第90.5章: 剣と知恵
風間伊佐の言葉が落ちると、場は静寂に包まれた。シスター・マーサとジュリエットは、複雑な感情を浮かべた瞳で、まっすぐに彼を見つめている。
二人の視線を感じ、伊佐は少し気まずそうに後頭部を掻きながら苦笑した。
「ええと……俺、ちょっと格好つけすぎましたかね?」
「いいえ」シスター・マーサは祈るように両手を組んだ。「光の神エリクスが我らの祈りを聞き届け、勇者様を遣わしてくださったのです。この苦境から我らを救い出すために」
「はい」ジュリエットもすぐさま祈りの言葉を続けた。「すべてはエリクスの導きなのです。勇者様が、迷える我らを光へと導いてくださるのです」
厳かに祈りを捧げる二人を前に、伊佐は心の中で苦笑するしかなかった。彼が伝えたかったのは、ただ人として、他者の苦難を前にすれば自然と湧き上がる「憐れみの心」に過ぎない。それがまさか、神託の域にまで高められてしまうとは。
「いえいえ、そんな大げさですよ」伊佐は慌てて手を振り、話を現実に戻そうと試みる。「俺はそんなに偉い人間じゃありません。力のある者なら誰だって、子供たちの状況を見れば助けたいと思うはずです」
「勇者様、それは違います」シスター・マーサは祈りの姿勢を崩さぬまま、はっきりと答えた。「もし、地位ある方々が皆、勇者様のように苦しむ者に憐れみをかけ、救いの手を差し伸べてくださるのなら、この世に家を失う者など、これほど多くはおりますまい」
「その通りです」ジュリエットが小声で同意する。「貴族の方々も、裕福な商人たちも、我ら貧しい者を見れば、見て見ぬふりをするか、あるいは侮蔑の視線を向けるだけです」
この世界では、階級という概念が人々の心に深く根付いている。富める者は貧しき者を見下し、それを当然のことと見なしている。だからこそ、伊佐がいた元の世界ではごく当たり前の「共感」が、ここではこれほどまでに尊く、神聖なものに映るのだ。
「真の善人は、自らの功績を誇示したりはしません」シスター・マーサは断言した。「わたくしは生涯をエリクスに捧げてまいりましたが、あなた様ほど高位にありながら慈悲深く、力を持ちながら優しくあられる方に、未だかつてお会いしたことがございません。これが神の導きでなくて、一体何だというのでしょう?」
「そうです、勇者様。疑うことはありません。あなた様こそ、エリクスが我らにお与えくださった希望の光なのです」ジュリエットも力強く頷いた。
「それは……」風間伊佐は何かを言いかけたが、自分を神の使いと見なす二人を前に、どんな言葉も無力だと悟った。彼のいた現代社会の常識が、この残酷な世界では、彼自身を聖なる存在へと仕立て上げてしまっていた。
「お二人とも、どうかお顔を上げてください」伊佐はため息をつき、シスター・マーサとジュリエットの肩にそっと手を添え、立ち上がるよう促した。「優しさというものは、元々誰もが心の中に持っているものです。ただ、時として様々な要因によって覆い隠されてしまうだけ。心を覆う霧を晴らせば、きっと誰もがその温かさを取り戻せるはずです」
「心を……覆う霧……」シスター・マーサは伊佐の言葉を反芻し、思案に暮れた。
「ですが、どうすれば……?」ジュリエットが心からの疑問を口にした。
「難しいでしょう」伊佐は率直に認めた。「富める者は享楽に耽り、上に立つ者が善政を敷こうとしても、既得権益者からの様々な妨害に遭い、遅々として進まない。ましてや、その目で直接見なければ、下の者たちの苦しみなど、彼らにとっては報告書に載る冷たい数字でしかない。煌びやかな宮殿に、民の泣き声は届きませんから」
その言葉に、ジュリエットの肩が力なく落ちた。
「ですが」伊佐は言葉を切ると、その目に再び光を宿した。「俺はすでに陛下と話し合い、陛下も原則として救済制度の設立と、子供たちへの基礎教育の提供に同意してくださいました。まだ構想段階で、実現には長い時間がかかるでしょう。ですが、この制度が動き出せば、必ずや泥濘に喘ぐ人々の希望になると信じています」
「勇者様、今……陛下を説得なさって、人々を救うための予算を?それに、子供たちみんなに教育を受ける権利を?」ジュリエットは信じられないといった様子で顔を上げた。
「ええ」伊佐は力強く頷いた。
「なんということでしょう……古今東西、このような壮大な企て、聞いたことがありません……」シスター・マーサは呆然と呟いた。「国が率先して、貧しき者たちのために救済制度を設けるなど……。ましてや、全ての民に教育の機会を与えるなど!知識とは、これまで貴族や富裕層、そして聖職者によって独占されてきたのですから……」
「それを勇者様は、我らのような者のために……」そこまで言うと、シスター・マーサは再び両手を組み、祈りを捧げた。「おお、我らが主、聖なるエリクスよ!祈りを聞き届けてくださり、感謝いたします。あなた様がお遣わしになった勇者は、我らに食糧のみならず、光の律法と希望の種をもたらしてくださいました」
「救世の勇者を遣わし、我らを光へとお導きくださる、聖なるエリクスに感謝を!」ジュリエットも涙ながらに続いた。
再び祈り始めた二人を見て、風間伊佐はついに弁明を諦めた。彼が神の使いなのではない。ただ幸運にも、誰もが平等な現代に生きていたからこそ、その視点をもってシャルルマン王に救済制度や義務教育の利点を説くことができただけだ。
「どうも……ますます話がこじれていくような……」伊佐は心の中で苦笑した。神のお告げなどない。彼が見て、助けが必要だと感じた人々を助ける。ただそれだけを、彼自身の心が命じているのだ。この世界を、もう少しだけ笑顔と温かさで満たしたい、と。
やがて彼は、封建的なこの社会において、自分の理念がいかに突飛で、信じがたいものかを思い、ふと肩の力が抜けた。
「もういい。神の使いなら、それでいい」伊佐は心の中で自嘲した。「この世界が少しでも良くなるのなら、俺が何だと思われようと、大した問題じゃない」
その時、幼い声が静寂を破った。
「シスター・マーサ、ジュリエットお姉ちゃん、ご飯まだー?お腹すいたよー」
三人が振り返ると、ジェミットと同じくらいの歳の子が、ドアの陰からひょっこりと顔を出し、期待に満ちた目で見つめていた。
「あぁ、ごめんなさい、ごめんなさい!今すぐ準備するわ!」シスター・マーサは我に返り、慌てて食材の方へ向き直った。
「俺も手伝いますよ」
「いえ、勇者様!」ジュリエットが慌てて彼を制した。「これ以上あなた様のお手を煩わせるわけにはまいりません!」
「大したことじゃないですよ、夕食の準備くらい」
「いけません。勇者様は、食堂で食事ができるのをお待ちください」
ジュリエットの強い押しに負け、風間伊佐はキッチンから丁重に「追い出された」。食堂へ行き、子供たちと一緒に夕食を待っていると、アンナが同年代の少年と楽しげに話しているのが目に入った。
「おや、アンナ。何をそんなに楽しそうに話してるんだ?」
「マックスお兄ちゃん!ラッセルがね、自分も騎士になりたいんだって!」
「へぇ!」伊佐はラッセルという名の少年に視線を移した。「ラッセル、どうして騎士になりたいんだ?」
問われたラッセルは、はにかんで俯き、古い服の裾を緊張した手つきで握りしめた。やがて、意を決したように顔を上げ、こう言った。
「だって……シスター・マーサや、ジュリエットお姉ちゃん、教会の皆を守りたいから。それと……」
そこで言葉を切り、ラッセルは頬を赤らめながら、ちらりと隣のアンナに視線を送った。
その視線を追い、伊佐は思わず頬を緩ませた。「こいつ、こんな小さいのにもううちのアンナに気があるのか」
アンナは伊佐の視線に気づき、不思議そうに、純真な瞳で彼を見返した。
その様子に笑いをこらえ、伊佐はラッセルの淡い恋心をそっとしておくことにして、そっと屈み込み、優しく問いかけた。
「それと?」
ラッセルの顔が、熟した林檎のように真っ赤になった。唇を固く結び、視線を彷徨わせ、もうアンナの方を見ようとしない。その姿が、何よりの答えだった。
伊佐は微笑むと、もうからかうのをやめ、ラッセルの頭に優しく手を置いた。
「ラッセル。大切な誰かを守りたいという気持ちは、騎士になるための、何より立派な理由だぞ」
まさか肯定されるとは思わず、ラッセルはぱっと顔を上げた。その瞳は驚きと憧れに輝いている。
「本当?僕みたいな者でも……騎士になれるの?」
「もちろんだ。ただ……」伊佐は頷き、そして言葉を続けた。「本当の騎士は、ただ剣を振るえればいいわけじゃない」
その一言が、ラッセルとアンナの好奇心を強く惹きつけた。
伊佐は二人を見つめ、続けた。
「騎士というのは、力だけでなく、正義や信仰といった、大切なものを守る心が必要なんだ」
「正義と、信仰?」ラッセルとアンナは不思議そうに声を揃えた。
「ああ」伊佐は説明する。「例えば、国の命令が、武器を持たない民を傷つけろというものだったらどうする?教会が、彼らの言う異端者を虐殺しろと命じたら?その命令に従うか、それとも自分自身の心の声に従うか?」
ラッセルは伊佐の意図が理解できず、困惑したように尋ねた。
「騎士は、国や教会の命令に従うものではないの?」
「大抵の場合はそうだ。だが、もしその命令自体が邪なものだったら?命令を下す者が、民を守るという務めや、本来の信仰を見失っていたとしたら?」
「それは……」ラッセルは絶句した。国も教会も常に正しいと、疑ったことなどなかったからだ。
伊佐は言葉を続ける。「理想を言えば、国や教会は正義と信仰の象徴だ。残念ながら、俺たち人間は完璧じゃない。高い地位にいる者ほど、様々な誘惑に負けて、心の中の正義や信仰を失ってしまうことがある」
「じゃあ……どうすればいいの?」ラッセルは必死に尋ねた。
伊佐はゆっくりと語りかけた。
「覚えておけ、ラッセル。俺たちの剣は、守るために振るうものだ。だからこそ、本当の騎士には知恵がいる。学び続け、何が正しく、何が間違っているのかを自分で判断し、心の中にある本当の正義と信仰を守り抜く力が必要なんだ!」
伊佐の言葉は、ラッセルの心に新しい世界の扉を開いたようだった。彼が思い描いていた騎士は、鎧を着て剣を振るい、敵を倒すだけの存在だった。だが伊佐が語ったのは、もっと温かく、思慮深く、遥かに大きな騎士の姿だった。
「わ、わかった、勇者様!」ラッセルの声はまだ幼いが、そこにはかつてない決意が宿っていた。「俺、勇者様が言ったみたいな騎士になる!みんなを守るだけじゃなくて、本当の正義と信仰を守るために!」
「いい心構えだ」伊佐は満足げに言った。「それなら、文字の読み書きと鍛錬からだな。強い体は誰かを守る力になり、豊かな知識は何のために戦うかを教えてくれる。どちらも、学ぶ覚悟はあるか?」
「はい!」ラッセルは未来への憧れに満ちた目で、迷いなく叫んだ。
「よし、今度俺がしっかり鍛えてやる!」
そのやり取りを聞いていた他の子供たちもわらわらと集まってきて、自分たちも字を習えるのかと口々に尋ね始めた。食堂は一気に子供たちの興奮した騒ぎ声に包まれた。
その時、キッチンからパンの焼ける香ばしい匂いと、肉のスープの香りが漂ってきた。
「はい、みんな、夕食ができましたよ」シスター・マーサとジュリエットが、大皿を手に現れた。その顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。「まずはお食べなさい。お腹がいっぱいでないと、勉強もできませんからね」
子供たちはそれぞれ席に着き、食前の感謝を捧げると、一斉に食事に手を付けた。
「今日のスープ、すごく美味しい!」
「パンがふわふわで甘いよ!」
伊佐の寄付のおかげで、今日の夕食には新鮮な野菜と、王宮から届けられた柔らかく甘いパンが並んだ。スープはほんの欠片の塩漬け肉で出汁を取っただけの質素なものだったが、子供たちにとっては、またとないご馳走だった。
かつてないご馳走を前に、子供たちの純粋な笑顔が溢れ、小さな食堂は温かい空気に満たされた。
その光景に、ジュリエットが感慨深げに言った。
「勇者様のおかげで、子供たちの笑顔がずっと増えました」
「信じてください、これは始まりに過ぎません」伊佐は幸せそうな顔の一つ一つを見つめながら、静かに答えた。「これから、もっと多くの人が、こんな風に笑えるようになります」
「勇者様……?」
「陛下の政策がいつ始まるかは分かりませんが、物事は良い方向へ向かっている。希望を捨てずに生きていれば、必ずその日が来ることを、その目で見届けられます」
シスター・マーサとジュリエットは顔を見合わせ、互いの瞳に深い感動が宿るのを見た。貧しき者たちを、貴族は無視し、手を差し伸べるべき教会さえも世俗の栄光に目を眩ませていた。だが、天から来たこの勇者だけが、彼らのために霧を払い、確かな希望をもたらしてくれたのだ。
二人は再び、胸の前でそっと手を組んだ。「光の神エリクスよ、我らに真の勇者を遣わしてくださり、感謝いたします……」
その敬虔な眼差しに、今度の伊佐はただ苦笑いを返すだけだった。反論はしない。ただ心の中で、こう絶叫するだけだ。
「まだ来るか……!もう勘弁してくれよ!」
この夜、バスリグの貧民街にある小さな教会は、久しくなかった歓声に包まれ、この薄暗い街に、ささやかだが、確かな光を灯していた。
アリアン(Arian):
主人公と仲間:
風間 伊佐〔MAX〕
リック(Rick)
エマ(Emma)
レイチェル(Rachel)
世界・国家:
休ジェスト(ヒューゲスト)〔世界名〕
アレクス王国
王族・王宮関係者:
シャルルマン・ハンスウォーケン〔国王〕
エリザベート・ハンスウォーケン〔王女〕
ウォリック・ハンスウォーケン〔第一王子〕
ジフク・ハンスウォーケン〔第二王子〕
クリス・ハンスウォーケン〔第三王子〕
宮廷・騎士団関係:
リゼス・アンコベル〔首席女神官〕
アルドフ・ツァイコロフ〔宰相〕
アルドフ・ツァイコロフ〔騎士団長〕
マイヤー・オギリテ〔騎士団副団長〕
アリアン・レフォルト〔魔法騎士団長〕
カフス・フォンデシーン〔魔法騎士団副団長〕
ジュリエット・ナスタント〔初級神官〕
ダンブズ・ホークランド〔前大賢者〕
イレス・ヴォジリット〔メイド〕
リチャード・ディオジット公爵〔東方領地領主〕
主人公関係者:
天翔〔風間伊佐の騎乗馬〕
養女の庶民の女の子: アンナ
養子の庶民の男の子: ジェミット
他国・神・魔族
東方帝国 ロールス
南方王国 シーク
中土王国 プシス
中土王国 ウランクス
シドレフ・グランシス〔プシス国王〕
プシス公爵 ヒルトン・ヴァルキス
ウランクス公爵 ヴァキル・キルコフ
魔族将軍 クラシド
魔族魔法将軍 シフィス
神:
光の神 エリクス(エリクス)
大地の神 ディートラ(ディートラ)




