第7話「血の代償と風の沈黙」
夜は、焚き火の光を飲み込むように濃かった。海は静かで、音が遠かった。焚き火の輪の外はすぐに闇で、そこから先は目を凝らしても輪郭を結ばない。葵が立ち上がったとき、誰も気づかなかった。立つというより、水面から顔だけ出して息を吸うみたいに、静かに姿勢を変えただけだったからだ。彼女は合図も目配せもしない。寝袋の端に置いてあった水筒を取り、濡れた砂を踏んで、闇の方へ消えた。
しばらくして、彼女は戻ってきた。肩に小さな荷物袋を掛け、髪先に夜露を散らしている。焚き火に照らされた顔は、落ち着いて見えた。晴と目が合う。彼女は視線を逸らさず、小さく口を動かす。「水、汲んでくる。井戸の方」誰が見張りか、何時の交代か、そんな決まりよりも、喉の渇きのほうが切実だった。晴は短くうなずいた。言葉にして止めれば、何かが決壊するのを知っていた。
葵は焚き火の反対側へ回った。佐藤がそこにいた。座っているが、眠ってはいない。指が規則正しく膝を叩いている。彼女は歩みを緩め、半歩だけ近づいて囁いた。「井戸、付き合って。バケツ、重いから」佐藤は顔を上げた。空の方向を見ていた目が、ようやく目の前の人間を見たみたいに焦点を結ぶ。「……井戸」繰り返して、ゆっくり立ち上がる。動きはぎこちないが、足取りは確かだった。
二人の背中が闇に飲まれる直前、葵は何かに気づいたようにくるりと振り返り、晴のほうへ笑ってみせた。それは安心させる笑みではなく、運の流れを自分に寄せるための印に近かった。晴は手の甲で額をこすってから、焚き火に目を落とした。薪がはぜ、火の粉が低く舞い、落ちた先ですぐ冷えた。風がない夜は、火も早く疲れる。
森に入ると、音が変わった。枝を踏む音が乾き、葉擦れは途絶え、湿った土の踏み心地だけが足裏から全身に伝わる。井戸は小屋の跡地の脇にある。昔、誰かが掘った石組みで、今も底にわずかな水を留めている。葵はそこへ向かわず、手前で道を折れ、崖へ続く獣道に入った。佐藤は疑問を口にしない。彼の頭の内側で、何かがまだ命令の形をして残っているからだ。やれ。彼はたぶん、誰かにそう命じられ続けている。命じられている相手の顔は曖昧だが、言葉だけはくっきり残ってしまう。
崖の上は狭い台地になっている。腰を下ろせば星が見える場所だ。昼間、晴がここを通りかかったとき、足場の一部が脆くなっているのを葵は覚えていた。下は浅い入り江で、岩が噛み合っている。落ちれば大きな怪我をする。夜の闇なら、事故に見える。葵は崖際に立ち、足で土を押し固めながら、さりげなく斜面の端に細い石を並べる。踏めば崩れるしるし。佐藤が近づく気配。彼女は振り返らず、声を落とした。
「さっきの、影の話。三つ、増えてたやつ。気づいた?」
「影は……影は……」佐藤の言葉は続かない。その代わり、息が速くなる。瞳が左右に揺れ、焦点が合わない。やれ、という言葉が耳の奥でこだましている。
「私、昨日から考えてたんだ。ラジオの条件。誰かが死ねば終わるって、簡単な話じゃない。『選ばれた誰かが死ぬこと』か、『選ばせたまま死ぬこと』か。たぶん、あの声は後者を望んでる。誰が、どうして、って疑いを残したまま」
葵の声は静かだ。海のほうからゆるく息が届く。風がほんの少しだけ戻ったように思えるが、草一本は揺れない。
「だから事故に見せかける? 理屈は合ってる。でも、私には別案があるの。事故じゃなくて、佐藤さんの『選択』にする。あなたがここへ来たのは、あなたの足だ。誰のせいでもない。ね?」
その瞬間、佐藤の肩が跳ねた。牙を剥く前の犬のように、わずかに背中が盛り上がる。「俺は……命令されて……」そこで言葉が切れ、喉の奥で音が壊れた。「やれ、と」
葵は一歩、崖側へ引く。距離を詰めれば押し合いになる。距離を取れば、言葉が入り込む隙間が生まれる。彼女はその隙間に、刃を忍ばせていた。袖の裏、手首に沿うように果物ナイフを貼り付けている。抜けば一瞬。握れば二息。突けば半歩。自分に言い聞かせるみたいに頭の中で手順を並べる。事故に見せかけるための縄も持ってきた。崖の根元にひっそり張るつもりだった。だが、計画は森に入ってから柔らかく形を変えている。彼女の中に、怒りに似た熱がある。誰かが私たちの生活の重さを秤に乗せたなら、秤ごとひっくり返してやる。そんな熱だ。
「……水は?」佐藤が唐突に言う。繋がりのない問い。葵は首を振った。「後でいい。今は、話を」
「話は、要らない」佐藤は低く、しかしはっきり言った。次の瞬間、彼は前へ出た。肩から先が、思い切りよく押し出される。葵は引き、体を半身に捻る。足元の石が崩れ、乾いた音で転がった。佐藤の靴がその石を踏んだ。ずる、と土が滑る。体の軸が傾く。葵は左手で彼の袖を掴んだ。崖の縁に足をかける。二人の体が、狭い場所でぶつかり合う。息の音が重なり、指が袖の布を裂く。夜に、布が破れる音はよく通る。
「やめて」葵は言った。言いながら、右手でナイフを抜いた。鈍い光が、星明りの中でわずかに震える。彼女は刺さない。見せる。見せて、退かせる。そのつもりだった。退かないなら、浅く切る。手首か、肩か。血が出れば目が覚める。そう思った。だが、佐藤の反応は予想の斜め上だった。彼は目を見開き、刃ではなく、刃を持つ手首を掴んできた。握力が強い。骨が軋む。葵は咄嗟に踵で彼の脛を打った。佐藤の体が揺れる。二人は絡み合うように崖際を移動し、夜の中で足の位置を探り合う。踏み外せば落ちる。踏み止まれば、次に押す。考えるより先に筋肉が判断する時間が続いた。
「戻れ」葵は吐き捨てるように言う。「戻って、井戸へ行くの」佐藤は首を振る。「戻れない。やれと言われた」そのたび、彼の手の力が僅かに強くなる。葵の右手首は痺れた。指の感覚が鈍る。一瞬、刃が落ちそうになり、彼女は反射的に柄を握り直した。佐藤の指が滑る。その隙間に、刃先が彼の掌の皮膚をかすった。薄い血の線が、夜目にもわかった。佐藤の顔が熱に歪む。怒りに近い生の色だ。彼は葵の肩を押した。葵は堪え、踏ん張り、反動で彼の胸を突いた。
重心が崩れたのは、ほんの半歩の差だ。佐藤が崖の内側へ戻るか、外側へ倒れるか。刃が握り直されたか、落ちたか。夜の薄布が、二人の周囲だけ厚くなったみたいに時間が伸びる。次の瞬間、二人は同時に息を吸い、同時に吐いた。葵の右手が跳ね、刃先が横へ流れ、佐藤の側頭部をかすめた。鋭い音。焼けたような痛みが走ったのか、佐藤は反応して反対に体をひねった。その動きが、最後の決定になる。崖際の土が音もなく崩れ、佐藤の体が空に浮いた。
葵は掴みに行った。指先が佐藤の袖の切れ目を掴み、布はさらりと裂けた。体重が空へ滑る。葵は叫びそうになり、口を閉じた。声を出せば、夜が壊れる。わかっていても、喉の奥に熱いものがこみ上げる。佐藤の目が、初めてはっきり焦点を結んだ。彼は海を見たのではない。葵を見た。そこに、命令も罠もない一瞬の理解があった。体が落ちる。風がないのに、落ちるものには風が生まれる。衣服が鳴り、暗い岩が近づき、次いで鈍い衝撃の音が、崖上まで届いた。
静寂が、崖の縁に立った葵の耳を塞いだ。遅れて海が動き、白い線が広がった。血は、思っていたより少なかった。入り江に小さく、暗い円が一つ、それから引かれるように細い跡が沖へ伸びた。波が一度だけ強く揺れ、その中へと黒いものが沈んだ。夜の海は、なんでも飲み込む。
崖の上で、葵は膝をついた。指先が震え、刃が土に落ちた。自分の手が汚れているかどうか、確かめる勇気が出ない。喉が痛い。何か言葉を探すが、適切な言葉はどれも遠くにある。事故。自己判断。正当防衛。どれも、今の空気では軽すぎた。そこへ、足音が駆け上がってきた。晴と芽依だ。二人とも、顔が夜の色になっている。晴は崖の縁まで走り、下を覗き込んだ。芽依は途中で止まり、葵を抱きとめた。体温が触れて、葵の体が小さく震えた。
「落ちたの?」芽依の声は細い。葵はうなずくしかない。晴が静かに息を吐いた。長くない息だ。すでに戻らないことを理解するために必要な長さだけの息。「……下へ降りる。潮が上がる前に」晴が言い、三人は崖を迂回する道を選んだ。岩場は滑り、夜は深く、足を取る影が多い。三人の靴音が、波の音に混ざっていった。
入り江で彼らは見つけた。岩に打ち付けられて仰向けになった佐藤の体だ。顔には血が薄く流れ、目は半開きで、空も見ず、海も見ず、どこも見ていない。葵は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。芽依は震える手で頸動脈を探り、首を横に振った。医者の動きだが、そこには慰めはない。晴は無言で佐藤の手を握った。硬さはまだ残っている。そっと開くと、小さな紙片が握られていた。濡れて、指に張り付いている。晴は慎重に剥がした。指で水を弾き、字を読み取る。そこには一行だけ、荒い字で書かれていた。
次は信じろ。
「……誰を」晴の喉からこぼれたのは、それだけだ。誰に。何を。誰の声を。どの瞬間を。答えは、落ちてこない。夜は何も返さない。
その時、砂の上のラジオが鳴った。焚き火の場所に置いてきたはずなのに、波の向こうから聞こえる気がした。機械音がかすかに混じり、次いで、あの平坦な声。「条件は満たされた。だが代償は不十分だ」明瞭で、冷たい。理由も、評価も、ない。声はそれだけ告げ、切れた。海風は吹かない。鳥の声もない。波の音だけが、残った。
「代償って、何」芽依は泣きながら言う。涙は海の水に紛れて見えなくなる。葵は砂を掴み、爪の間に湿った土を詰めてうつむいた。「私の、何が足りないの。誰に、足りないの」彼女の声は誰にも向いていない。自分にも向いていない。夜の中にばら撒かれるだけだ。
遺体を焚き火の場所まで運ぶのに、長い時間がかかった。崖を迂回し、岩場をよけ、灯りを前に出して少しずつ進んだ。葵は何度も足を止めた。自分の手が白く見えるのが怖かった。手に付いた塩の感触が、皮膚を別のものに変える。晴は肩を貸し、芽依は足元を照らした。途中で健太の姿を見かけることはなかった。どこへ行ったのか。なぜ、今、ここにいないのか。問いは途中で途切れたまま、波に洗われ、角をなくした。
焚き火の前に運び着くと、葵はその場に崩れ、肩を震わせた。芽依は布で佐藤の顔を覆い、指先で何度も布の端を直した。儀式に似た動きだが、出来の悪い儀式だ。誰もそれを教えてくれない。晴は立ったまま海を見た。真っ黒な水平線。波は寄せて返すだけ。夜空は低く、星は無数にあるのに、灯りにはならない。彼はポケットから紙片を取り出し、もう一度読む。次は信じろ。誰の筆跡か。佐藤の字なのか。それとも誰かが握らせたのか。考えるたびに、答えは遠ざかる。
風は、完全に止まった。焚き火の火の粉は上がらず、低く漂ってすぐ砂に落ちた。煙はまっすぐにも流れず、輪の中で滞留し、目にしみる。木々はさっきから一本も揺れていない。葉の表も裏も、同じ側を見せたまま固まっている。世界が一度だけ停止ボタンを押されたみたいだ。音は遠い。人の声は、喉の中で丸くなったまま、外に出てこない。
葵は笑おうとした。声にならない笑いだ。自分に言い訳をしたい。正当化したい。選択だった、と。事故だった、と。私だけのせいじゃない、と。誰もがそうだ、と。だが唇は動くだけで、言葉は出ない。笑顔はすぐに崩れ、残ったのは疲れ切った顔だった。芽依が葵の肩に手を置く。柔らかい手だ。温度がある。「私はこんな結末、望んでなかった」彼女は何度も繰り返した。望むとか、望まないとか。そんな言葉が、今の島では軽すぎるのはわかっているのに、それ以外の言葉を彼女は持っていない。
晴は波を見続けた。海の明暗は、夜でも変わる。黒の中にも濃淡があり、浅瀬はわずかに明るい。そこに人の顔を探してしまう。佐藤の顔。生きていたときの顔。怒っていたときの顔。命令を繰り返す口。やれ、と言わされていた舌。彼は内側で問い直す。信じる、とは何か。誰を。何を。次は、誰の番か。誰が、誰を。問いはどれも、風があったら飛んでいきそうな軽さで、しかし風がないから、焚き火の煙のように輪の中で留まり続ける。
夜は長く、空気は重かった。時間は進んでいるはずなのに、焚き火の炎が溶けたガラスのようにゆっくりしか形を変えない。ラジオは黙ったままだ。あの声が言った「代償」が、何を意味するのか。命の数か。苦しみの量か。残した者の痛みか。秤はどこにある。誰が持っている。誰が針を見ている。ラジオの向こうにいる者たちの顔は、想像すればするほど薄れていく。
やがて、東の空が、わずかに色を変えた。夜がほんの少し薄くなる。それでも風は戻らない。鳥は鳴かない。世界の再生は、まだ許されていないらしい。晴は立ち上がり、焚き火のそばに座る葵と芽依を見た。二人とも、目の周りに黒い影を溜めている。言葉は少しずつ削れて、短い音だけが残った。
「……水を」芽依が言う。晴はうなずき、空のバケツを手に取った。「行く」葵は顔を上げなかった。彼女の肩は小刻みに揺れ、止まると静かになり、また揺れた。自分の中の何かが、さっき崩れた崖みたいに音もなく崩れているのだろう。崩れた破片は、拾い集めても元の形には戻らない。拾い集めるかどうかも、今はまだ決められない。
浜の端に置いたラジオが、突然、ひび割れた氷のように小さな音を立てた。誰も手を触れていない。電源は、つけていない。なのに、薄く、薄く、ノイズが浮き上がる。三人の視線がそろって向いた。声は出ない。耳だけが、夜明け前の空気に張り付く。ノイズは一度だけ強まり、すぐに消えた。言葉は、落ちなかった。代わりに、浜の砂に小さな渦がいくつも立ち、すぐ消えた。風が、戻りかけているのかもしれない。いや、違う。戻りかけているように見せているだけだ。島は、まだ彼らを離さない。
健太は、その間じゅう姿を見せなかった。焚き火の向こうにいるのか、森の中にいるのか。どこにもいないのか。葵は顔を上げ、晴に言った。「私、探してくる」晴は首を横に振った。「今は、だめだ」葵は唇を噛み、何も言い返さなかった。言えば言うほど、自分を守るための言葉になる。それを、自分が一番よく知っている。
朝は、予定より遅くやって来た。光が砂に落ちても、温度は上がらない。風は吹かない。木々は黙っている。ラジオは黙っている。世界が全員の答えを待っている。次は信じろ。紙片の文字は、乾いてからも黒々と滲んでいた。晴はそれを丁寧に折り畳み、ポケットに入れた。燃やすには早い。捨てるには遅い。持っているには重い。だが今は、それしかできなかった。
彼らは、同じ場所にいながら、それぞれ別の夜明けを迎えていた。葵は、自分の手の形を確かめ続けた。芽依は、佐藤の顔にかけた布の端を直し続けた。晴は、波の縁の白を見続けた。風のない島の朝は、遠くで鳴る目覚まし時計みたいに、彼らの意識を揺らすだけだった。起き上がるか、起き上がらないか。選ぶのはいつも自分だ。けれど、選び方はもう、前と同じではない。
「行こう」晴が言った。どこへ、と誰かが聞く前に、彼は続けた。「島の中心へ。発信の場所を探す」葵はうなずいた。芽依も、頷いた。答えがそこにあるかどうかはわからない。けれど、ここにいれば、疑いだけが増えていく。秤はどこかにある。針はきっと、誰かの指先で揺れている。見に行かなければ、何ひとつ、終わらない。
浜を離れる足取りは重かった。背中には、夜の重さがまだ乗っている。ラジオは置いていった。置いても、きっとまた鳴る。風が戻るときが来るとしても、それは、こちらが何かを差し出した後なのかもしれない。代償。島が求めるもの。彼らが差し出せるもの。選び続けなければならない日々は、まだ続く。
森の入口で、晴は振り返った。焚き火の跡と、布をかけられた佐藤の輪郭が、朝の光の中で薄く浮かんでいる。目を閉じると、崖の縁で交わした視線が蘇った。命令でも、罠でもない、一瞬の理解。あれが彼の最後だった。晴は唇を固く結び、前を向いた。歩き出す。足元の土は、昨日と同じ柔らかさを保っている。世界は変わらない顔で、まったく違う重さを押し付けてくる。
風はまだ、沈黙したままだった。




