第9話「暴露、そして嘆きの輪唱」
階段の上に切り取られた空は、海の色を薄めたみたいに灰青だった。網は頭上で細い音を立て、動くたび、金属の節が額に触れて冷たい。通路の出口に立つ男は棒を肩に担いだまま、面倒そうな目でこちらを見下ろしている。晴は一段ずつ、足裏で踏み締めを確かめながら上った。後ろに葵、芽依。三人は並んで出ると、男がペダルから足を離し、網はゆっくり緩んだ。
「逃げようと思えば逃げられる。でも、疲れる。お互いに」男は棒の先の輪を床に置き、笑っていない目で言った。「君らは賢い。俺は仕事がある。好都合だ」
「どんな仕事」葵が遮った。言葉の角は隠していない。
「装置の解体と、データの回収。そして、余計な混乱を減らすこと」男は肩に棒を掛け直し、施設の外へ顎で指した。「今日は波が高い。風は止まったままなのに、変だろ。上の連中は、そういう『変』が好きだ」
「上の連中?」芽依は小さく繰り返した。
「資金を出す奴。命令を出す奴。失敗の責任を出す奴は、たぶんいない」男は言い、手近な棚を蹴った。埃が舞い、薄い光に混じった。「質問はもう終わりだ。降りてこいと言ったのは、単に手間を省きたかったからだ。戻ってくれ。俺は回収を始める」
男が身を翻したとき、晴は袖の陰で芽依の指が震えを抑えているのを見た。その指が、微かな動きで四角を描く。ブレーカー。芽依は施設に入った瞬間から、壁の配線と表示灯を見ていた。通路の脇に、錆びた分電盤がある。電気はまだ死んでいない。だからこそ、落とせば、何かが一瞬止まる。
「わかった。戻る」晴は素直に言って、半歩だけ男の後ろへ続いた。その一歩の途中で、靴の踵がわざと小さな工具箱を蹴る。金具が床で跳ねた。不機嫌な音が通路に反響する。男が反射的に振り返る。その瞬間に、葵が分電盤に手を伸ばした。錆びたレバーは固かったが、全体重を掛ければ下りる。甲高い切断音。施設の空気が一瞬だけ軽くなる。
光が消え、男の輪郭が薄れた。同時に、網のワイヤのどこかで火花が弾け、焦げた匂いが鼻を刺した。「あぶない!」芽依が叫び、葵の肩を抱いて引き寄せる。男は舌打ちをして棒を構えたが、暗闇は味方だ。晴は身をかがめ、棒の輪を腕で受け、思い切り引いた。男の体勢が崩れ、棒の先が壁にぶつかる。鈍い衝撃音。そのまま、三人は横に跳んだ。通路の影が幾筋も伸び、視界は壊れたフィルムみたいに断片だらけになる。
「走れ!」晴が叫び、三人は暗い階段を駆け下りた。背後で男の靴音が追ってくる。網の端が床を擦り、火花が散る。冷たい空気が肺を刺し、足の筋肉が悲鳴を上げる。扉の先の部屋は暗い。棚と机の間をすり抜け、紙とテープの山を踏み、倒し、散らす。男の手が網のスイッチを叩いたのか、天井から一瞬だけ赤い非常灯が点いた。めくらましのような赤の中で、葵が叫ぶ。「右!」
右の扉は半分壊れている。中は狭い制御室で、壁一面に古いモニターが並ぶ。赤い光を反射して、ガラスの目玉が無数に集まっているように見えた。センターの机に古い再生デッキが固定され、カセットとオープンリールが無造作に積まれている。晴は瞬時にドアを閉め、机ごと押し当てた。向こう側で、男が扉を蹴った。鉄がしなる音。時間は長くない。
「何か、鍵になるもの!」葵が周囲を漁る。芽依は棚の上の、携帯用バッテリとケーブルの束を見つけた。「通電してない。でも、再生は――」芽依の手は止まらなかった。電池の残量を確認し、最も新しいラベルのテープをデッキに差し込む。ボタンを押す。ガタガタと古い歯車が動き出し、ノイズが溢れる。
最初に映ったのは、見慣れた部屋だった。ここ。壁の穴、ぶら下がったスピーカー、床の傷。その中心に、五人の影。いや、別の五人。年齢も背格好も、どこか似ているが違う。画面は固定で、音声が上から降ってくる。「明日、誰かを殺さないと全員死ぬ」同じ声。同じ言葉。同じ、淡々とした響き。
四角い画面が切り替わる。次は、崖だ。夜。風が止まっている。男女が二人、揉み合い、滑り、落ちる。声はない。ただ、海面の暗い輪が広がっていくのだけが見える。次のテープ。浜。投票箱。小石。震える手。泣く声。沈黙。見知らぬ顔が、見慣れた動きを繰り返す。繰り返し、繰り返し。ラジオは、いつも同じタイミングで鳴る。
「ふざけてる」葵の声は低かった。笑いと怒りのどちらでもない。画面の端に、誰かの腕が一瞬映る。袖のライン。作業服。布の覆い。さっきの男と似ている。晴は唇を噛んだ。映像は、島の過去を編集して保存したものだ。誰かが、何度も、やり直しを観察している。検証している。娯楽にしている。勉強にしている。目的は、どれでもいい。ここにいる者にとっては、どれも悪夢と同じ意味を持つ。
「次」芽依が手を伸ばす。ラベルには手書きで数字と「放送席」。巻き戻し、再生。暗い部屋。机。マイク。壁に貼られた一覧表。声。「条件は満たされた。だが代償は不十分だ」――同じ文句だ。同じ抑揚。だが、その直後に、別の音が混ざった。誰かが咳払いし、そのまま低く言う。「次は、信じろ」
「今の、声」葵が顔を上げた。「聞いたことがある……」
別のテープ。再生。放送席。今度は、マイクの前に人影が頭だけ映った。キャップ。顎のライン。昔の学校の放送室を連想させる雑然とした空気。短い沈黙のあと、声が言う。「次の条件は三日後。選べ」そして息を継ぎ、つぶやくように続けた。「早く終わらせよう」その言い方が、どこかで聞いた冗談の調子と同じだった。
「健太」芽依の口から、名前が零れ落ちた。画面の下で、指先が見えた。癖のある関節の動き。彼が砂に地図を描くときと同じ指だ。晴の喉が乾く。葵は、しばらく声が出なかった。何本もテープを入れ替え、同じ放送席、同じ手、同じ癖の映像を確かめる。照明の位置が違い、服が違い、ラベルの日付はバラバラだが、声と指は同じだ。
「健太は、前にもここにいた」葵は呟いた。「私たちの前に。あるいは、私たちの裏で。『交換日誌』を交換する相手だったのかもしれない。誰かと、誰かの間に立って、言葉を運ぶ役」
「それとも……」芽依は言い淀んだ。「最初は被験者で、途中から観察者にされた。『やれと言われた』からやった。佐藤みたいに」
「どちらでも、私たちには同じだ」晴は言った。「彼は、ここで声になった。『声なら誰のでもいい』と、あの男は言った。けれど、誰かの声のほうが、効く。信じた相手の声なら、もっと」
扉が重く軋んだ。外の男が、やり方を変えたのだろう。工具で蝶番を外している音。時間はない。晴は素早くテープを二本、懐に滑り込ませ、残りの棚のテープをごっそり床に落とした。「全部は壊せない。けれど、鍵になるものは持ち出せる。『声』の正体を示すものがあれば、外へ流せる」
「外って、どこ」葵は顔を上げた。「風も止まって、海も船もない。この島の『外』は、どこにあるの」
「電波は、風で運ぶものじゃない」芽依が言った。自分に言い聞かせるように。「海軍の通信基地なら、非常波のルートがどこかに残ってる。救難信号のプリセット。誰かが聞いてるとは限らない。でも、誰も聞いてないとも限らない」
晴は頷き、制御盤の隅に並んだ配線を辿った。薄いパネルの裏、錆びたプリントに「EMG」と焼きついた小さなスイッチがある。海の非常用周波数に切り替えるための切替。上がれば発信、下がれば切断。通電は落としている。だが、携帯バッテリを直結すれば、一瞬だけでも信号を乗せられるかもしれない。
「芽依、さっきのバッテリ」晴は手を伸ばす。芽依がケーブルを素早く剥き、端子を露出させる。「短いほうがいい。火花が出る」葵が机の引き出しからビニールテープを引き出し、剥き出しの銅線をざっくりと固定した。三人の手が、濡れた獣の体温みたいに落ち着かず重なった。
扉が揺れ、蝶番が外れ、一枚が内側へ傾いた。男の棒の先が差し込まれ、網の輪が室内の空気をかき回す。「おい」抑えた声。「ちゃんと『戻ってくる』って言っただろ」
「戻るよ。終わったら」晴は視線を上げずに答え、芽依に小さく頷いた。赤い非常灯がまた瞬いた。瞬きに合わせて、彼らの心拍は針の先で弾かれるみたいに跳ね上がる。
「いくよ」芽依が囁く。「三、二、一」
端子がスイッチに触れ、微かな火花が踊った。同時に、機械の奥から低い唸りが立ち上がる。死んだ神経を針で叩き起こすような音。緑のランプが一度だけ点いた。晴はマイクを口元に寄せ、短く叫んだ。「こちら、島の内部から。無線を傍受している誰か、応答を――」
そのときだ。ラジオの声が、施設全体を満たした。天井から、壁から、床から、同じ響きが湧き上がる。「データ収集は順調だ。残りは二名」冷たい声が、冷たい数字を置いていく。「反応速度、適正。抵抗、観察中」
芽依が震え、葵が顔を歪めた。「残りは二名って、何?」葵の声はかすれた。「あと二人、殺せって意味? 二人残れば終わるって意味? どっちでも、地獄」
晴は歯を食いしばった。「カウントは、最初から決まっていた。五から二へ。『秤』の針を、そこへ合わせるまで、終わらない」
「そんなの、従わない」葵は怒鳴り、机を叩いた。叩いた振動で、テープが一つ床に落ち、カセットのフタが外れ、帯がほどけた。蛇のように黒い帯が広がる。それがさっきの映像の、誰かの喉の線と重なって見えた。
扉が完全に倒れ、男が踏み込んだ。棒の輪が唸り、床で滑って火花を散らす。「やめろ」男は短く命じた。「余計なことをするな。君らに選択の権利はもうない」
「権利がないのは、最初からだったのかもしれない」芽依は泣きながら、それでもスイッチに指を押し当て続けた。バッテリの電圧は落ちていく。緑のランプは二度目に点き、弱く消えた。晴はマイクを握り締め、もう一度叫ぶ。「誰か、聞こえる人がいるなら、記録を取ってくれ。ラジオの声は機械だ。『健太』の声を使っている」
「名前を使うな」男が棒で机を叩いた。金属音。知っている名を、知らない顔が持っていることに、男自身が動揺したのかもしれない。棒の輪が晴の肩を掠め、痺れが走る。晴の手からマイクが落ち、床で転がった。芽依が拾おうとしてつまずき、膝を打つ。葵は本能で、男に向かって飛び込んだ。棒の輪が空を切り、葵の肩越しに壁のスイッチに当たり、火花が散った。
その火花が、古い紙の端に燃え移った。燻っていた埃が一気に煙を上げる。男が舌打ちし、棒を引く。煙が天井へ溜まり、視界が乳白色に曇る。火の匂い。紙の焦げる甘い臭気。目が痛む。芽依が咳を堪え、葵が袖で口を覆う。男は壁の消火器を掴み、ためらいなく噴射した。白い粉が雪みたいに舞い、紙の火はすぐ潰えた。だが、その間に晴は男の背後に回り込み、彼の腰のベルトから細い金属の鍵束を盗むことに成功した。
「走れ」晴はまた叫んだ。今度は制御室ではない。隣のモニター室に開いた狭い換気口。網は張られていない。鍵束の一本で目隠しの板を外す。鉄の匂い。狭い闇。肩を斜めにして、体をすり抜かせる。芽依と葵が続く。男の棒が背中を掠めたが、痺れは来ない。電源は落ちたままだ。通路の向こうで、男が怒鳴る。「待て!」
換気ダクトは思ったより短かった。出口は斜面の途中、草に隠れた格子の裏だ。三人が這い出ると、昼の光が一瞬、現実感を取り戻させた。風はまだない。木々は相変わらず動かない。それでも、外気は室内よりも生きている匂いがする。
「どうする」葵は立ち上がり、頬の煤を指で拭った。「あいつはすぐ追ってくる。施設へ戻れば別の罠。浜へ戻れば、ラジオ。森の奥は、行き止まり」
「行き止まりを、行き止まりじゃなくする」晴はポケットのテープを示した。「これがあれば、『外』に投げられる。施設の上にアンテナの残骸があった。一本を倒して浜まで引ければ、仮設のロングワイヤにできる。非常用の周波数で、ノイズ混じりでも、繰り返して流す。名前と、声の仕組みと、島の座標。しつこく」
「届かないかもしれない」芽依は弱く言った。「でも、やるだけやる。やらなければ、絶対に届かない」
彼らは施設の裏手に回り、蔦に絡まったアンテナの残骸を見つけた。錆と塩でボロボロだが、アルミのポールは軽い。根元の固定を外し、三人で引きずる。丘を降り、茂みを抜け、浜へ向かう。指は滑り、腕は悲鳴を上げる。男の追跡は――今はない。彼にもやることがある。回収と、報告と、たぶん、制裁。
浜に着くと、空は青さを取り戻しつつあった。なのに風はない。水平線は平らで、波は素直すぎるほど素直に寄せる。アンテナを崖の上から垂らし、ポールを立て、ケーブルをラジオの古い端子に繋ぐ。電源は――昨夜、焚き火で乾かした電池と、携帯の残量と、施設から拝借したバッテリ。全部繋げば、短い時間だけ持つだろう。芽依は作業を進めながら、小声で数字を数えていた。三、二、一。三日。二名。一回。
ラジオの針が震えた。晴はマイクを握りしめる。葵はテープをデッキに入れ、必要な断片をループするようにセットした。健太の声の断片。ラジオの宣告の前後に、彼の咳払いと癖の言い回し。誰かが聞けば、分析できるはずだ。機械でも、耳でも。
「こちら、無人島。座標は……」晴は砂に指で数字を書き、読み上げた。「誰か、海上無線を聞いている者がいれば、記録を。ラジオの声は機械。被験者の声を模している。観察者がいる。実験は繰り返されている。映像の証拠がある」
電波が出ていく感触はない。風が運ばないから、なおさら手応えがない。けれど、アンテナの先端がわずかに震えた。まるで、遠いところで誰かがひとつ頷いたみたいに。芽依は目を閉じ、やわらかく祈るようにマイクの根元を握った。「届いて」
ラジオが、応えた。ノイズの底から、低い低い音が立ち上がり、やがて、あの声が出た。「データ収集は順調だ」――同じ言葉。続いて、違う一節。「統計誤差、増大。外部への漏出、阻止」
「止めに来る」葵が呟いた。「男だけじゃない。もっといる」
そのとき、浜の端で人影が動いた。一人。砂丘の上。逆光で顔は見えない。長い影。肩の線。歩き方。三人とも、同時に名前を呼んだ。
「健太!」
彼は答えなかった。砂丘をゆっくり降り、焚き火の跡とラジオの間に立った。目は疲れている。口元は固い。晴は喉を締め付けられる感覚に抗いながら、一歩前に出た。「ここまで、どこにいた」
健太は空を見上げ、短く笑った。「上と下の間。どっちが上で、どっちが下かは、もうわからない」それから、ラジオに視線を落とした。「やめろ、と言われたぞ。『漏出は止めろ』って」
「誰に」葵の目が細くなる。
「さあ。『声』に」健太は肩をすくめた。「俺も、お前らと同じだ。最初は『やれと言われた』からやった。途中で、それが楽になった。考えなくていいから。そのうち、『言われなくてもやる』ようになった。人は順応する。動物だから」
「放送席の映像」芽依の声は震えていた。「あれはあなただった」
「ああ」健太は肯定した。軽さのない肯定。「でも、あれが『俺』の全部じゃない。お前らの見てない俺もある。俺の見てないお前らもある」
晴はマイクを握る手に力を込めた。ラジオの針は安定しない。「『残りは二名』って、何だ。誰を残す。誰が決める」
「秤は、向こうにある」健太はラジオのケースを指で叩いた。「でも、針を揺らすのは、いつもこっちだ。俺たちの疑いと、選択と、嘆きだ。向こうはそれを数えて、笑うか、学ぶか、忘れるかする。俺は、どれでもいいと思うようになった。だから、ここに戻ってきた」
「何をしに」葵は吐き捨てるように言った。
「終わらせに」健太は答えた。「お前らが外に投げるなら、俺は中から切る。『声』を止める。三日後なんか待たない。二名なんか残さない。カウントそのものを壊す」
彼は足元のケーブルを跨ぎ、施設のほうへ向き直った。浜の土が、乾いた雨の匂いを立ち上らせる。風は、まだ戻らない。けれど、海の色は少しだけ濃くなった気がした。晴は健太の肩を掴もうとして、やめた。掴めば、引き止めたくなる。引き止めれば、責任を持つことになる。今は、誰も誰かの責任を持てない。
「お前たちは続けろ」健太は背中で言った。「座標と声と、名前と。『外』があると信じるほうを選べ。俺は、『中』があると信じるほうで戦う」
言い終えると、彼は砂丘を駆け上がった。施設へ続く木々の陰に吸い込まれる。葵が息をのむ。芽依が祈るように目を閉じる。晴はマイクに唇を寄せ、短く告げた。「こちら、繰り返す。座標は――」
ラジオが割り込んだ。「外部漏出、阻止。優先度、上昇。対象、三名。うち、一名は協力者。監視重点」淡々と、関心の欠片もない宣告。数字で命が分類される音。晴は吐き気をこらえ、言葉を続けた。「これを聞いているだれか。俺たちは『実験』なんかじゃない。人間だ。俺たちの嘆きを、記録してくれ」
嘆き。言葉にしてしまえば、軽くなる。けれど、言わないと、消える。彼は気づく。ここまで来て初めて、嘆きはデータにされるためだけじゃなく、生き延びるためにも必要なのだと。嘆くことは、誰かに「聞いてくれ」と渡すこと。渡したものの一部は、届く軌道に乗るかもしれない。
その夜、風はやはり戻らなかった。代わりに、海が低く唸り、空が耳の奥で鳴った。ラジオは長い沈黙のあと、低く語った。「データ収集は順調だ。残りは二名」二度目の宣告。針が、決めた場所に戻るように。芽依は泣き叫んだ。葵は逆上した。晴は黙って策を巡らした。観察者がいるなら、観察者を窮地に追い込む方法はある。証拠を燃やすのではなく、証拠を『外』へ漏らす。装置を壊すのではなく、装置を逆流させる。
「全部、壊すんじゃない」晴は言った。「保存媒体の半分は焼く。半分は浜に埋めて座標と一緒に送る。アンテナは明日の朝もう一度立て直す。発信は三分間隔。誰かが聞くまで」
「誰も聞かなかったら」芽依の声は、濡れた糸みたいに細かった。
「それでも、話は続く。ここにいるあいだ、続ける」晴は答え、空を見た。星は見えない。雲もない。何もない空。そこへ、言葉を投げる。投げ続ける。ラジオの声は、無視するかもしれない。だが無視は、聞いた後の動作だ。なら、もう半分は成功している。
夜更け、焚き火の向こうで、嘆きが輪唱になった。芽依が小さく、ひとりごとのように「やめて」と言う。葵が続けて「もういい」と言う。晴は短く「まだだ」と言った。重なる声は合唱にならない。音程も合わない。普通の人の嘆きは、いつだってバラバラだ。だからこそ、よく響く。島の冷たい空気の中で、三人の声は互いの背中に届き、砂に吸われ、海に薄く重ねられていった。
遠く、施設のほうで一瞬、火花が走った。続いて、低い爆ぜる音。健太だ。彼は「中」で戦っている。『声』を止めるのは無理でも、針を狂わせることはできる。カウントそのものを嘘にすることは、きっとできる。晴は拳を握り、ラジオの上に置いた。「聞こえるか。俺たちはここにいる。明日の朝も、その次の朝も。三日後なんて選ばない。誰が、誰を、残すか。俺たちが決める」
返事はなかった。けれど、ほんのいっとき、砂の表面に小さな渦が立った。風が、戻る練習をしているように見えた。いいだろう、と晴は心の中でつぶやく。戻りたいなら戻れ。俺たちは、戻らなくても前に進む。
夜は長い。長いままでいい。彼らの賭けは、今、始まったばかりだ。




