第8話「真相の断片と夜の罠」
佐藤の顔に掛けた布は、夜のうちに潮の匂いを吸って重くなっていた。朝、焚き火の灰に薄い光が差し込みはじめると同時に、芽依は黙って布を外した。海風はまだ戻らず、空気は張り詰めたままだ。晴と葵は少し離れて立ち、砂に残る足跡が夜のうちにどれだけ消えたかを数えるように眺めていた。
「大丈夫。見られる」芽依は自分に言い聞かせるように小さくつぶやき、指先を拭ってから、医療用の手袋代わりにビニール袋を手に巻き付けた。彼女はこの島へ来るまでは病院で研修をしていた。解剖ではない。けれど、事故死の初期判断くらいは、静脈の色や瞳孔、皮膚の変化から推測できる。
「首と側頭部に外力の痕。角度は……斜め。岩に当たったのは間違いないけど、落ちる前に当てられている打撲が、一つ」芽依は短く区切って言う。「掌にも切創。これは防御創。誰かの刃を払おうとして、浅く切った。崖で転落。直接の死因は、頭部への強打と出血。だけど……」
「だけど?」晴が促す。
「転落の前に、ここ。手首に細い痕。縄か、針金か。短時間で、強く締めた。擦れた痕が、二周分ある。拘束された可能性が高い」
葵は膝の上で固く握った自分の手を見ていた。その手が夜の岩の冷たさを覚えている。彼女は唇を噛み、視線を上げた。「私じゃない。崖で揉み合った。拘束なんてしてない。……してない」
晴は頷くでも、否定するでもなく、佐藤の周囲に残った砂の乱れを見た。波のラインの内側に、血が散った跡がある。飛沫は扇状。勢いある一点から弧を描いて落ちている。「誰かが“仕込んでいた”」晴は砂を指で掬いながら言った。「崖で揉み合いの前に、どこかで。針金なら、森の道具の中にあるかも」
「この傷は、私のせいじゃない」葵は言い、それから声を落とした。「でも、私のせいでもある。そういう言い方、ずるいのわかってる」
焚き火のそばに置いたラジオは沈黙したままだった。代わりに、浜の片隅で、砂に半ば埋もれていた空き缶が微かに揺れた。風ではない。鳥の影でもない。世界が息を潜めたまま、誰かの仕草だけが音を立てる。
遺体の検査を終えるころ、太陽は頭上に差し掛かりかけていた。だが影は朝と変わらず濃く、音は乾いている。芽依は布をかけ直し、小さく手を合わせた。その横顔に、葵が正面から立った。「私がやったことは、ここで終わってない。……わかってる。終わらせなきゃいけない。ラジオの声を止める」
晴は応じた。「物証を集めよう。島の真ん中に施設があるはずだ。昨日、地図の断片を見つけた」彼はポケットから湿った紙片を取り出した。黒い線と記号の書き込みはところどころ滲み、中央に四角形の印、その周囲に×印が複数ある。
「この×は、アンテナの跡」葵が覗き込み、即座に言った。「森の中で見た、金属の残骸の位置と合う」
「行くの……今?」芽依の声は不安に濡れていた。「夜になってからじゃ、罠にかかる。昼のうちに見つけて、日が残ってるうちに戻るべき」
晴は周囲を見渡した。風がない。鳴き声がない。島はまだ許していない。「昼に行く。三人で。健太がいないままだけど、待っても戻らない」
言い終えた瞬間、ラジオのスイッチが誰に触れられるでもなく「コッ」と鳴り、針がひとつ揺れた。ノイズが砂の上に広がるように膨らみ、すぐ引いた。声は出ない。だが、それだけで方向が正しいことを示す合図のように思えた。
荷物を軽くまとめ、彼らは森へ入った。背丈の高いシダが道を縁取る。足元は柔らかい。昼でも薄暗く、葉の天井から斑に光が落ちる。晴は先頭に立ち、地図の記号と目の前の地形を重ね合わせていく。砂地が終わり、土の匂いが濃くなり、やがて人工的なまっすぐさを持つ道の切れ端が現れた。苔に覆われた石畳。古いブロック。そこにかつて道が敷かれ、誰かが何度も通った痕跡。
「こっち」晴は言って石畳をたどる。やや下りになり、木々の間に、錆びた鉄の門扉が見えはじめた。門は片方が倒れ、片方は蔦に絡まって半開きのまま。門柱には消えかけの文字。英数字の並びと、四桁の数字。それ以上は読めない。
門の向こうは掘り返された地面が広がり、土が巻き上がった跡が点々とある。誰かが最近、ここをいじった。新しい足跡は風で消えにくい。芽依がしゃがみ込み、土の角を指で崩した。「掘って、埋めて、また掘ってる。何度も。電線の余りが地面から出てる。……危ないかも」
施設の入口は地面に半分埋まり、コンクリートで固められた楕円形のドアは既に壊れていた。中は暗い。晴は懐中電灯を取り出し、円盤のような光を投げ入れる。黄ばんだ紙束。壊れた計器。棚から落ちて割れたガラス。薄く埃をかぶった金属の箱。床には、アンテナとおぼしき長い金物の残骸が無造作に転がっている。
「ここで、やってたんだ」葵が呟く。「声を作り、人を選んで、風を止めて」
「風は、誰にも止められない」芽依が反射的に言い、それから口を閉じた。「でも、そう言いたいだけかもしれない」
晴は机の上の紙束を手に取った。表紙は焼けているが、中の数ページは残っている。手書きの文字。タイプされた表。ところどころに手で描いたグラフ。ページの端には日付と「試行」という言葉。
「読める?」葵が覗き込む。
「ところどころ」晴は声に出して読んだ。「『群衆の選択における責任と服従の分配』『極限状態における信頼度の測定』『音声刺激による決断誘導の試験』……目的は“選択の重さ”を測ること。ラジオは音声刺激。ノイズは……抵抗のための“歪み”。『風』という語が、何度も出てくる」
芽依が別のノートを手に取り、ページをめくった。そこには簡易な見取り図と、矢印、×印、「送信」「受信」と記された文字。矢印は島の中心へ向かい、×印は周辺へ散っている。「アンテナ網……。島全体を覆うように。誰かが、ここを“装置”にした」
棚の下で、晴の指先が硬いものに触れた。引っ張り出すと、黒い表紙の綴じノートが現れた。表紙に「記録」とだけ書かれ、中身はびっしりと文字で埋まっている。筆跡は何種類も混ざり、同じ筆跡が何度も途切れては現れる。最初のページにはこうある。
「初回試行。被験者六。選択提示。反応速度良好。風、停止」
次のページ。「二回目。被験者五。逸脱者あり。声に応じず。風、微弱」
さらに。「四回目。被験者七。連帯傾向。分断必要。音量増加。風、停止」
最後のほうのページには、乱暴な筆跡で短く。「観察継続。外部支援要。交換日誌欠落。第三者介入の疑い」
葵はノートをひったくるように取り、後ろのページへ早送りした。「ここ。『交換日誌』……健太が持ってたもの?」顔色が変わる。「彼は、どこまで知ってたの」
「わからない。でも、彼は“見た”んだ。中心の施設。送信の残骸。録音機の山」晴は言った。「彼は戻らない。戻っても、別の言葉を持って戻る」
部屋の奥、曲がった通路の先に、鉄製の扉が半分開いている。内側からこじ開けられた跡。扉の向こうには小さな部屋。壁一面に穴が開き、ケーブルが這い、天井からぶら下がったスピーカーの残骸が、密やかに揺れている。足元にはカセットテープが散らばり、巻き戻されたままのもの、切れて絡まったものが混ざり合っていた。
芽依が一つ拾い、ラベルを読む。「『七回目、選択提示、拒否、暴力化』」彼女は手を止め、顔を上げた。「暴力化、って、私たちのことをもう書いてあるみたいに見える」
「書いたのは、誰だろう」葵は周囲を探る。「ここを“使っていた”側? それとも、ここに閉じ込められて、書くしかなかった人?」
晴は小型の送信機の基板を持ち上げ、裏を見た。「電源は切れてる。配線を切断すれば、残りの機器が生きていても、一時的に止まるはず。……やってみる?」
「やったら、ラジオが喋るかもしれない」芽依の声は恐怖と希望の混ざり合った音だった。「あの声が、何か言ってくる。『次の条件』とか、そういうの」
「それでも、やる価値はある」葵はうなずいた。「『三日後』なんでしょう? 時間は、まだある。だけど、三日あれば、疑いはもっと増える。誰かがまた……」
言葉は尻すぼみになった。そのときだ。施設の外から、砂利を踏む音が響いた。三人とも、即座に動きを止めた。次に、複数の足音。静かだが、重い。扉の向こうの空気が一瞬だけ濃くなる。葵が指を唇に当て、手で「隠れて」と示す。三人はそれぞれ物陰に身を寄せた。
静寂。小さな金属音。誰かが工具を触る音。湿った靴底が鉄板を踏む、鈍い響き。それから、低く押し殺した声。「降りてこい」
反射的に、三人とも顔を見合わせた。声は一つ。男の声。聞き覚えは……ない。けれど、抑えた発音の癖が、どこかで耳にした気もする。
「降りてこい。見てるのはわかってる」同じ声が、二度目を告げる。今度は少し近い。「君らのほうが、早かったな」
葵の手が無意識にナイフを探り、何も持っていないことに気づいて止まった。彼女は唇を噛み、晴に視線で問う。晴は「待て」の合図をわずかに返した。芽依は呼吸を整え、足先で音を殺す。
「出ないなら、閉めるだけだよ」男の声。軽い鉄の軋みとともに、入口側で何かが動く音がした。外の光が狭まり、部屋の温度がほんの少し変わる。空気が入れ替わらなくなる閉塞。罠が形を持ちはじめた。
晴は決断した。物陰から半歩だけ体を出し、声の方向へ向けて言う。「出る。機械には触ってない。話がしたい」
「話は、嫌いじゃない」男の声は少し笑った。「けど、順番がある。降りてこい。三人で」
葵がささやく。「罠だ」
「罠でも、行くしかない」晴は短く返し、懐中電灯を消した。光は彼らの位置を教える。闇に目を慣らし、気配だけを頼りに三人は扉へ近づく。錆びた扉の縁から外へ出ると、狭い通路の向こうで影が動いた。
通路の出口――地上へ上がるコンクリートの階段の手前に、男が一人立っていた。帽子をかぶり、顔の下半分を布で覆っている。作業服のようなものを着て、手には長い棒。棒の先には、ループ状の金属。捕獲棒。動物を捕まえる道具の改造品に見えた。
男は無造作に棒を肩に担ぎ、首を傾げた。「思ったより、若い」
「あなたは誰?」葵が一歩前に出る。「何者?」
男は答えず、代わりに周囲を示した。「ここは昔、海軍の通信基地だった。次に、学者が来て心理試験をやった。次に、スポンサーがついて、娯楽にもなった。最後に、俺みたいな連中が、後片づけに呼ばれた。名前は、捨てた」
「後片づけ?」晴は一語ずつ確認するように繰り返した。
「そう。装置を止める。データを持ち帰る。人を減らす」男は棒の先を軽く持ち上げた。「でも、今回は少し違う。俺たちより早く、君らが“条件”を満たした。予定外だ。風が止まる時間が長すぎる。スポンサーは喜ぶが、現場は面倒」
芽依が震えを押し殺しながら問う。「“条件”って、何の?」
男は視線を逸らし、わざとらしく空を見た。「さあ。上の連中は説明が好きじゃない。俺はやれと言われたことをやる。降りてこい。君らの痕跡を確認する。話の続きは、そのあと」
葵の目が細くなる。「“やれと言われた”?」その言い回しに、三人の胸に同時にある顔が浮かんだ。佐藤。命令。やれ。
晴は半歩、葵の前へ出た。「一つだけ聞かせて。ラジオは、今でもどこかで誰かが喋ってる?」
男は肩をすくめた。「喋るのは機械さ。声は誰のでもいい。君のでも、彼女のでも、俺のでも。言うことが変わらなきゃ、同じだ」
言い終えると、男は足元のペダルのようなものを踏んだ。微かなクリック音。次の瞬間、通路の天井から細い網が落ちてきて、三人の頭上を覆った。葵が咄嗟に腕で防いだが、網は電線のように硬く、逃げ道を塞ぐ。芽依が低く呻き、晴は手で網を持ち上げようとした。男は棒のループを軽く振った。「やめておけ。触ると痺れる」
網の編み目の間から、男の目が見えた。笑っていなかった。乾いた、仕事の目だった。
「三日後だってね」男は言った。「“次の条件”。君らはそこで、何を信じる?」
ラジオが、どこかで、低く唸った。施設の奥か、地上か。壁が答えを返さない。風はまだ戻らない。夜の罠は、昼の光の中でも牙を見せるのだと、三人は同時に知った。
「降りてこい」男は繰り返し、網の端を引いた。階段の上には、外の空が小さく切り取られている。そこへ向かうしかない。向かえば、次は何かを差し出すことになる。差し出すのは、真実か、言葉か、名前か。
晴は網の下で、葵と芽依を一瞬だけ見た。二人が、頷いた。三人は、足を踏み出した。
階段の最初の段で、ラジオの声がはっきりとした。「次の条件は三日後」平坦な声。続いて、わずかに強い一語。「信じよ」
網が軋み、男の影が伸びた。外の空は、海の色をしていた。階段の途中で、晴は振り返らなかった。振り返れば、風のない空気の重さに足を止める気がしたからだ。前だけを見る。影は三つ。あと一つは、どこで伸びるのか。彼らはまだ、知らない。




