第10話(最終話)「周波数の終焉/風が動いたとき」
朝は、思っていたよりも静かだった。浜の砂は昨夜の足跡を薄く飲み込み、焚き火の跡は灰色の円として残っている。風は相変わらず戻らず、波はただ機械のように寄せては返す。三人は互いに言葉少なに頷き合い、森の奥、島の中心に口を開けた施設へ向かった。
晴は先頭を歩き、葵は肩から外した紐で短い棒を背に固定した。芽依は古い救急袋を抱えている。薄い雲は早足で流れているようで、しかし葉は一本も揺れない。世界が息を止めている間合いのなか、三人だけが音を連れて進んだ。
錆びた門をくぐれば、昨日の匂いがまだ濃かった。油、埃、紙。半ば崩れた入口を蹴り倒し、階段を降りると、中枢の室内は薄暗く、並んだモニターが黒い鏡のように三人の姿を重ねて映した。送信ラックは壁際に連なり、裏面にはコイルとトランスが露出している。机の上には録音機、音声の切り替え盤、ファンの止まったスイッチング電源。昨日奪った鍵束の一本で晴が主電源のボックスを開ける。
「一気にやる。録音媒体は、半分は壊す。半分は持ち出す。送信は止める。コイルを引きちぎれば、少なくとも今日中は使えない」
晴の声は掠れていたが、迷いはなかった。葵が頷き、机に積まれたテープとオープンリールの山を左右に分け、メモ用紙に印をつけて詰めていく。芽依は非常用の消火器を足元に転がし、燃やすものと燃やさないものを仕分ける。どの紙にも、どのテープにも、人の手の揺れが残っていた。そこには「試行」「観察」「逸脱」「代償」「風」という文字が何度も現れ、消え、再び現れている。
「ほんとうは、全部保存して裁きたい」葵がぽつりと言った。「世界のどこかに見せて、笑ってるやつの顔色を変えたい。でも、たぶん間に合わない」
「だから、半分は焼く」晴はコイルの固定ねじを外し、素手で銅線の束を掴んだ。「生きたままの蛇みたいでも、やる」
銅線は乾いた音で千切れ、黒い塵が舞った。次のラック、次の束。晴は側板に膝を当てて身体ごと引き剝がし、きしむ音とともにトランスの留め金をへし折る。指に細い切創が走り、赤い珠がにじむ。その血が銅線に触れると、妙に生々しい色になった。芽依がすぐに布を巻いたが、晴は手を止めなかった。ラジオの声がたとえないほど小さく、室内のどこかで泡立つ。
「条件は——」機械が喉を鳴らすように言いかけ、音は途切れた。次のラックのコイルを引き抜くと、今度は別の壁のスピーカーから「終わりではない」という文句が乾いた舌打ちのように落とされた。
「知ってる」葵が返す。「終わらない話なんて、世の中にはいくらでもある。でも、話し手は変えられる」
火をつけるのに、火は要らなかった。古い紙束の端に静電気のように火花が移り、墨の薄い線から先に茶色く焦げていく。芽依が消火器のピンを抜き、白い粉で炎の輪郭を潰す。燃やすのではなく、無効化する。熱よりも、機能を殺す。葵はテーブルの引き出しからハンマーを見つけ、モニターの角に叩きつけた。厚いガラスが罅を作り、画面の黒は砕けた鏡のようにずれた。
「見るのは終わりだよ」葵が言う。「あんたたちの目はここで閉じる」
そのとき、モニターのひとつが勝手に明るんだ。電源は落としたはずなのに、ほんの数秒だけ映像が浮かびあがる。映っていたのは浜。三人の背中が小さく、その向こうに海。遠くの水平線で、白い筋が線のように走った。船の余波にも見える。気のせいにも見える。画面はすぐに黒へ戻り、電源ランプの点だけが点滅を繰り返した。
「幻を見せるのが、上手ね」葵が吐き捨てる。
「幻でも、方向は知れる」晴は息を整え、最後のラックに腕を差し入れた。銅と樹脂の匂い、熱を失った鉄の匂い、微かな海塩の匂いが混ざり合う。指がコイルの奥を掴み、筋肉が軋む。ひとつ、ふたつ、金属の爪が折れ、コイルが裂けた。スピーカーは抗議するように唸ったが、声はもう長く続かない。
「終わりではない」ラジオが、最後の余力を絞って告げる。「学習は——」
そこまでで音は切れた。室内の空気が軽くなったような、逆に重力が戻ってきたような、おかしな変化が一瞬だけ走る。晴が手を引くと、指の震えが自分のものだとわかる。葵は胸の前で掌を握りしめ、芽依はゆっくり吸って、吐いた。
沈黙。
沈黙の向こう側で、世界がゆっくりと動いた。最初の合図は、髪の毛先だった。重さを取り戻した空気が、ほんの少しだけそれを揺らし、次に袖の布を撫でた。葉の表面が微かに裏返り、配線の切れ端が床を擦った。外から、遠い波の音の輪郭が厚くなる。冷たいものが頬の上を横切っていった。
風が戻った。
それは音より先に肌でわかる種類のニュースで、言葉より先に胸に届く種類の回答だった。室内の埃が舞い、煙の残り香が押し流され、三人の呼吸は一拍遅れて深くなった。階段の上から、鳥の鳴き声が降りてくる。誰かが長い間押さえていたボタンが、やっと離されたのだ、と体が納得した。
「戻った」芽依が笑った。泣きながら笑った。「戻った……!」
葵は笑い、しかし笑顔の奥に何かを隠したまま、額の汗を腕で拭った。「風だけは、嘘をつかないんだよ」
晴は椅子に腰を落として膝に手をつき、視界の縁を白くする痛みをやり過ごした。指の痛み、肩の重さ、胸の奥の熱。目頭が熱くなる。涙をこぼさないように、彼は歯を食いしばった。風は頬を冷やし、心拍の速さを少しずつ落とした。
ラジオは、壊れた楽器のようにかすかに痙攣を続け、突然、ひとつだけ明瞭な問いを投げた。「学習は成功したか?」
誰も、すぐには答えられなかった。成功とは何だ。装置を壊すことか。外へ漏らすことか。互いを信じ直すことか。あるいは、疑うことをやめないことか。晴は顔を上げ、黒い画面の連なりを見渡した。どの画面も自分の顔を薄く映し、その隣に葵、芽依の輪郭が重なっている。背後には、誰もいない。
「知るものか」葵が肩をすくめた。「あんたたちのテストに、私たちの答えは書いてない」
芽依は静かに言う。「でも、何かは、変わった。風がそれを教えてくれる」
施設の外へ出ると、森はいっせいにざわめいた。葉が裏返り、光が斑に揺れ、鳥が斜面を切って飛び立つ。さっきまで死んだ図面みたいだった島が、生き物の体に戻っていく。斜面に登る小道の途中、三人は一度だけ振り返った。地下の口は暗く、もう声は上がってこない。外に出てしまえば、ここはただの廃墟だ。
浜へ戻ると、風は顔と同じ高さで往復を繰り返していた。焚き火の灰は形を変え、砂は小さな波紋を作って滑る。水平線の上に白い線が浮かび、それが船の余波かどうかを確かめる前に消えた。視力のせいか、願望のせいか、どちらとも言えない。
「焼くやつ、埋めるやつ」葵が抱えてきたテープを砂に置き、印のついた束を分ける。「約束どおり半分。残したほうは、新しい風でどこかへ運ばれるかもしれない」
「運ばれないかもしれない」晴が言う。「でも、投げなければ、絶対に届かない」
芽依は浜の端に向かい、波打ち際に膝をついた。小さな穴を掘り、テープを包んで埋め、砂で蓋をして、上に丸い石を三つ並べた。三つの石は互いに寄り添い、波が寄せると一瞬だけ見えなくなり、すぐに顔を出した。
そのときだった。丘の影から、人影が現れた。健太か——と考えるより早く、視線が探す。しかし、そこには誰もいない。風が人の形を作って崩しただけだ。昨日の夜、施設のほうで爆ぜた火花の一瞬。中で何が起きたのか。彼がどこへ行ったのか。聞けない問いが、風に混ざって遠くへ流れていく。
「もし、彼が——」芽依が言いかけて口を閉じた。言葉は推測を産む。推測は毒にも薬にもなる。今は両方要らない。
晴は砂を拾い上げ、小さな石を一つ掌に移した。暖かい。太陽の熱ではなく、手の熱が移っている。「投げる」彼は言った。「それだけは、はっきりさせておきたい」
立ち上がり、腕を振る。石は空を切り、弧を描いて海へ落ちた。波紋が幾重にも広がり、消えて、また現れた。風が揺らし、波が飲み、陽が反射した瞬間、葵が微笑んだ。その目は遠くを見ていて、手前の痛みを全部隠しているみたいでもあった。
「ねえ」芽依が口を開いた。「私たちは——信じることを選んだの?」
風が答えのように頬を撫で、髪をくしゃりとやった。晴は少しだけ考えて、短く言った。「疑いを残したまま、信じるほうを選んだ。たぶん、それがいちばん人間に似てる」
葵は笑い、肩で息をした。「じゃあ、そのまま行こう。疑いを捨てないまま、信じていく。二つを天秤に乗せたまま、歩く」
遠くで、白い筋がまた見えた。今度ははっきりしているようで、やはり曖昧だ。風が強くなり、砂粒が足首を叩いた。ラジオは、沈黙したままだ。もしどこかで誰かがまたスイッチを入れても、その声は昨日と同じではないだろう。送信機のコイルは裂かれ、アンテナは倒れ、紙は粉になり、半分は海の底へ、半分は風の道へ出た。世界のどこかで、何かが微かに揺れたはずだ。
日が高くなるにつれて、島はふつうの島に戻っていった。鳥は巡回し、木は影を伸ばし、潮の匂いはいつもの濃さに落ち着いた。三人は、砂に腰を下ろした。肩を少しだけ触れ合わせ、同じ方向を見た。答えはない。けれど、問いが止まることもない。
「学習は成功したか?」——さっきの問いは、どこかでまだ響いている。成功が点でしか測られないなら、きっと失敗だ。成功が線で測られるなら、まだ途中だ。成功が面で測られるなら、今はどこに立っているのかさえわからない。晴は目を細め、波の稜線に視線を走らせた。風は顔を撫で、髪を持ち上げた。葵は指先で砂に何かの輪郭を描き、それをすぐに消した。芽依は立ち上がり、海のほうへ掌を向けた。まるで誰かに見せるように、まるで誰かから何かを受け取るように。
「帰れるかな」芽依が呟いた。
「帰るって、どこへ」葵が尋ねる。
「どこでも」芽依は笑い、涙を拭いた。「信じられるほうへ」
晴は二人の横顔を見て、小さく頷いた。答えは、いま決めることでも、誰かに決められることでもない。風が動いたとき、動けるだけ動く。石を投げる。声を出す。互いに目を合わせる。疑いを手放さず、信じることの側に立つ。
浜の砂は足跡をまた受け入れ、波はそれを薄く撫でていく。空の高いところで、見上げるほど小さな白が、ほんの一瞬、点のように光った。雲か、鳥か、帆か。誰にも言えない。誰にも決められない。けれど、その不確かさにこそ、今の三人は救われていた。
ラジオは、もう鳴らない。鳴らないことが、終わりなのか、始まりなのか。それもまた、風任せだ。風は嘘をつかない。ただ、何も説明しないだけだ。
晴は立ち上がり、掌の砂を払った。葵も芽依も立った。三人は、昨日までとは違う歩幅で、森の入口のほうへ歩き出した。振り返るタイミングは、誰も合わせなかった。各自のリズムで、一度だけ海を振り返り、そして前を向いた。
選んだのは、信じること。捨てなかったのは、疑い。二つを天秤に乗せたまま、島を出る準備を始める。世界は、彼らの事情など知らない顔で、きょうも風の路を広げていた。
【了】




