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天使のタイプミス

蛍光灯の光が、夜のオフィスを白く照らしていた。

壁の時計は、午前三時を少し回っている。

外の世界はとっくに眠りについているというのに、このフロアだけは、まるで昼間のように明るい。


タイピング音。クリック音。空調の低い唸り。

そのどれもが、同じリズムで時を刻む――まるで、人間をすり減らすための機械仕掛けの鼓動のように。


「……ふあぁ。あと、二十ファイル分……」


ひとり、青年がつぶやく。

名は神谷かみや とおる

二十代後半、プログラマー。

会社の名は「株式会社エイペックス・ソリューションズ」。

名前だけ聞けば、最先端の希望あるIT企業のように響く。

だが実際は――その実態は、疲弊した人間たちの墓場だった。


入社当初は夢を見ていた。

コードを通して世界を変えるとか、新しいサービスで人々を笑顔にするとか。

そんな、青臭い理想を抱いていたのだ。

だが現実は、仕様変更と納期地獄の繰り返し。

同僚の何人かは、すでに音もなく消えていった。

転職なのか退職なのか、それすら分からないまま。


透は、もはや自分が何を作っているのかも曖昧だった。

バグを直し、追加仕様を詰め込み、報告書を書き、また直す。

まるで命を削って書く無限ループ構文。

“if(生きている) then(働く) else(死ぬ)”

笑えないジョークだ。


机の隅には、空のエナジードリンク缶が山のように積まれていた。

一本目はカフェインの味がした。

二本目は甘いだけだった。

三本目には味覚が麻痺していた。

四本目は惰性。

そして――手にしているのは五本目。


「……これで、最後のブーストだ」


透は缶のプルタブを開け、立ったまま一気に流し込む。

喉が焼ける。胃が悲鳴をあげる。

それでも止まらない。止まれない。

ここで立ち止まれば、上司の怒声と「努力不足」の烙印が待っているだけ。


そんな地獄の合間。

彼は、ふと画面の隅のブラウザをクリックした。


開いたのは――某・週刊誌の公式漫画サイト。

少し前に再アニメ化された人気作の最新話が更新されていた。

少年が夢を追い、仲間と共に強敵を打ち倒す。

希望と友情と勝利が詰まった世界。


「……やっぱ、すげぇな」


わずか五分の休憩。

だがその五分が、彼の唯一の“現実逃避”だった。

画面の中では努力が報われ、正義が輝いている。

現実では、努力が搾取され、正義は書類に押し潰されている。


「……こんなの、現実にはねぇよな」


彼は自嘲するように笑い、再びエディタに戻った。

指が走る。

脳は、痛みを感じることをやめていた。

ただ、終わらせなきゃ――その一心で。


――だが、終わりは、突然やってきた。


カタカタカタ――。

キーを打つ音が、不意に途切れた。

視界が、ぐにゃりと歪む。

光が滲む。音が遠ざかる。

ああ、ついに限界がきたのか、と理解するより早く、身体は崩れ落ちていた。


「……あれ……?」


机の端が迫り、画面が回転し、

床の冷たさが――感じられなかった。


暗闇が、すべてを飲み込む。




気づけば、そこは白い世界だった。


上下の感覚も、温度もない。

ただ、無限の光が辺りを包み込んでいる。

柔らかく、それでいてどこか懐かしい空気。

視界の奥に、ひとつの人影が浮かび上がる。


それは――天使だった。


金糸のような髪。

純白の羽。

透き通るような声で、彼女は言った。


「お疲れ様、神谷 透さん。あなたは……よく頑張っていましたね」


その言葉だけで、涙が出そうになった。

誰も言ってくれなかった言葉。

会社でも、家族でも、誰も“頑張ったね”なんて言わなかった。


「……俺、死んだんですね」


「ええ。あなたの魂は、すでに肉体を離れました。

 でも――安心してください。これは終わりではありません」


「終わりじゃ、ない……?」


天使は微笑み、白い光の中で翼を広げる。

その羽ばたきに、微かな風が生まれたような気がした。


「あなたには、“もうひとつの道”があります。

 それは――異世界で、新たな人生を歩むことです」


「……異世界転生、ってやつですか?」


「はい。よく知っていますね。

 あちらでは、あなたのような魂を歓迎する世界があるのです。

 魔法も、剣も、冒険も。あなたの理想に近い生を送れるでしょう」


透は、思わず笑った。

まるで漫画の展開だ。

死んだら異世界。あり得ないけれど、これ以上現実的な死よりはずっとマシだ。


「……本当に、そんな世界が?」


「ええ。夢と希望と未来が、そこにはあります」


その言葉に、心が揺れた。

あの漫画のページで見た世界。

現実では絶対に掴めなかった理想郷。

もし、そこに行けるのなら――。


「行きたいです。行かせてください」


「本当によろしいですか?

 まだ説明すべきことが――」


「いいんです。もう、現実には疲れましたから」


天使は少し驚いたように瞬きしたが、すぐに穏やかに頷いた。

その姿は、どこまでも慈悲深く、美しかった。


「分かりました。では――あなたの魂を新たな世界へ導きます。

 神谷 透さん、どうか次の人生では、笑顔で生きられますように」


天使の指先が光る。

白い世界が、さらに眩しく輝く。

身体が溶けていくような感覚。

音も、思考も、徐々に遠ざかっていく。


「……ありがとう、ございます」


そう言って、透は目を閉じた。

――夢のような世界。

――希望のある人生。

――努力が報われる場所。


彼は、それを信じていた。

信じたかった。


だが、完全に意識が途切れる、その直前。

微かに、天使の声が届いた。


「……あっ、間違えた。」


光が弾け、世界が反転する。


そして――彼の新しい人生が、始まった。

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