまった。
だって、みんなには内緒にしているけれど、彼は祖父――木村工業会長が勝手に決めた私の婚約者なんだもの。
彼は私よりも四つ年上で、父が経営しているこの木村工業の子会社である『伊達ケミカル』の一人息子。
木村工業へ子会社となる以前の旧社名は『伊達製薬』。創業が明治からと言う老舗で、医薬品を取り扱っていた業界国内最大手の製薬会社だった。
成長し続けていた伊達製薬は、今で言う『コンプライアンス』――内部告発から企業倫理を指摘され、マスコミにその営業手腕を暴かれて失墜した。今はかなり規模を縮小して、木村グループの傘下に入り『伊達ケミカル』と社名変更を余儀なくされてしまったけれど、元は木村よりも由緒ある一流企業だった会社で、伊達はその会社の御曹司。
彼は関東にある某有名経済大学を首席で卒業。文武両道に秀でた優秀な彼を、当時社長だったお爺様が見逃す筈は無く……伊達ケミカル次期社長としてその椅子が用意されていたにも関わらず、親会社である木村工業へ半ば強制的に雇用されてしまったのだそう。
彼を跡取りとして考えていた伊達家からしてみれば、彼は木村家へ人身御供か人質として差し出されたも同然だと誤解を招かれてしまうような処遇だったらしい。
自分の親の会社存続条件を楯にされて仕方無く、彼は入社後の三年間、経理部と人事部を一通り務めた後、その若さで異例の出世を果たし、現在の総務部長に就任している。
私が高校生の頃から、伊達は私の事を婚約者だと知っていたらしくて、特別な存在として大切に扱ってくれていた。
大切に想ってくれるのは嬉しいけれど、私はどうしても仲の良い幼馴染の位置から抜け出せないでいるし、彼の事をどうしても『婚約者』だとは認められないでいる。
私と彼とでは、趣味も違えば性格も多分……『合わない』と思う。長い時間を二人きりで居た事も無ければ、きつい言葉を投げ付けられたわけでも、口論をして争ったわけでも無い。むしろ、忙しい彼が逢えないのを心苦しく思っているのか、度々高価なプレゼント贈って来て、私を驚かせてくれるのだけれど……
彼の本当の狙いは、私の中に流れている『木村の血筋』であって『私』じゃない。
悲しいけれど、それを痛感したのは去年の設計部と総務部との合同飲み会での席だった。
小さかった頃から、他人に『大企業の令嬢』と意識されるのが嫌だった私は『ごく普通の女』として気取る事無く振舞い、必要以上に見栄を張るような事はしなかった。社員のみんなからは快く思われていたようだけれど、彼はそんな私が気に入らなかったみたいだった。
『木村家のお嬢様が……』
自宅のマンションに送って貰った時に、軽く酔っていた彼の口から自然とその言葉が漏れたのを、私は聞き逃さなかった。
彼はその酒宴の席で、私との事を社員のみんなに公表しようとしていたらしい。むしろその為に仕組まれた、直接関わりの無い部署同士の酒宴の席であったのに、彼は自分の思惑に気付かずに他の女性社員とはしゃぐ私を見て、公表を思い留めてしまったのだ。
あの時の伊達の悔しそうな表情が、私は未だに忘れられないで居る。
でも、私だって同じだった。この先彼と一緒になったとしても、彼の為に『壁の花』としておとなしく人形のように過ごすだなんてまっぴらだわ。いっその事、私に幻滅した彼が婚約を破棄してくれれば……とさえ願った。
なのに伊達は一向に私への態度を変えたりはしなかった。それどころか、その年齢では不可能だろうとされていた一級の上級管理職試験を受けて、合格すれば私との結婚をと望んで挑み、彼は宣言通りにストレートで合格したのだ。
前代未聞である最年少の上級管理職者の誕生に、当時の上役達は驚きを隠せなかったそうだ。尤も、これには更に凄い秘話があって、管理職試験を受けた伊達と同じ日に、彼よりも四歳年下で、同じ一級管理職試験を受けて合格しているもう一人の人物が居た。
彼の名は『藤代水守』。
彼は私の身内で、この木村工業を陰で支える総会屋『成和会』幹部であり、私をずっと見守ってくれている大切な幼馴染。