はじめての街
森の中を歩いて、どれくらい経っただろう。
太陽の位置もよく分からない。時計もない。
ただ分かるのは――腹が減った、ということだった。
「……おい、異世界。腹は減らない仕様とか、そういう優しさはないのか?」
神谷透は、ぼやきながら森を進んでいた。
背には木の枝で即席に作った背負い袋。中身は、スライムの粘液と何かの牙のようなドロップ品。
金目になるかも、と思って拾っておいたが、そもそもここに“貨幣”という概念があるかも分からない。
それでも歩みは止めない。
森の奥からは、定期的にモンスターの気配がする。
最初のスライム戦で得た経験が役立ち、今では少し冷静に戦えるようになっていた。
「……っと、また出た」
茂みの陰から、小柄な緑色の影――ゴブリンが姿を現した。
腰のあたりに錆びた短刀を携え、獲物を見つけた獣のような笑みを浮かべている。
「はぁ……もう慣れたよ。行くぞ」
透は構えた。手に握るのは、まだあの木の棒だ。
ただ、今回は最初から焦ってはいない。相手の動きを見て、タイミングを合わせ――
ゴブリンが突進してきた瞬間、横にステップしながら一撃。
鈍い音。ゴブリンの腕が跳ね、呻き声が漏れる。
返しの二撃で倒れた。
その瞬間、目の前にウィンドウが浮かぶ。
ゴブリンを討伐した! 経験値+60
アイテム『ゴブリン棍棒』を入手!
「お、ドロップだ」
透はしゃがみ、地面に転がるそれを拾い上げた。
見た目は粗末だが、木の棒よりはずっしりしている。
先端には鉄片のようなものが打ち込まれており、意外に実用的だ。
「ゴブリン棍棒、か。……うん、こっちの方が“マシ”だな」
ステータスウィンドウを開き、装備を変更。
手にした瞬間、重心が安定する。
木の棒のときとは違う、武器を“持っている”という感触。
それからというもの、透は少しずつ戦いに慣れていった。
スライム、ゴブリン、時々出てくる小型のオオカミ。
最初は逃げるだけだったが、いくつも戦いを重ねるうちに、自然と動きが洗練されていく。
そして、気づけば――
LEVEL UP! → LV:10
「……10、か」
気づけば森を歩き続けて三日目。
食事は、木の実や野草、倒したモンスターの肉を焚き火で焼いたもの。
味は、聞かないでほしい。
だが、少しずつ体力も付き、木々の合間から空が開けてくる。
その先――遠くの丘の向こうに、小さな街の姿が見えた。
「……やっと人の住処か!」
胸が高鳴る。
初めて見る“文明”。煙突から上がる煙。道を行き交う馬車。
まるで中世ヨーロッパのような街並みだ。
木造の門の前には、二人の兵士が立っている。
透は少し緊張しながら近づいたが、特に咎められることもなく通してもらえた。
――街の名前は、「ルメリア」。
近隣ではそこそこ大きい交易都市らしい。
石畳の道、店の看板、パンの焼ける匂い。
久々に“人間の世界”に戻ったような安心感があった。
「……とりあえず、宿。寝たい。風呂入りたい」
すぐに宿屋を探し、扉を開けた。
中は木造の温かい雰囲気で、カウンターの奥には陽気そうな女性店主がいた。
「いらっしゃい! 一泊ですか?」
「はい、お願いします!」
「銀貨五枚になります~」
「……え?」
透の顔が固まった。
財布を探そうとして――思い出す。
異世界に来てから、一度も金を手に入れていないことを。
「……もしかして、モンスターってお金、落とさないんですか?」
「え? モンスターが? 落とすわけないじゃないですか~」
「……うそだろ」
漫画では、スライムを倒すと金貨がドロップするのが常識だ。
だが、ここでは違うらしい。現実は厳しい。
「……あの、泊まらずに外で寝たら怒られます?」
「まぁ、森に戻るなら自己責任ですけど……野宿は魔物が出ますからねぇ」
そう言って、彼女は少し考え込んだ。
そして、にっこりと笑った。
「……あ、そうだ。お兄さん、冒険者ですか?」
「え? いえ、まぁ……なりたて、みたいな」
「それなら、“冒険者ギルド”を紹介します。依頼をこなせば、お金がもらえますよ」
それだ。まさに漫画でよくあるやつだ。
透は心の中でガッツポーズを取った。
「どこにありますか!?」
「この通りをまっすぐ行って、大きな剣の看板がある建物ですよ」
礼を言い、透は街の中央へ向かった。
やがて見えてきたのは、立派な石造りの建物。
扉の上には剣と盾の紋章――まぎれもなく冒険者ギルドだ。
中に入ると、酒場のような賑わいが広がっていた。
鎧姿の戦士、ローブを羽織った魔法使い風の男。
受付には制服姿の女性職員が並び、依頼書を処理している。
「うわ……本当にゲームみたいだ」
透は感動しつつ、受付の一人に声をかけた。
「すみません、冒険者登録したいんですが」
「はい、ではこちらの申請書に記入をお願いします」
筆記用具を渡され、名前を書き込む。
職業欄にはとりあえず「無職」と記入した。
周囲の視線が少し痛い。
「登録完了です。ランクは最下位の“Fランク”になります。依頼は掲示板から自由に選んでくださいね」
透は掲示板の前に立つ。
紙がびっしりと貼られており、魔物討伐や素材収集などが並んでいる。
その中に、簡単そうなものを見つけた。
――【スライム10体討伐】報酬:銅貨30枚
「……これだな」
報酬を換算すると、宿一泊分。まさに生存のための依頼。
「スライムなら慣れてるし、ちょうどいいか」
依頼を受け、再び森へ戻る。
夕暮れの光の中、あの日のスライムたちが、またぴちゃぴちゃと跳ねていた。
「……悪いけど、今日は稼がせてもらう」
透はゴブリン棍棒を構え、次々と叩き潰していく。
動きも洗練されており、攻撃のタイミングも完璧だ。
次第に手応えが軽くなる。経験が積み重なっている証拠。
そして――最後の一体。
透は息を整え、狙いを定める。
棍棒を振り下ろした、その瞬間――
ぴきっ、と空気が震えた。
視界の端で、何かが光った気がした。
次の瞬間、スライムが――木端微塵に弾け飛んだ。
「なっ――!?」
地面に粘液のしぶきが降り注ぐ。
あまりの威力に、透は棒を握ったまま呆然と立ち尽くした。
今のは、間違いなく“クリティカルヒット”。
だが、その威力は常識を超えていた。
いつもの数倍、いや十倍近い破壊力。
「……これが、もしかして……俺の“特殊能力”?」
だが、確証はない。
ウィンドウを開いても、“▒▒▒▒▒▒▒▒”のまま。
特に変化も説明もない。
結局、分からないまま、透はギルドへ戻ることにした。
スライム十体分の証拠を提出し、銅貨三十枚を受け取る。
ようやく手にした“お金”。
硬貨の冷たさを感じながら、透は小さく息をついた。
「……やっと、宿に泊まれる」
初めての報酬。初めての夜。
そして――初めての、“人としての休息”。
だが、彼の頭の片隅には、あの一瞬の光が焼き付いて離れなかった。
「……あれ、なんだったんだ?」
月明かりの差し込む宿の部屋で、
透はベッドに身を沈めながら、静かに呟いた。
――特殊能力。
――バグ文字。
その正体が明かされるのは、もう少し先の話である。




