表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1話 普通の女の子

青い空、白い雲。肌を優しく撫でる心地よい風。冷たくてざらざらした地面。まるで厳格な揺りかごのように、私の周りを囲む岩々。




すべてが美しく見える。まるで初めて世界を見た新生児のように、目に映るものすべてが新鮮で、輝いていて、心を奪われる。




私の体は今、全身が血で濡れている。それでも、どこにも傷はなく、痛みもない。まるで血の湯船に浸かったかのようだった。




その血さえも、私の汚れなき目には美しく映る。異常なほど濃く赤くて、雪のように白い私の肌と強烈なコントラストを成している。




こんなに大量の血を見たのは初めてなのに、嫌悪も恐怖も感じない。暑くもなく寒くもない。




唯一感じるのは――高揚感。この世界には、まだ見ぬ何かが溢れている。そんな気がした。




どうして、こんなことになったんだろう?




* * *




「先輩、好きです!」




「え? ごめん、君はあまりタイプじゃないんだ。」




「えっ……どういうこと?」




「うーん……君って、ちょっと地味だから。」




「そっか……時間取らせてごめんね!」




……最悪じゃない? やっと勇気を出して、ずっと好きだった人に告白したのに、フラれた。しかも、見た目のことまで言われた。




……今日、一日が終わった。




私は星野八重花ほしの・やえか、16歳。好きだった男の子に、バッサリと断られました。ま、せめて放課後に言ってよかったよね。




このまま家に帰って、ゲームでもして気を紛らわせよう。




……スンッ、スンッ……




だめだ、今は泣けない! 私は強い女の子なんだから! フラれたくらいで涙を流すなんてありえない!




……んぐっ!




知ってるよ、自分が地味で普通すぎるってことくらい、バカ!




ずっと友達として一緒にいたのに、結局は見た目で拒絶されるなんて……なにそれ?




私は昔から、周りと比べてずっと普通。勉強も苦手だし、授業の内容もよくわからない。性格も暗めで……。




顔も特別かわいくないし、体型も目立たないし、趣味も女子っぽくない。




……マイナスばかり。それでフラれたってわけ。そりゃ、好かれるわけないよね。




こういう時、大人たちは決まって言うんだ。「努力すれば変われる」って。でも、そんな簡単な話じゃない。




勉強だけじゃなく、運動だってダメ。前にダイエットしようと頑張ったけど、全然成果が出なかったし。




むしろ日焼けで肌は黒くなっちゃうし、シミまでできる始末。




……こんな私、誰が欲しがるの? 結局、ゲームと漫画に囲まれて、ひとりで生きていくんだろうなぁ。




……とにかく帰って、なんかゲームしよ。癒されたい。




通学路はやめとこう。目が赤いかもだし、誰かに会ったらめんどくさいし。




線路沿いの道を通ろう。子どもの頃、友達と「秘密の近道」って言って使ってた道。




もう夕方。赤い夕陽がまぶしくて、目にしみる。昔はこの景色が好きだったけど、今は見る気にもなれない。




……なんでこんなに傷ついてるんだろう? あんな男の意見なんか、気にする必要ないのに!




……でも、やっぱり悲しい。もうちょっと優しくしてくれてもよかったじゃんか。




レディへの接し方を知らないなんて、あいつバカすぎ。明日こそ、文句言ってやる……いや、顔見るのもちょっとつらいかも。




もう会わない方がいいのかな。だって、きっとまた心が痛くなる。




見た目で拒否されたってことは、つまり私は最初から恋愛対象にならない運命だったってこと?




……ゲームと漫画に囲まれた静かな生活も悪くないかも。でも、やっぱり……恋愛もしてみたい。




もし私のすべてが変わったら――性格も、体も――魅力的に見えるのかな? いや、それってもう私じゃないでしょ?




ダメだ、そんなふうに考えちゃ。男のために自分を変えようだなんて、間違ってる。私はまだ若い。まずは自分の人生をちゃんと生きなきゃ。それから恋愛のことは考えよう。




……でも、それにしても……フラれるのって、やっぱり、つらいよ。




「……スンッ……とりあえず帰ろ。明日の問題は、明日の私に任せるってことで! きゃあっ!?」




決意を新たにした、その瞬間――私は線路につまずいて、顔面から金属に突っ込んだ。




「あうぅ……」ゆっくりと起き上がって鼻を押さえる。「これ……血? イタタ……でも、骨は折れてなさそう。」




立ち上がって制服のほこりを払い、鼻血をハンカチで拭き取る。




「もっと気をつけないと……! しっかりして、八重花! 前を見なきゃダメでしょ!」――悔しさから線路を蹴飛ばす。「全部お前のせいだよ! いきなり現れやがって!……あれ?」




線路の上に足を置いたとき、不思議な振動が伝わってきた。……え、もしかして、電車?




いやいや、それはない。ここはずっと使われてない廃線だよ。子どもの頃、友達とここ通ってたし。




……でも、待って。線路ってもっと先の方じゃなかったっけ? 橋の近くにあったはず……まだ林の手前のはずなのに?




……なにこれ、どういうこと?




金属の振動がどんどん強くなる。振り向くと、強烈な光がものすごい速さでこっちに迫ってきていた。




電車? いや、音がまったくしない。それにこの光、強すぎる!




「ぎゃあっ!!」




急いで線路から逃げようとしたけど、足が引っかかって転んでしまった。足が線路に挟まって抜けない!




「ま、まってまってまって! やだ、やだやだやだ! 来ないで――!」




私は目をぎゅっと閉じて、衝撃に備えた。




……でも、衝撃は来なかった。体に何の痛みもない。怖さに震えながらも、ゆっくりと目を開ける。




* * *




目を開けると、そこに線路はなかった。後ろにあったはずの街並みも、もうどこにもない。




空を見上げると、まぶしい光が視界を刺す。




太陽? ……さっきまで夕方じゃなかった? 今はもう、真上に太陽があって――どう見ても昼の光。




え? なにこれ? さっきのって、夢だったの? でも夢だとしたら……私は昼間に学校で寝てたってことになるけど、今はどう見ても森の中。




……いや、これは夢だ、きっとそう!




ヒューゥゥ……




「さむっ!!」




なんでこんなに寒いの!? 今、夏だよね? 寒すぎて思考が止まりそう……とりあえず、ジャージ羽織ろう。




ここがどこかわからないけど、一つだけ確かなことがある。




――これは夢じゃない。




さっきぶつけた鼻はまだズキズキするし、少しだけど血も出てる。……夢の中でここまで感覚があるはずない。しかも、ここはどう見ても日本じゃない。




だって、今は日本の真夏のはずなのに、この寒さは冬の始まりレベル。それに、さっきまで日は沈んでたはずなのに、今は昼。




……つまり、私は「いるはずの場所」にいないってことになる。




まさか……あの電車みたいなのに轢かれて、どこか外国に飛ばされた? オーストラリアとか?




いやいや、そんなのありえない。そんなの、アニメだけの話でしょ。




……あれ? アニメ?




ま、まさか、今流行りのあれ!?【異世界】ってやつ!?




な、ないないないない! そんなはずないし、もし仮にあったとしても、なんで私みたいな地味で陰気な女子がそんな目に!?




異世界転生って、明るくて元気で、やたら正義感の強い人がなるんじゃないの!?




どう考えても、私が主人公になる世界線なんてないよ。ありえない。




……私は読む側でいい。ゲームして、アニメ観て、そういう世界を楽しむだけで充分。




とにかく、まずは周りを確認して、状況を把握しよう……




……無理! 私、完全に迷ってる!!




方向感覚ゼロの森の中で、どう動けばいいかわからないし、枝に頭ぶつけたり、足がもつれて転んだり、クモの巣が髪に絡まったり、坂道を転げ落ちたり……。




そのせいで、体中キズと泥だらけ。




もう、街が恋しい!!




「ここ、どこなの……?」




落ち込んで、しょんぼりと頭を下げる。




「私……帰れるのかな。お父さん、お母さん、弟……ごめんね。ここが私の墓になるかも……」




……って、なに考えてるのよ!




とにかく人を探さなきゃ! もしくは、人の痕跡でもいいから!




そう思い直して、またまっすぐに歩き出す。今度は転んだり、クモの巣に引っかかったりしないように慎重に。




「ピリス・バグン・ラティマ……」




「ガラ・アリトゥマ……」




……声?




少し遠いけど、間違いない! 人の声だ!




私は声の方へと全速力で駆け出した。よかった、誰かに会える……!




「きゃっ!」




……走りすぎて、木の根に引っかかって道に転がり出てしまった。恥ずかしい……でも、すぐに立ち上がる。




目の前に止まったのは、荷馬車のようなもの。そこから、剣を持った男が二人、降りてきてこちらに近づいてくる。




こういうの、外国の映画とかでしか見たことない。ってことは、これ……本当に異世界なの?




「すみません、迷子になってしまって……助けていただけませんか?」




そう声をかけるけど、二人の男は私の言葉に反応せず、値踏みするような目で私を見ていた。




……なに、このイヤな感じ。




「ラスバティア・ソリ・アブデル?」




長髪の男が、隣の男に何かを尋ねる。もう一人は、無言で頷くだけ。




喉の奥がギュッと締め付けられるような不安感。私はそっと視線をずらし、彼らの後ろを見る。




荷馬車は三台。最後尾の一台は大きな布で覆われているが、その隙間から鉄格子のようなものが見えた。




……やばい。これは、関わっちゃいけないやつ。




そう思って後ずさろうとしたその時、もう一人の背の低い、髭面の男が近づいてきた。あからさまに嫌そうな顔をしている。




「パリト・ゴゾ・カスム・ザナバ!? ジヴェノ!!」




怖い声で怒鳴られる。……なに言ってるのか、全然わからない。




今まで読んできた異世界モノだと、主人公って現地語をなぜか理解できるのが定番だったのに……。




でも、よく考えたら当たり前か。言葉も文化も違えば、そりゃあ通じるわけない。




……今は刺激しない方がいい。彼の顔、めっちゃ不機嫌そうだし。




「ご、ごめんなさい……何を言ってるのか、わたし――」




言いかけて、もう一人の男と目が合った。その顔は、まるで……夜道で変なおじさんにジロジロ見られた時と同じ、いやらしくて不快な視線。




……ああ、この違和感の正体、それだったんだ。




「す、すみません……やっぱり他を当たりますっ――」




私の言葉は、ビンタで吹き飛ばされた。




「ぐっ……!!」




「グラヴェ・スリエル、バスト・アグス!」




立ち上がって逃げようとしたけど、髪を掴まれて持ち上げられ、さらに腹に一撃。吐き気がこみ上げ、胃の中のものを吐いてしまう。




「ガハッ……!」




「ランク・パスル!」




命令のような口調で長髪の男に何かを言うと、私の体を持ち上げて、布で覆われた鉄格子の馬車へと運ぶ。男が扉を開け、中に放り込まれた。




「ディフ・ガルバ、ソウル・カドゥズ!」




ガチャン、と音を立てて扉が閉まり、また布がかけられる。足音が遠ざかるのが聞こえるけど……耳がズキズキして、よく聞こえない。




顎が痛い。耳も鳴ってる。体を起こせず、丸くなってお腹を抱えるしかできない。




……ふざけんな、このクソども!!




なに勝手に連れてってんのよ!?




完全に油断した。甘く見てた。もっと警戒すべきだったのに。




物語と現実をごっちゃにしてた……本当に、バカみたい。




……こんなの、異世界転生じゃない。




せめて、謎の声とか、突然覚醒するチート能力とか……期待してた私がバカだった。




……これから、どうすればいいの……?




お腹の痛みが少し和らいできたので、ゆっくりと体を起こして周囲を確認する。




鉄格子の中には、私を含めて四人。




疲れきった目をした子ども




第1章:普通の女の子




(…todo o conteúdo anterior permanece igual…)




鉄格子の中には、私を含めて四人。




疲れきった目をした子ども、やせ細ってピクリとも動かない大人の男性、そして丸い動物のような耳を頭に持つ、髪の短い女の子。




……ケモ耳……! 普段ならテンション爆上がりする要素なのに、今の状況じゃ喜べない。




この男の人……動かなすぎじゃない? いや、それどころか……周りにはハエが飛んでるし、体はカラカラに痩せこけてて、胸も上下してない。




……死んでる。




匂いはしない。たぶんさっき鼻血を出したせいで、嗅覚が鈍ってるんだ。




今それを気にしてる場合じゃない。とにかく逃げる方法を探さないと。




私は覆い布の端をつかみ、外の様子をこっそり覗こうとした。




「バーツァード!」




「いったっ!」




荷馬車の横を歩いていた男に見つかって、指を鉄格子に思い切り叩きつけられる。




布を手放して後ずさる。くそっ……これ、鉄の檻じゃん! 叩かれたから痛いんじゃなくて、指が格子に挟まれて痛かったんだ。




ちらっと隣を見ると、女の子も子どもも、私に不安そうな顔を向けていた。




……まあ、余計なことして怒らせた私のせいだよね。




くそっ、バッグを取られたのが悔しい。ハサミとカッターが入ってたのに。あれさえあれば、多少は抵抗できたのに。




女の子の手元に目をやると、彼女はボロボロの服を着ていて、手錠をかけられていた。首には、奇妙なタトゥーのような印。




子どもも同じだった。




……わかった。




この人たちは、誘拐されたんじゃない。




売られるんだ。奴隷として。




この世界に、まだ奴隷制度があるのなら……確かに、私は狙われてもおかしくなかった。




森の中で、言葉も通じず、武器も持たず、一人ぼっちの不審な少女。




まさに、「カモがネギ背負って来た」ってやつ。




話し合おうとしても、言葉が通じないんじゃ意味がない。情報収集もできない。




私は……




すごく……疲れた……。




ちょっとだけ……背もたれに寄りかかって……




……少し……寝よう……




バキィン!




大きな衝撃音に驚いて目を覚ました。あまりの音に思わず跳ね起きると、同じ檻の中にいる二人から警戒の眼差しを向けられた。


……今の音、何? 馬車が止まったの?




目隠しの布があるとはいえ、今まではまだ外の光が少し見えた。でも今は真っ暗。何も見えない。まるで世界から光が消えたみたい。




外では誘拐犯たちの声が聞こえる。チラチラと揺れる光も見える。たいまつだろう。もう夜か。都会暮らしの私には、こんな真っ暗闇なんて慣れてない。




「ねえ、誰か! 誰か助けて!」




――わざと騒ぎを起こして、誰かが扉を開けた隙に飛び出す。そして森の中に逃げ込めば、きっと見つからない。夜の闇は私の味方。




「おーい!!」




「ガピッツ!!」




来た! あの背の高い男の声だ。こっちに向かってきてる! 扉が開いた瞬間、突き飛ばして逃げる!




> ガチャッ






「ガピッツ!オニウ──?」




瞬間、私は男に飛びかかる。だが力で押し返され、逆に腹を殴られて吹っ飛ばされた。




馬車が揺れ、隅にあった死体がゴトリと倒れる。




「うぅっ……!」必死で立ち上がろうとするが、その男が近づいてきて──




バシッ!バシッ!バシッ!




「ぐっ……ッ! ぎゃっ! がはっ!」




何度も蹴りを叩き込まれ、息もできなくなる。




荒く呼吸をしながら、男は私の顔を見下ろして嫌悪に満ちた顔をする。そしてゆっくりと視線を下に向け、私の脚を見つめながら──舌で唇を舐めた。




この野郎……まさか……!




しゃがみ込んで、私のジャケットを掴むと、引き裂いて放り投げた。




「やっ……! なにしてるの!? やめて!!」




私の手首を押さえつけ、制服のボタンを次々に引きちぎる。お腹が露出し、寒さと恐怖で体が震える。




「きゃああっ! やめて! お願い、誰か……助けて!!」




必死に隣の女の子に助けを求めるが、彼女はただ目を逸らすだけだった。




……嘘だ。嘘でしょ? こんなの、夢に決まってる。お願い、終わってよ、こんなの!




「離して!!」




叫ぶ声を封じるように、男は私にキスを押し付けた。舌をねじ込もうとしてくる感触は、ただただ気持ち悪くて、吐き気がした。




脚に手が這い、無理やり開こうとしたその瞬間──




「ガピッツ!! ガンドゥ・ファラド・マッサー!!」




髭の男が怒鳴るように叫んだ。




「チッ……」




男は私を放し、扉を乱暴に閉めて檻の外へ出て行った。




……もう、立ち上がる気力もない。天井を見上げたまま、死んだように動けなかった。ようやく体を起こした瞬間、こみ上げてきた吐き気に耐えきれず、床に吐いた。




これはきっと蹴られたせいじゃない。気持ち悪さ、嫌悪感、そして憎しみ。体が、心が、すべてを拒絶している。




「バヴィト・グラッスル?」




隣の女の子が、そっと私の肩に手を置き、背中をさすってくる。でも私はその手を振り払って、距離を取った。




……優しいつもりなのはわかってる。でも、今の私は誰かに触れられるのが一番嫌だった。




それに、助けを求めたとき、彼女は目を逸らした。責めるつもりはない。彼女も同じ目にあっているかもしれない。奴隷として何もできなかったんだ。




私は檻の隅に身を寄せ、膝を抱えて顔をうずめ、声もなく泣き続けた。




……逃げられない。これが私の人生になるの? 違う、こんなの異世界なんかじゃない。ただの地獄だ。





---




あれからどれくらい経っただろう。あの事件以降、誰も檻の中には入ってこなかった。


夜になると馬車は止まり、朝になるとまた動き出す。それを繰り返す。




外からは、言葉の通じない大声と笑い声が聞こえてくる。




もう三日くらい経ったかもしれない。食べ物も、水も、一度も与えられていない。




声を出すのも怖くて、助けを求めることもできなかった。




昨日の夜、雨が降った。それでなんとか水を飲めたから助かった。もしあれがなかったら、私たちはもう死んでたかもしれない。




……実際、一人はもう死んでいる。捕まった時点で衰弱していた少年は、三日も水も食料もなく耐えられるはずがなかった。




あの獣人の女の子は、まだ元気そうだ。喉はカラカラみたいだけど、やっぱり身体能力は高いんだろう。




……私は? もう限界だ。


腹のアザは酷いまま、傷も癒えてない。




寒さで体は凍え、制服は破れていて、ジャケットも捨てられた。脚はスカートしか覆っていない。




馬車の床は、吐瀉物、排泄物、そして腐りかけた死体の臭いで満ちている。




私は、飢えて、渇いて、傷だらけで、動くことすらできず、何時間もただ横たわっていた。




もう……あと24時間ももたないと思う。




……せめて、もう少し楽に、痛みなく終わりたかった。




……せめて、死ぬ前に家族に会いたかった。ちゃんとお別れがしたかった。




あの朝、お母さんとはろくに言葉も交わせなかった。


お父さんとは、スカートが短すぎるって喧嘩になった。


弟は学校が早くて、顔も見れなかった。




今、あの人たちは何をしてるんだろう。きっと幸せに暮らしてる。私のことなんて知らずに。




もし、今の私を知ったら……死にかけてるって知ったら、どんな顔をするんだろう。




「ベギニ! ビギニ!」




「ハムット・ガル!!」




「きゃあああああああああ!!」




何よ、うるさい! なんでそんなに騒いでるの!? 静かにしてよ!




……え? どうしたの、獣耳少女? なんでそんな顔してるの? なんで布を持ち上げてるの? 見つかったら酷い目に遭うよ?




「グラアアアアアアアアア!!!!」




……何、この音……!?


映画で聞いたことある、恐竜の咆哮みたい……!




バキィィィィィィィン!!




何かが壊れる音がして、私は反射的に体を起こそうとする。




ドゴォォォン!!!




直後、檻が大きく弾け飛び、衝撃で体が宙を舞い、鉄格子に頭を打ちつけて──




……意識が途切れた




---




……目を覚ますと、周囲を見渡した。




檻──いや、檻そのものが完全に粉々に破壊されていた。隣にいた獣耳の少女は、目を見開き、口から血を流しながら倒れている。




いや……違う。彼女は「倒れている」のではなく、「串刺し」になっていた。




胸のあたりを複数の鉄が貫いている。


……こんな傷で、生きているわけがない。




「……さっきは冷たくして、ごめんね」




私は彼女の目をそっと閉じてやり、ゆっくりと立ち上がった。




「いったい……何が、起きたの……?」




──




「ぎゃああああああああああ!!」




「グオオオオオオ!!」




その叫び声に、私は咄嗟に振り返った。そして、そこで目にしたのは──




真っ黒な巨大なトカゲ。いや、トカゲではない。




翼を持つその巨体は、一人の誘拐犯をまるで紙くずのように引き裂いていた。




「……ドラゴン……?」




ああ、そうか。これで終わりなんだな、私の人生。




でも、最後に本物のドラゴンが見られただけ、ちょっとだけ幸運だったのかも。




……まさか、こんなに早く死ぬなんて思ってなかったけど。




──私はそのドラゴンをまっすぐ見つめる。




……あれ? 意外と体が動く。あんなに死にかけてたのに。きっと、アドレナリンのせいだ。




左腕は全然動かないけど、痛みはない。たぶん、折れてる。




でも、それでも私は「動ける」。




じゃあ、なんで私はここで大人しく死を待つの? なんで黙って喰われなきゃいけないの?




……私はいつから、こんなに簡単に諦めるような人間になった?




先輩のときだって、そうだった。好きな気持ちを伝えることすらできず、逃げた。




そして今、命の危機の中で、また逃げるの?




「グルゥ……?」




あ、目が合った。あのドラゴン、私に気づいた。




でももう決めた。私は──




諦めない。




たとえここが地獄でも、私は生きる。


生きて、生き抜いてみせる!




私は地面に転がる壊れた剣を掴み、走り出した。




「グルアアアアア!!」




剣を構えて向き直った瞬間、ドラゴンが口を開き──




私の全身をその巨大な顎で丸ごと噛み砕いた。




──




一瞬だった。


すべてが黒く染まり、足の感覚が消える。




意識がグラグラと揺れ、天地がひっくり返ったような感覚に襲われる。




さっきまで痛みはなかったのに、今になって一気に襲ってきた。




「……むぐぅぅぅぅ!!!!!」




声にならない悲鳴。喉が潰され、押しつぶされる。




この場所は、狭くて、苦しくて、息もできない。




私は下へ、下へと押し込まれていく。




──ボチャン。




急に広がる空間。ドロドロとした液体に落ちた感触。




「がはっ……! ぎゃああああああ!!」




叫んだことで、少し痛みが和らいだ。でも、痛い。


とにかく痛い。体中が燃えているように熱い。




「……ここ、どこ……!? 暑い……!!」




でも、聞かなくても分かる。


さっきのドラゴン……私を丸呑みにした。噛み砕かずに、まるごと。




おかしい。こんな状態で生きてるなんて──でも、今は生きてる。それだけが事実。




そうだ、私はさっき決めたんだ。「生き抜く」って。




たとえこの状況がどんなに絶望的でも、私は──




生きたい!




剣の柄を強く握り、胃壁に突き立てる。




……けど、剣は刃が折れていて、ナイフ以下のサイズしかない。




こんなものじゃ、切り裂いて外に出るなんて無理だ。




それでも、何かしなきゃ。


何かしなきゃ、私は──このまま死ぬ。




消化液に溶かされる? 水分不足で死ぬ? どれも嫌だ。どれも恐ろしい。




とにかく時間を稼ぐしかない。なんとか、なんとか──




……喉が渇いた。空腹が限界。




もはやネズミの尿でも飲むレベルで渇いてる。……待って、それだ!




このドラゴンの血を飲めばいい! 肉を食べればいい!




決心すると、何度も同じ場所に剣を突き立て、ようやく肉片がちぎれ、血が噴き出す。




それを必死で口に含み、噛みちぎり、飲み込む。




まずい。吐きそう。胃液の臭いでむせそう。




でも、文句を言ってる暇はない。


好き嫌いを言ってる場合じゃない。




生き延びるために──私は喰らう。





---




どれだけの時間が経ったのだろう?




もう分からない。食べることも、飲むことも、限界を超えてる。




剣を振るう力も残っていない。




寒い。体が重い。




……ここは胃の中。温かくて湿っているはずなのに、なんで私は寒さを感じてるの?




いや、寒さじゃない。これは──




痺れ。




体が、動かない。感覚が、消えていく。




……これが、「消化」されるってこと?




……クソッ……


もう少し……生きたかったな……




これが「死」の感覚か。


もう、眠くて、眠くて、起きていられない……




……お母さん……お父さん……ユウスケ……




また会えるといいな……あの世で……





---




……




意識は闇に溶けていく。けれど、なぜか──私はまだ「私」だった。




自分が自分であることを、まだ感じている。




この感覚……なんだろう?


自分の「本質」が、外に広がっていくような……




魂は、まだ体の近くにある。でも、「本質」は何かを探すように広がっていく。




……あれ? 何かに触れた。いや、見つけた。見つけてしまった。




なぜか分かる。


私の肉体、私の魂……


さっき喰らったあの肉と血が、何かの「栄養」になってる。




それは──




純粋で、無垢で、未熟な存在。


小さくて、弱いけど、ちゃんとした「魂」を持っている。




私とその存在が、溶けていく──




魂も、体も、本質も。まるで、ミルクがコーヒーに溶けるように。




あぁ……なんて心地いい感覚。




そして今──意識が……完全に……溶けていく……




でも、次に起こることが……


少しだけ──楽しみかも……





---




バキィン……




暗闇。




バキィ……




湿気。




バキィ……!




……ここは、どこ……?


私は、何をしていた……?




いや、覚えてる……覚えてるぞ。




あの時、私は喰われて、そして──溶かされて……




でもそのあと、何があったの? どれくらい時間が経ったの?




「いたっ……!」




頭を何かにぶつけた。


硬い。全身を包むように覆ってる。ヒビが入ってるみたい。




……壊せる。なら、壊してやる!




「うぅぅうあああああああああ!!!!」




> バリィィィィィン!!!






砕けた。砕けたぞ!


あとは、この破片を──どかすだけ……!




あっ……眩しい……




これが……太陽?


明るすぎて……目が焼けそう……


まるで、徹夜した朝にカーテンを開けたときみたい……




……長い間、闇の中にいたんだね……




……ん? ここは……?




見たことない場所。でも、どこかで似たような風景を……




そうだ、ネットで見たことがある。これは──




火山の火口。




まるで石造りの闘技場みたいに、平らで円形の空間。




そして──




私の周りにある、この白と黒の硬い破片。




まるで──




卵の殻……?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ