異世界転生ハーレム〜大奥
宮下紀明(40)は帰り道に車に轢かれて死んだ。
しかし、生まれ変わったらなんと40人以上の側室がいたと言われる徳川家斉になっていた。
老中には優秀な参謀、松平定信。世は太平の時代、宮下は家斉として、大奥で毎晩違う側室と一夜を共にすると言う“夢の様な生活”がスタートした。
宮下紀明(40)は、仕事帰りの金曜の夜、キャバクラで飲みすぎてしまった。
駅から自宅へと続く暗い帰路。
千鳥足のまま道路に踏み出した瞬間——
轟音と共に、猛スピードの車が彼の身体をはね飛ばした。
妻と、まだ幼い二人の子供たちを思い浮かべながら、宮下は呆気なく死んでしまった。
宮下が次に目を覚ましたとき、そこは見慣れぬ空間だった。
畳の匂いが鼻をくすぐり、金箔を貼った襖が仄暗い灯に照らされ、ゆらゆらと輝いている。
敷き布団は絹のように柔らかく、身体が沈み込むたびに極楽に落ちていくような心地がした。
「……ここは、どこだ?現代ではない様だが…」
見渡すと、几帳の向こうから江戸時代の女中らしき女性たちが控えている。
彼女らは一斉に頭を垂れ、囁くように言った。
「家斉様……お目覚めでございます」
宮下は瞬きを繰り返し、思わず笑ってしまった。
「い、家斉? ……まさか、徳川家斉? あの女に溺れて百人以上子供を作ったっていう伝説の将軍!?
俺が……? 俺が家斉様だって!? なんだこれ、夢か?」
最初は信じられなかった。
だが次の瞬間、頭の中に稲妻のような快感が走る。
「いや……夢でもいい。最高じゃないか!」
宮下はすぐに納得した。
寝床は天守閣のてっぺんだと思っていたが、実際は大奥の奥にある寝所だと言うことがわかった。
一瞬だけ「なんだよ」と落胆したものの、すぐに顔がにやける。
「大奥のすぐに近くか…たまらんな……」
しばらくして気づいたのは、これは夢ではない、ということだ。あまりにも感覚が生々しく、呼吸の重さも、畳の匂いも、まるで生きていた頃と同じだったからだ。
——そうだ。自分は車に轢かれ、妻と二人の子供を残して死んだのだ。
だが、不思議と悲しみは一切湧いてこなかった。
将軍・徳川家斉に生まれ変わったという、あまりにも“最高の状況”に、感情はすっかり塗りつぶされていた。
それどころか、大奥での夜ごとの歓楽を想像すると、喜びが体の奥から湧き上がってきた。
もともと酒と女遊びが好きで、家庭に居場所を見つけられなかった宮下にとって——
妻子の不在は、むしろ都合が良いとさえ思えたのだ。
「朝ご飯の用意が整いました、家斉様」
目の前に置かれたのは、見たこともないほど豪華な膳だった。
白く艶めく飯椀、焼き上げられた鯛、汁には松茸がたっぷり浮かび、珍しい漬物や煮物まで揃っている。
さらに、酒の徳利までもが添えられていた。
「……これが、毎朝?」
宮下は目を疑った。
箸をつけた瞬間、鯛の身は口の中でとろけ、松茸の香りが鼻腔を突き抜けた。
「……はぁ〜、最高だな。これが将軍の朝か!」
宮下は陶然となりながら、酒まで煽り、すっかりご満悦だった。
朝ごはんを食べ終わると宮下は「政のことについて簡単にご説明を」と案内され、大広間へと通された。
そこには、白い裃に身を包んだ壮年の男が控えていた。
厳格な面持ちで深々と頭を下げる。
「老中首座、松平定信にございます」
宮下は一瞬たじろいだ。歴史の教科書に出てきたあの人物が、目の前にいる。
定信は用意された書状を取り出し、細かく政務について説明を始めた。
米の流通や財政の立て直し、風紀の取り締まりに至るまで、整然と語られる言葉は一切の隙がない。
「なるほど、よくやってくれているな。すべて任せる。お前を信じているぞ」
宮下は笑みを浮かべ、さも将軍らしく言った。
定信は一礼し、落ち着いた声で答える。
「はっ。将軍家の安泰、この定信にお任せくださいませ」
その瞬間、宮下の胸には快感が走った。
——そうか。自分は何もしなくていいのだ。
難しいことは全部、この松平定信がやってくれる。
「……最高だな」
宮下は心の中で呟き、再び大奥での歓楽を思い描いて、にやけるのだった。
春のやわらかな陽射しが、江戸城の庭園を包み込んでいた。
築山の頂から流れ落ちる水が小川となって池へと注ぎ、色鮮やかな鯉が水面に花びらを追いかけている。
宮下――いや家斉の隣には、一人の若く美しい側室が寄り添っていた。名は「お鈴」と言うらしい。
淡い桃色の小袖に身を包み、白い肌をほんのり紅に染めながら、彼の腕にそっと手を添える。
「殿、お加減はいかがですか?」
控えめな声が、春のそよ風のように柔らかい。
宮下は、わざとらしくため息をつきながら庭を見渡した。
「……これほどの庭を散歩できるとはな。池も山も、まるで一つの世界だ。だが、隣にお前のような女がいるとなれば、花も霞んでしまうな」
お鈴の頬が朱に染まり、視線が揺れる。
その仕草に宮下は内心ほくそ笑みながら、さらに言葉を重ねた。
「今夜は……いや、今すぐにでも、お前を抱きたいくらいだ」
お鈴ははにかみながらも拒むことなく、歩みを進める。
二人の後ろには女中たちが控えていたが、誰も声を発さない。ただ鳥のさえずりと水音だけが響き、庭園全体が二人のために用意された舞台のようだった。
宮下は、己が「将軍」であるという事実に酔いしれながら、女の腰を引き寄せ、庭の奥へと歩みを進めていった。
その夜、お鈴は静かに几帳をくぐり、宮下の寝所へと通された。
香の匂いと絹の衣擦れの音だけが、夜の闇を満たしていく。
宮下は夢と現実の区別を失い、ただ甘美な時間に身を委ねた。
それからの日々は、まるで夢の連続だった。
今夜はお琴、翌夜はお梅、その次はお蝶……。
毎晩違う名と顔が彼の枕元に現れ、酒と笑いと艶やかな香りが尽きることなく続いた。
時の流れは霞のように溶け、宮下はただ「将軍」としての歓楽に酔いしれていった。
月日が経つにつれ、宮下の側室は次々と子を産み落とし、その数はもはや把握できぬほどに膨れ上がっていった。誰が誰の母で、どの子が誰の名なのか――宮下の頭では到底覚えきれなかった。
それどころか、女中にまで手を出し、その子供まで生まれていた。
大奥は日に日に子供たちで溢れ返り、まるで鳥籠の中で命が際限なく増えていくようだった。
ある日、一人の少年が快活に駆け寄り、宮下に向かって元気よく声を上げた。
「父上! おはようございます!」
宮下は一瞬固まり、苦笑いを浮かべて言った。
「……ごめん、名前はなんだったかな?」
少年の顔に影が落ちた。
寂しさと怒りが入り混じった眼差しは、まるで胸の奥に深い爪痕を残すようだった。
その後ろで見守っていた女中の母もまた、怨念を押し殺すように唇を噛みしめている。
だが宮下は気にも留めなかった。
その夜、誰が夜伽に通されるのか――
頭の中はそのことでいっぱいで、少年の顔も、母の沈黙も、すぐに霧のように忘れ去られていった。
真夜中、宮下は寝込みを小刀で刺された。
その瞬間、周囲には数えきれぬ子供たちが取り囲んでいた。誰一人助けようとせず、むしろ頷き合い、笑みを浮かべる者までいた。
中心で刃を握っているのは、かつて名を呼んでもらえなかった女中の子。
彼を、側室の子供達が支え、背を押していたのだ。
「父上……これでようやく――」
その声を最後に、宮下の瞼はゆっくりと閉じられた。
後に語られるところによれば――
あの女中と子供は、側室たちの妬みによって大奥を追放される運命にあったという。
だが宮下は何も知らず、何も手を差し伸べなかった。
その無関心こそが、刃となって彼に突き立ったのだった。
……目を開けると、そこは病室だった。
長い夢を見ていたのだ。
甘美で、けれど最後は恐ろしく血に染まった夢。
「……今の状況は?」
宮下は車に轢かれたことを思い出し、震える声で呟いた。
「俺は……死んでいないのか?助かったのか……」
気がつけば、頬を涙が伝っていた。
傍らには、妻の亜弥と、二人の子供――九歳の裕太と六歳の紗奈が立っていた。
しかし三人は無言で、無表情のまま宮下を見下ろしている。宮下の目覚めの喜びなど、そこには欠片もなかった。
やがて裕太が、かすれた声で口を開いた。
「……父上」
続いて、妻の亜弥も静かに微笑む。
「……家斉様」
宮下は絶句した。
もう何が夢で、何が現実なのか――わからない。
恐怖と混乱が一気に押し寄せ、頭が焼けるように熱くなる。
その時、亜弥が病室のドアに手をかけ、音もなく開けた。
そこには――数え切れぬほどの無表情の子供たちが、立ち並んでいた。
「異世界転生ハーレム」と見せかけた短編ホラーと言うオチでした。