第1話「漂着と夜鳴きの受話器」
登場人物
・春野晴 — 22歳、主人公格。元大学生。冷静だが内に不安を抱える。
・青井葵 — 20代前半、明るく社交的だが神経質。人懐こく、人を操作する才能がある。
・佐藤健 — 30代、元自衛官。実務的で規律を重んじるが過去に暴力的な記憶がある。
・名取芽依 — 19歳、看護/医学生見習い。優しくて観察力が高いが感情を表に出せない。
・健太 — 25歳、自称フリーランス。魅力的で説得力がある。実は嘘が多い。
墜落は唐突に訪れた。空が割れるような音、白い火花、そして機体が海面を打つ瞬間の圧力。春野晴は冷たい海水に顔を突っ込み、肺の痛みとともに世界が引き戻されるのを感じた。目の前に広がるのは、黒い水面と、遠くに揺れる小さな点。次に、溺れかけた意識の底で断片がつながる――定期便のチャーター、笑い声、誰かがつぶやいた「揺れるね」、最後の避難指示の灯り。人生の断片が、ざらついた映像となって出戻ってくる。
岸に打ち上げられた五つの影は、誰かの運命の固まりのように横たわっていた。佐藤は顔に切り傷を負いながらも腰を起こし、周囲を確かめる。芽依は腕に包帯を巻いている。葵は砂の上に散らばった機内誌を拾い、物資の確認をしている。健太は笑っていた。どんな状況でも彼は笑う。笑顔は場を和ませる武器になる。晴はふと、自分の手を見た。爪の間に砂が詰まっている。指先が冷たい。五人は自然と役割を分け合った。火を起こす者、応急手当をする者、物資を探す者、周囲の安全を確保する者。生存は、偶然の集合と判断の連続で回っていく。
夜になると、海は別の性格を見せる。満天の星は冷たく、波音は一定のリズムで浜を叩く。風は夜の匂いを運び、焚き火の炎がゆらりと揺れた。誰もが放心の中にいて、会話は小さかった。そんなとき、金属の箱がかすかに震えた。最初は誰も気づかなかった。砂の中でごそごそと音がして、ダイヤルが回る音がした。ラジオだ。島は電波の届かない場所だと五人は思っていた。スマホは圏外、機体の通信機も破損しているはずだった。だが、焚き火の近くに置かれた小さな受話器が、誰も所有していないはずの声を拾い上げた。
「……明日、誰かを殺さないと全員死ぬ」
声は錆びついたようで、間を埋めるノイズが耳を刺す。冗談だろうか。誰かの悪戯か。芽依が笑って否定する。葵は眉をひそめ、佐藤は手に取ったラジオを振ってみる。健太は面白がって受話器を耳に当てた。晴は火のそばでじっとしていた。言葉は続く。条件が付け加えられる。短い沈黙、そして無機質な事実としての宣告。「選ばれたら知らせる」。選ばれる? 誰が選ばれるのか。放送は断片的で、ノイズの隙間に断定と推測が混ざるように聞こえた。
最初の笑いは、すぐに薄れていった。冗談が残す余韻は冷たく、誰もが自分の内側にある小さな恐れと直面する。生き延びるために「信じる」ことは、どれほどの重さを帯びるのか。ラジオを信じることは、互いに不信を植え付けることと同義なのか。晴は夜空を見上げ、波の黒に目をやりながら小さくつぶやいた。「もし本当なら、誰が選ばれるんだろう」。答えはない。朝まで、海はそのまま静かだった。
翌朝、砂の上に小さな印が現れていた。貝殻で形作られた“×印”。誰かが置いたものか、自然の造形か。風はいつもより静かで、時間が止まったように感じられた。空気が止まると、人は普段見過ごしているものに意味を探し始める。佐藤は印を指さし、眉を寄せた。「誰がこんなことを」芽依は震える手でその貝殻を拾い上げた。裏には何も書かれていない。ただの砂の上の印が、彼らの胸にある種の確信を与えた。
日中の作業で疲れが出ると、会話は徐々に日常に戻ろうとする。水を集める者、簡易の杖を作る者、負傷者のための屋根を立てる者。五人は生き抜くためのルーティンを回し始める。だが、ラジオの声は静かに彼らの脳裏で反芻される。夜になると、誰かがまた受話器に手を伸ばす。ノイズは相変わらずだが、言葉はもう一度立ち上がった。
「明日また、選ばれた者に告げる。選ばれた者は、各自が判断すること。拒否もできる。拒否は全体の死を意味する」
それは言い方の問題だった。選ばれることは個人の行為を求めるのか、集団の意思を問うのか。拒否する権利は、同時に他者を死に追いやる可能性を孕む。選ぶことの倫理を、そのまま押し付けられる。葵は背を丸めて笑う。「映画の見過ぎだよ」と言いながら、笑いはどこか乾いていた。健太は冗談を飛ばして場を和ませる。だが、その笑いが結界のように機能することはない。夜の火はいつまでも赤く、五人の影を長く伸ばしていた。
晴は一人で浜を歩いた。海が運ぶ音に耳を澄ませながら考える。誰かを殺すという行為は、生き残るための合理的選択なのか、それとも文明の最後の狂気なのか。理性は答えを出そうとする。だが海は厳しく、どんなに理屈を積み上げても冷たい水面は無表情で返すだけだった。彼はふと、自分が何を守りたいのかを確かめる必要があると感じた。名前か、記憶か、仲間か。それともただ、生きているという事実そのものか。
夕暮れ、五人は円を作って座り、食事を分け合う。会話はときどき途切れ、視線が交差する。佐藤は実務的に話す。「もし選ばれたら、どうするべきか。プランを立てよう」芽依は目を伏せ、「誰も選ばれたくない」と言った。葵は静かに、「でも、もし誰かを犠牲にして皆が助かるなら」と呟いた。言葉は重く、すぐに空気を濁す。健太が笑ってフォローする。笑いは一瞬、重さを薄める。だが誰もが知っている。明日の朝、彼らが見つけるものは、ただの貝殻の×印ではないということを。
夜中、ラジオは小刻みにノイズを吐き出した。受話器越しに聞こえるのは、時に子どもの声のように途切れ、時に機械的で冷たい声。言葉は永遠に明確にならない。選ばれる基準も、選ばれた後の処理も曖昧だ。だがその曖昧さが一つの結論を導く。選択を突きつけられたとき、人は自分の利得と他者の命との差をどう衡量するのか。ここにいる五人は、すでに互いを信じるしかない仲間であり、同時に互いを疑える可能性を抱えた他人でもある。
やがて、浜に白い月光が差す。波は低く、風は止まりかけている。誰も眠れないまま、時間だけがゆっくりと流れた。晴は受話器を手に取ることなく、ただ火を見つめていた。火は燃え尽きるまでに時間がかかる。人間の倫理も、きっとその火と似ている。ゆっくりと、じわりと、消耗していくのだ。
翌朝、遠くで鳥が鳴いた。砂の上の×印は、さらに大きくなっていたように見える。誰かが夜のうちに貝殻を足していったのかもしれない。佐藤はその印の前で立ち止まり、五人は無言で輪になった。選ばれるということの意味は、今や信じるか信じないかの二択の外にある。選ぶこと自体が問いなのだ。晴は小さく息を吸って言った。「話し合おう。俺たちで決めるしかない」声は揺れていたが、誰も異を唱えなかった。
五人は浜の小さな会議で、初めて互いの本音を探り始めた。誰が自ら手を挙げるのか。誰が拒否する権利を主張するのか。そこにあるのは単純な答えではない。友情や同情、恐怖と利己心が混ざり合い、真実は濁る。ラジオはまだノイズを撒き散らしている。だが今、彼らの間には新しい宣告が生まれていた。選択は外から与えられるだけでなく、自分たちの内に芽生えるものでもある――そしてその芽は、やがて刃にも花にも変わり得るのだ。




