目覚め
風の音がした。
柔らかく、涼しく、そして――どこか懐かしい香りが混じっていた。
神谷透はゆっくりとまぶたを開けた。
光が差し込み、目を細める。
そこには、見慣れない青空が広がっていた。
「……あれ? オフィス、じゃないよな」
ゆっくりと上体を起こす。
背中に感じるのは、硬い床でも、回転椅子の背もたれでもない。
しっとりとした草の感触。風に揺れる木々のざわめき。
見渡す限りの自然。
「……え、なにこれ。森?」
まるでゲームのオープンワールド序盤のロケーションだ。
あまりに現実離れしている光景に、思考が追いつかない。
頭上には、見たことのない鳥が旋回していた。
翼の先が青白く発光しており、尾羽の先には炎のような揺らめきがある。
遠くの茂みの影には、小柄な緑の生物が顔を覗かせていた。丸い耳、曲がったナイフ。
どう見ても――ゴブリンだ。
さらに地面には、半透明の塊がぴちゃりと跳ねていた。スライム。
「……これ、夢だよな?」
口に出しても現実感は戻らない。
だが、もしここが漫画やゲームのような“異世界”ならば――やることはひとつしかない。
「こういうときは……“特殊能力”だよな」
彼は立ち上がり、軽く息を吸い込む。
そして、少年時代に何度も漫画で見たあの決め台詞を口にした。
「――ウィンドウ・オープン!」
……一瞬の沈黙。
だが次の瞬間、目の前の空間がふわりと歪んだ。
光の粒が集まり、薄いパネル状のウィンドウが浮かび上がる。
「……出たっ!? 本当に出たっ!?」
それは、まさにゲームで見たステータスウィンドウだった。
薄青の半透明の画面に、整然としたフォント。
自分の名前、レベル、HP、MP、攻撃力、防御力、素早さ……そして“特殊能力”の項目。
NAME:神谷 透(KAMIYA TORU)
LV:1
HP:100/100 MP:50/50
攻撃:12 防御:8 敏捷:10 知力:13
特殊能力:【▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒】
「……おぉ、本格的じゃん」
どこからどう見ても、完全にRPGだ。
ただし、問題がひとつ。
「……この“特殊能力”の部分、なんて書いてあるの?」
そこには意味不明なバグ文字が並んでいた。
英数字とも記号ともつかない文字列。
“▒”とか“�”とか、解読不可能な記号ばかりが延々と連なっている。
「……バグってる?」
思わずツッコミが漏れる。
こんな重要そうな部分がバグっているなんて、ゲームなら初日メンテナンス待ったなしだ。
いや、これ、人生そのものなんだけど。
「……まぁ、気にしても仕方ないか」
異世界転生――それが現実ならば、少なくとも“生きていく”しかない。
透は深呼吸をして、周囲を見回した。
空は澄み渡り、森の奥には木漏れ日が揺れている。鳥の声。川のせせらぎ。
――悪くない。むしろ、会社にいるより何倍もマシだ。
……そんなときだった。
足元で、ぷるん、と音がした。
半透明のスライムが、こちらを見上げている。
瞳のような気泡がふたつ、ぷかぷかと浮かび上がっている。
「……おお、スライム。異世界テンプレすぎて逆に安心するわ」
透はその辺に落ちていた木の棒を拾い上げる。
とりあえず武器。とりあえず戦闘。
漫画の知識によると、最初の敵はだいたいスライム。
そして、倒せばレベルが上がる――たぶん。
「いける……はず!」
透は棒を振り下ろした。
ぷるんっ。
スライムが弾け、透明な液体が飛び散る。
「うわっ、冷たっ!?」
予想外に弾力があり、棒が弾き返される。
スライムも反撃してきた。跳ねながら体当たり。
ぐにゃりとした衝撃が腹に入り、透はよろめく。
「ちょ、結構痛い!?」
現実感がなさすぎて油断していた。
だが、ここは現実だ。夢でもゲームでもない。
痛みがある。呼吸が荒い。心臓が早鐘を打つ。
棒を握り直し、再び振り下ろす。
何度も、何度も。
ぴしゃっ、ぷるんっ、どろり――。
そして、スライムはついに崩れ落ちた。
透明な身体が蒸発し、青い光の粒が宙に舞う。
その光は透の身体へ吸い込まれ――ウィンドウが再び表示された。
LEVEL UP! → LV:2
「……うわ、本当に上がった」
半信半疑だったが、まぎれもなく現実。
自分の身体が軽くなったような感覚。
体力の回復、筋肉の反応、すべてが一段上がった気がする。
「……すげぇ、本当に異世界に来たんだ」
感動と興奮が入り混じる中、もう一度ステータスウィンドウを開く。
レベルが2になった以外は大きな変化なし。
だが、相変わらず――“特殊能力”の欄だけは、ぐちゃぐちゃのままだった。
「……やっぱり読めねぇ」
その瞬間、頭上から声が降ってきた。
『――あ、あのっ! 聞こえますか!?』
透はびくりと肩を跳ね上げた。
空から、天の方向から、女性の声。
どこかで聞き覚えがある。
「……その声、まさか――天使さん?」
『は、はいっ! 申し訳ありません! いま、少しだけ通信が繋がりまして!』
「ちょ、通信!? 異世界なのに電波通じるの!?」
『えっと……その、“特殊能力”の部分ですが……本当にすみません!
こちらの世界で使われている“天界文字”で入力してしまいまして!』
「……は?」
『それを地球語――つまりあなたの世界の文字コードに変換した際に、
バグ文字になってしまったみたいで……!』
「いやいや、そんなシステム的なミス!?」
天使の声は本気で焦っているようだった。
まるで新人プログラマーが本番環境にデバッグコードを混入させたような慌てぶり。
『ですが、ご安心ください! 能力自体はちゃんと付与されています!
いずれ理解できる形で発動しますから!』
「“いずれ”って、いつ!?」
『そ、そのうちです! ではっ! 他の転生処理もありますので失礼します!』
通信はぷつりと途切れた。
空は再び静寂を取り戻す。
「……いや、“そのうち”って。こっちは命がかかってんだけど?」
透は大きくため息をついた。
特殊能力がバグ文字。天使の入力ミス。
どこまで行っても、“システム不具合”からは逃れられないらしい。
「……異世界でもバグ修正から逃げられないのかよ」
そうぼやきながら、透は森の奥へと歩き出した。
道なき道を進みながら、思う。
空気は澄んでいる。緑が眩しい。鳥の声が優しい。
――それでも、どこかに“不安”が残っていた。
バグ文字の能力。
いつ、どんな形で発動するのか。
それすら分からないまま、彼の異世界生活は幕を開けた。
最初の一歩は、不安と苦笑の入り混じるスタートだった。
「……はぁ。幸先、悪すぎるな」
透はそう呟きながら、木漏れ日の中へと姿を消していった。




