第6話「裏切りの朝、牙を剥いた群れ」
朝の海は嘘のように穏やかだった。波は小さく寄せては返し、濡れた砂を薄く磨いていく。浜へ戻る道すがら、枝に残った夜露が肌を冷やした。焚き火の跡に近づいたとき、晴はふと足を止めた。砂地に伸びる影が、数を間違えている。太陽は低く、影は長い。だがそこには、彼ら四人のものとは別に、三つ分の人影の輪郭がくっきりと揺れていた。
誰も声を出せなかった。影だけが先に場へ着いていて、持ち主のいない黒が焚き火の焦げ跡の周りで寄り添っている。葵が肩越しに空を仰いだ。「蜃気楼じゃないよね」軽い調子に見せたが、笑顔の形は崩れている。芽依が晴の背中に手を添え、そっと指を震わせた。「誰かいる」彼女の囁きは砂に吸い込まれていった。
答えはすぐ姿を持った。焚き火の陰から、砂に足をとられながら男が現れた。佐藤だった。衣服は泥で汚れ、腕に擦り傷がある。だが何より変わったのは目だ。焦点が合わないまま、遠い場所を見ている。口は半開きで、言葉を探すようにぴくりと動く。晴が駆け寄ると、佐藤はやっと彼らの存在を認識したように瞬きをした。
「……あいつらがいた」最初の音は掠れ、次の語が続かない。喉から出たのは断片だけだ。「彼らは僕に言った。やれ、と」そこで言葉が切れ、また沈黙が落ちる。同じ短い文を、彼は何度も繰り返した。やれ、と。やれ、と。まるで自分の舌に命令を聞かせるみたいに。そのたび、彼の視線は焚き火の煤に吸い込まれていく。
誰が命令したのか。島に他の人間がいるのか。外からの声なのか。考えは雪崩のように増えたが、どれも確かではない。芽依が脈を取り、瞳孔を覗き、手首の震えを確かめる。「極度の疲労と脱水。それと、何かに怯えている。言語がうまくつながらない」彼女の声は淡々としているが、指先には焦りが残る。葵が辺りを睨み、砂丘の向こうに眼差しを走らせた。「“あいつら”が本当にいるなら、どこへ行ったのかな」
晴は砂に残る足跡を追った。焚き火の跡から少し離れた場所で、人の足と重ならない靴の痕が複数、途切れ途切れに並んでいる。踏み込みの深さが一定でない。重いものを運んだようにも見える。砂は風で消えかけているが、薄い痕は残っていた。誰かが佐藤を連れてきた。そう結論するしかなかった。
緊張がひとつの弦のように張り詰めたところで、音が離れた。健太の姿がないことに、誰かが気づいた。「健太?」晴が呼ぶ。返事はない。焚き火の裏、崖の影、倒木の陰。どこにもいない。探し回る間に、葵が焚き火の横で小さな布袋を見つけた。健太のだ。紐で結ばれ、海水で湿っている。中には折りたたんだノートが一冊。表紙は擦れて、鉛筆の粉が指に移った。
葵が広げると、薄い紙に走り書きが連なっていた。日付は乱れ、同じ文字が何度も重ねられ、ところどころ破られている。内容は驚くほど簡潔だった。「風とラジオ、次の人選」それだけが幾度も繰り返されている。ページの隙間に、地図の断片が挟まっていた。島の中央に印、短い矢印、×が三つ。葵が口の端を引き上げる。「交換日誌。誰かとやり取りしてたってことかも」
芽依が顔をしかめた。「健太は誰かと会っていた?」晴は否定も肯定もできなかった。ノートの別のページに、短い文があった。「真実は、聞く耳のある者にだけ」墨が滲み、文字の端がほつれている。見ているだけで胸の奥がざらついた。これを残して消えたのだ。意図か、偶然か。どちらにしても、彼は今ここにいない。
集団は動揺する。佐藤の曖昧な言葉、健太の失踪、影の数。疑う材料は揃った。彼らは話し合いの末、夜間の移動を全面的に禁じる決まりを作った。見張りを二人一組で交代し、焚き火から離れない。食料と水は中央にまとめ、個人の持ち物も一度全て出して確認した。透明さを増やすほど、互いの内側は荒れていく。自分のものを手放すとき、人はいつも少しだけ卑屈になる。守れと言われるほど、手は盗む動きを覚えてしまう。
佐藤はやがて、身体の奥から何かが逆流するような震えに襲われた。突然立ち上がり、遠くを見つめ、拳を固め、また力なく座り込む。怒りというより、命令に従わなければならないと信じ込まされた人間の動きだ。芽依が声をかける。「落ち着いて。ここにいる」佐藤は彼女の手を見て、目を逸らした。指の関節が白くなるほど力を込め、何かを必死に思い出そうとしている。結局、口から出るのはまた同じ断片だった。「やれ、と」
午後、ラジオが鳴った。錆びた金具が擦れるようなノイズが混じり、そのあと機械的な声が滑り込んでくる。「実行はまた必ず行われる。命は秤の上だ」感情のない抑揚で、冷たく言い渡す。静まった浜に、その言葉だけがいつまでも残った。芽依が顔を上げる。「秤って、誰が持ってるの」葵は乾いた笑いを漏らした。「審判者は、いつだって顔を出さない」
見張りの時間が始まった。晴と葵が最初の組。佐藤は焚き火の温度で体力を回復させ、芽依は水の残量を計る。昼の太陽は気まぐれに雲へ隠れ、影の長さを微妙に変え続けた。葵は横目で晴を見た。「ねえ、晴はまだラジオを信じてない?」晴は短く答える。「信じる、信じないじゃなく、現実に影響を与えてるものとして扱う」葵は笑う。「真面目。でもさ、信じないふりって、一番危ないよ」
葵の指が砂を撫で、簡単な図を描く。丸が五つ、線が交わり、矢印がいくつか。線の一部に×。彼女は囁いた。「監視を増やせば裏切りは減る? そんなことない。人は見られてるほど、見えないところを探すもの」晴は砂図を見て黙る。葵は指先で一つの丸を強く擦り、消した。「誰かがいなくなれば、均衡は崩れる。崩れた場所に新しいルールが流れ込む。ラジオはそこを狙っている」
夕方前、突風が一度だけ吹いた。砂粒が舞い、目を細めた瞬間、佐藤が立ち上がって右手を振り上げた。拳は真上へではなく、誰もいない空間を殴るように揺れた。次の瞬間、彼は自分の頬を叩き、倒れそうになって踏みとどまる。芽依が駆け寄る。「やめて!」佐藤は肩で大きく息をし、唇を噛み、またゆっくりと座った。暴力の矛先を自分に向けるくらいなら、まだ良いとでも言うかのように。
このまま夜を迎えるのは危険だった。晴は提案した。「交代の間隔を短くしよう。異常を見たら声を上げる合図を決める」葵が頷く。「合図は二度連続で手を叩く。三度は撤退」芽依は合図を繰り返し練習する。ぱん、ぱん。ぱん、ぱん。海風が徐々に弱まり、音は近くで丸まって落ちる。焚き火の火の粉が、早めに地面に降りるようになった。
日が落ちる寸前、健太が戻った。砂の斜面の上に立ち、こちらを見下ろしている。誰も動けなかった。彼はゆっくりと下りてきて、焚き火の前に立った。目は疲れ切っているが、どこかで決着をつけた人間の目だった。晴が問いただすより先に、健太が口を開く。「聞きたくない話なら、聞かなくていい。でも、俺は見た。島の中心にある施設。送信機の残骸。録音機が山ほど。誰かが何度も“試した”痕跡だ」
葵が細く息を吐いた。「誰かって、あんた?」挑発の短剣のような言葉。健太は首を横に振る。「俺じゃない。俺はただ、前の“誰か”の残した道を辿った。日誌は交換されてた。ページが切り取られた跡がある。必要なところだけ抜いて、残りは捨てたやつがいる」彼は布袋から紙片を取り出し、晴の手に渡した。ラジオの周波数のメモ。手書きの線が震えている。見覚えのある癖だ。誰のものか、喉まで出かかったが、誰も名前を言わなかった。
緊張の膜が焚き火の上に広がる。どの視線も、ほんの少しずつ他の誰かから逸れていく。距離を取れば安心すると思っているのに、距離は疑いを増幅させるだけだ。佐藤が突然、焚き火の棒を掴んで振り回した。「やれ、と言われたんだ!」叫びは短く、刃のように鋭かった。棒の先の火が散り、芽依の袖に小さな焦げ跡を作った。晴が飛び込んで棒を押さえ、砂に叩きつける。ぱん、ぱん。芽依の手が合図を刻む。耳に残る音が、脈打つ不安と重なった。
そこからは早かった。規則は紙のように薄い。恐怖は簡単にそれを破る。誰もが誰かのポケットを探り、隠し持った道具を奪い合う。刃物、針金、折れたガラス。夜に備えた準備は武器に変わる。葵はふと、焚き火の影に目を留めた。そこに置かれていたのは、小さな果物ナイフ。彼女は何気ない手つきでそれを拾い、袖に滑り込ませた。晴はそれを見たが、何も言わなかった。言葉にするほど、彼女は遠くへ行ってしまう気がしたからだ。
夜。風はほとんど止んだ。火は控えめに燃え、光が輪を作る。その輪の外は、途端に世界でなくなる。見張りは三十分刻み。最初の組は健太と芽依。二人は隣り合って座り、海の暗さを見張った。健太がぽつりと言う。「聞く耳のないやつは真実を嫌う。耳があるやつは……それを武器にする」芽依は顔を向けない。「どっちでも、痛いね」
交代の合図で二人が戻り、次に晴と葵が立つ。葵はナイフの位置を確かめた。その仕草はごく自然で、見逃せばただの癖のようにも見えた。彼女は暗がりに目を細め、低く言う。「ねえ、晴。もし、これが全部“実験”だったらさ。誰かを殺したら、終わると思う?」晴は首を横に振る。「終わらない。誰かが終わるだけだ」葵は短く笑った。「ロマンのない返事」
遠くで小さな音がした。石が誰かの靴で転がされたような、乾いた音。二人は同時に振り向く。光の輪の外で、佐藤が立っていた。眠っているはずの彼が、闇の中からこちらを見ている。目には相変わらず焦点がない。だが、足取りは静かで確かだった。晴が声をかけようとした瞬間、佐藤は人差し指を立てた。静かに、という合図。次いで、さっきと同じ短い言葉。「やれ」今度は彼自身の口から、はっきりと。
ぱん。ぱん。合図は一度だけ鳴った。芽依が寝袋から飛び起き、健太が棒を掴む。輪の中に人が集まる間に、葵は半歩前へ出た。目は光を捉え、刃の反射が袖の中でほんの一瞬きらめく。佐藤は構えない。ただ立っている。誰が最初に動くか、島が見ているような静けさだ。
健太が佐藤に歩み寄り、棒を低い位置で構えた。「落ち着け。誰の声も、ここにはいない」佐藤は首を傾げる。「いる。お前の後ろに」その言葉に健太の肩が硬くなった。誰もいない空間へ背中を向けるのは、たやすくない。芽依が「やめて」と言いかけ、言葉は途中で途切れた。葵が動いたからだ。
時間が薄い布のように裂け、場面が分割される。葵は一歩で距離を詰め、袖からナイフを滑らせた。刃は光を拾い、弧を描く。晴が手を伸ばす。止めようとしているのか、掴もうとしているのか、自分でもわからない。風のない夜は音を飲み込み、短い叫びすら生まれない。刃の先は、どこを選ぶのか。彼女の視線は、佐藤の喉元と、健太の背中と、晴の胸元の間を一瞬で測った。
ラジオが、不意に鳴った。鳴るはずのない、乾いたクリック音。続けて、いつもの平坦な声が落ちてくる。「実行の時刻は、今」誰かがため息を飲み込む音だけが、輪の中に響いた。世界は秤にかけられ、針は中央から静かに傾きはじめている。
葵の手首がわずかにひねられ、刃が角度を変える。その先にあるのは、選ばれるべき誰かか、選ばれたくない誰かか。晴は腕を伸ばし、指先に金属の冷たさを感じた。止める力は間に合うか、間に合わないか。夜の輪は、緊張のきしみを限界まで溜め込む。
その瞬間、砂の上で誰かが転んだ。ぱん、ぱん。芽依の合図が遅れて響く。視界の端で、佐藤の影が大きく揺れた。健太が体勢を崩し、棒が落ちる。刃は迷いを失い、一直線に走る。
風は吹かない。声は上がらない。焚き火の火の粉だけが、空へ不器用に登っていく。
次の瞬間、何が割れて、何が残るのか。秤の針は、まだ見えない。




