第87章:遮られた星空
王宮の前で、風間伊佐とジュリエットは別れの挨拶を交わしていた。ジュリエットは去り際に、再び風間伊佐へ向かって深く頭を下げる。
「勇者様、今夜はありがとうございました。おかげさまで、教会の子供たちも、しばらくは安心して暮らせます」
「いや……大したことはしていない……。俺が使わないものを、本当に必要としている人たちに渡しただけだ」
「勇者様、そんなことをおっしゃらないでください。もし誰もがあなた様のような心を持っていれば、この世の苦しみはきっとずっと少なくなるはずです」
「ジュリエット……」
その時、ジュリエットは夜空に高く掛かる月へと視線を向けた。その澄んだ瞳には月光が映り、そして、一筋の迷いと葛藤も映っていた。
「聖典にはこう記されています。『苦難は、人の魂を鍛え上げるための試練である。幾多の試練を乗り越えた魂だけが、最後にはエリクス様の御光に浴することができる』と。それならば……なぜ多くの貴族や富裕な方々は、聖典の教えを無視し、快楽に耽るのでしょうか?」
その問いに、風間伊佐は一瞬言葉を失った。月光の下に浮かぶ少女の困惑した顔を見つめる。これは神学論争ではない。敬虔な信徒が、世界の不公平を目の当たりにした末に抱いた、魂の底からの疑問なのだ。
「もしかしたら……」彼は思案した。「神が与える『試練』は、一つだけじゃないのかもしれない」
「……一つだけではない、ですか?」ジュリエットは不思議そうに風間伊佐を見上げた。
「ああ」風間伊佐は頷き、その眼差しを深くする。「貧しい者たちにとって、試練とは『欠乏』だ。飢えと寒さの中で、心の善性を保てるか。絶望の淵で、希望の光を見出せるかという試練」
そこで一度言葉を切り、風間伊佐は煌びやかな灯りに照らされた貴族街の方角に目をやった。
「そして、あの貴族や富める者たちにとっての試練は、『富裕』そのものなんだ」
「富裕、ですか……?」
「そうだ」風間伊佐は、確信に満ちた声で言った。「それはもっと見えにくく、そして、より危険な試練だ。彼らが試されているのは、贅沢な暮らしの中で、貪欲の侵食に抗えるか。権力の塔の上から、底辺で生きる者たちの嘆きに耳を傾けられるかということだ。権力と富、それ自体が最も危険な試練の場なのさ。欲望とは、決して満たされることのない獣だ。一度でも枷を外せば、持ち主を喰らい尽くし、**永遠に抜け出せぬ地獄の底へと引きずり込む**」
それは、彼が二つの世界の知見を融合させて導き出した結論だった。汚職によって失脚した高官たちのことや、『浮世仙月』で湯水のように金が使われる光景を思い出していた。
ジュリエットはその言葉を聞いて、呆然としていた。その言葉は、まるで雷鳴のように彼女の心にあった疑念を打ち砕いた。神は偏在するのではなく、最も困難な試練を与えていたのだ。ただ、彼らが自ら堕落を選んだに過ぎない。
彼女は風間伊佐を見つめた。月光が彼の横顔に降り注ぎ、その毅然とした輪郭をなぞる。今の彼は、人々が知る強大な勇者というだけでなく、まるで思慮深い賢者のようだった。
「勇者様……」
ジュリエットの声に、風間伊佐は思考の海から引き戻された。彼は少し照れくさそうに頭を掻き、笑って見せる。
「……こんな説明で、納得してもらえたかな」
ジュリエットは深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「いいえ。勇者様が、エリクス様の教えをこれほど深く理解されているとは思いもしませんでした。先ほど、私の信仰は確かに揺らぎました。ですが、勇者様が道を示してくださったのです。私の信心が、まだまだ足りなかったのだと、よく分かりました」
そう言うと、ジュリエットは風間伊佐に再び一礼し、背を向けて去っていった。その足取りは、先ほどよりもずっと確かなものに見えた。
風間伊佐はその場に立ち尽くし、夜の闇に溶けていく彼女の後ろ姿を黙って見送った。口元に、どうしようもない苦笑が浮かぶ。
「彼女は何か勘違いしているようだが……まあ、いいか。立ち直ってくれたなら、それで」
ジュリエットの姿が完全に見えなくなってから、風間伊佐は踵を返し、王宮の中へと入っていった。
***
風間伊佐が自室の前に戻り、ドアを押し開けると、ベッドにアンナが座り、静かに窓の外の夜空を眺めていた。その隣では、ジェミットがすやすやと寝息を立てている。
ドアの開く音に、アンナが振り返り、その顔に笑みを咲かせた。
「マックスお兄ちゃん、おかえりなさい~」
「ん、ただいま」風間伊佐は部屋に入り、静かに尋ねた。「さっきまで何を見てたんだ?」
「ううん、なんでもない。ただ、マックスお兄ちゃんを待ってる間、ぼーっと夜空を見てただけ」
「そうか」アンナの答えを聞き、風間伊佐も窓の外に視線を移す。月が高く昇り、その周りを数えきれないほどの星々が彩っている。元の世界で、風間伊佐は多忙な都市に住んでいた。夜は街の灯りに覆われ、星の姿などとうの昔に見えなくなっていた。
風間伊佐の視線は、どこか遠くを見ているようだった。彼はこのきらびやかな星空を突き抜け、ネオンは輝くものの星のない故郷へと、思いを馳せているかのようだ。そこには便利な生活と発達した科学技術があったが、同時に、文明に包まれた孤独もあった。忙しい毎日の中で、どれくらいの間、こうして静かに夜空を見上げたことがなかっただろうか。
風間伊佐がじっと窓の外を見つめているのに気づき、アンナが不思議そうに尋ねた。
「マックスお兄ちゃん、どうしたの?」
風間伊佐ははっと我に返り、答えた。
「ああ、なんでもない。ただ、元の世界じゃこんなに綺麗な星空は久しぶりに見たな、って思って」
アンナは続けて尋ねる。
「マックスお兄ちゃんのいた世界には、お月様やお星様はないの?」
風間伊佐は少し黙り込んだ。彼の世界にある『光害』という概念を、どう説明すればアンナに伝わるだろうか。少し考えた後、彼はゆっくりと口を開いた。
「ううん。星も月も、ここと俺のいた世界とでほとんど同じだよ。でも違うのは、俺の世界の人々は、蝋燭よりもずっと明るい灯りで、真っ暗な夜を照らすんだ。でも、その灯りが明るすぎて、星の光を隠してしまう。だから、街に住む人たちはもう星を見ることができなくて、夜空にぽつんと浮かぶ月しか見えないんだ。こんなに綺麗な星空は、人があまりいない場所でしか見られない」
アンナは分かったような、分からないような顔で瞬きをし、小さな眉をきゅっと寄せた。
「それって、すごくもったいない。星はあんなにきれいなのに、どうして隠しちゃうの?」
「そうだな……」風間伊佐は低く相槌を打った。「どうして、なんだろうな」
アンナの無邪気な一言が、先ほどの王宮前でのジュリエットとの会話――「富裕の試練」――を思い出させた。
彼のいた世界では、科学技術が人々を物質的な欠乏から解放し、ほとんどの人が災害や飢餓を心配する必要がなくなった。だがその代わりに、精神的な渇きをもたらした。人々は科学技術がもたらす利便性と物質的な豊かさを享受する一方で、静かに世界と向き合う力を少しずつ失っていった。星空と同じだ。人々は夜を照らし出す光を手に入れた代わりに、星空を覆い隠してしまった。豊かさを創造し、心の貧しさを生み出したのだ。人々は「富裕」の中で、次第に道を見失っていた。
「人は時々、忘れてしまうからだよ。一番大事なものが、一番明るく輝いているとは限らないってことを」
風間伊佐は、アンナに言い聞かせるように、そして自分自身に言い聞かせるように、そっと呟いた。
彼は手を伸ばし、優しくアンナの頭を撫でる。
「さて、もう遅い。早く寝なさい」
「うん!」アンナは素直に頷き、布団に潜り込んだ。だが、風間伊佐がソファに向かおうとするのを見て、声をかけた。「マックスお兄ちゃんは、一緒に寝ないの?」
「え……今日はやめておくよ。お風呂に入れてないから、匂いが気になるかもしれないし」
「大丈夫だよ、マックスお兄ちゃん」アンナは静かに答えた。「こんなに柔らかいベッドで眠れるのも、窓からきれいな星空が見えるのも、全部マックスお兄ちゃんのおかげだもん。マックスお兄ちゃんがいなかったら、私たち、今日まで生きていられなかったかもしれない」
「アンナ……」柔らかな笑みを浮かべるアンナを見つめていると、風間伊佐の胸に名状しがたい感情が込み上げてきた。
「それに」彼女はくるりと話題を変え、無邪気な口調で言った。「貧民街の嫌な臭いに比べたら、マックスお兄ちゃんの汗の匂いなんて、全然たいしたことないよ!大丈夫!」
「……」
湧き上がった感動は霧散し、風間伊佐は苦笑いを浮かべるしかなかった。これは慰めなのか、それともただの追い打ちか。
風間伊佐はため息をつく。
「わかったよ、君がそこまで言うなら……」
そうして風間伊佐はベッドに上り、アンナとジェミットに布団をかけ直してやった。アンナは自然と彼の腕の中に寄り添い、目を閉じて小さな声で呟く。
「マックスお兄ちゃん、汗の匂いなんてしないよ。すごく、安心する匂いがするだけ……」
腕の中の温もりは、**あまりに生々しかった**。風間伊佐は腕の中で安らかに眠るアンナを見つめ、その体温と穏やかな寝息を感じる。その温かな重みが、まるで暖流のように全身に染み渡っていく。だが同時に、それは先ほどジュリエットの教会で見た子供たちの姿を思い出させた。
自分はアンナとジェミットを腕に抱き、雨風から守り、柔らかな寝台で眠らせてやることができる。しかし、あの子たちはどうだ?今夜は、あの金貨袋のおかげで温かいスープを啜り、一時的に飢えをしのげているかもしれない。だが、明日は?来月は?
ジュリエットには、知恵と正義に満ちているかのような説明をした。「富裕の試練」という理論。その言葉はジュリエットに信仰の強さを取り戻させたが、風間伊佐自身は、それが何一つ実質的な苦境を変えられないことを誰よりもよく分かっていた。快楽に耽る貴族や富豪たちが、そんな曖昧な「試練」の一言で行いを改めるはずがない。そして、どん底で足掻く貧しい者たちの苦難が、それで少しでも減るわけではない。
**「理想と現実は、かくもかけ離れているものか」**
腕の中のアンナが身じろぎし、夢うつつに何かを呟きながら、さらに深く彼の胸元にすり寄ってきた。
風間伊佐は無意識に腕に力を込め、彼女をより確かに守るように抱きしめる。
窓の外の月光を見上げ、アンナと初めて出会った時の光景を思い出す。あの時見た、崩れかけた家々と、みすぼらしい衣服をまとった人々が、再び脳裏に浮かび上がった。
『この世界は元から不公平なんだ』
その言葉が、再び響く。
元の世界であれ、ここであれ、その言葉は疑いようもなくこの世の真理だ。それは人に限らず、万物に当てはまる。「弱肉強食」は、古より変わることのない法則。
「……俺は……結局、誰も救えないのか……?」
そんな疑問を胸に抱きながら、月光を浴びて、風間伊佐はゆっくりと目を閉じ、夢の中へと沈んでいった。
アリアン(Arian):
主人公と仲間:
風間 伊佐〔MAX〕
リック(Rick)
エマ(Emma)
レイチェル(Rachel)
世界・国家:
休ジェスト(ヒューゲスト)〔世界名〕
アレクス王国
王族・王宮関係者:
シャルルマン・ハンスウォーケン〔国王〕
エリザベート・ハンスウォーケン〔王女〕
ウォリック・ハンスウォーケン〔第一王子〕
ジフク・ハンスウォーケン〔第二王子〕
クリス・ハンスウォーケン〔第三王子〕
宮廷・騎士団関係:
リゼス・アンコベル〔首席女神官〕
アルドフ・ツァイコロフ〔宰相〕
アルドフ・ツァイコロフ〔騎士団長〕
マイヤー・オギリテ〔騎士団副団長〕
アリアン・レフォルト〔魔法騎士団長〕
カフス・フォンデシーン〔魔法騎士団副団長〕
ジュリエット・ナスタント〔初級神官〕
ダンブズ・ホークランド〔前大賢者〕
イレス・ヴォジリット〔メイド〕
リチャード・ディオジット公爵〔東方領地領主〕
主人公関係者:
天翔〔風間伊佐の騎乗馬〕
養女の庶民の女の子: アンナ
養子の庶民の男の子: ジェミット
他国・神・魔族
東方帝国 ロールス
南方王国 シーク
中土王国 プシス
中土王国 ウランクス
シドレフ・グランシス〔プシス国王〕
プシス公爵 ヒルトン・ヴァルキス
ウランクス公爵 ヴァキル・キルコフ
魔族将軍 クラシド
魔族魔法将軍 シフィス
神:
光の神 エリクス(エリクス)
大地の神 ディートラ(ディートラ)




