第85章: 酔月
「ま、待ってくださいっ……!無理です、初対面の女性に対して、そんな……」
風間伊佐は顔を真っ赤に染め、慌てて手を振って拒絶した。
アスタルテは驚いたふりをして、ぱちぱちと目を瞬かせる。「んん?ただ、勇者様にもう少し飲食を楽しんでもらいたいだけですよ?私一人じゃ、売上ノルマが大変なんですから〜」
彼女はふふっと笑い、身を乗り出して囁くように続けた。「勇者様は……何を想像したんですか?」
「お、俺は……」
アスタルテのからかいに、風間伊佐は言葉を詰まらせ、心の中で叫んだ:
『やっぱりこの店のトップは伊達じゃない……俺みたいな純情少年じゃ太刀打ちできねぇ!』
「お客様、お食事をお持ちしました」
まさに溺れる者が藁を掴む思いで、風間伊佐の耳に救いの声が響いた。部屋の外からフィエルの声が入る。
「お、おお……どうぞ、入って!」
彼は襖の向こうへ向かって急いで返事をした。
フィエルが襖を静かに開け、丁寧に料理を運ぶ。風間伊佐はこっそりアスタルテを見ると、彼女は含み笑いを浮かべ、その目はこう囁いていた:「今回は見逃してあげる。でも次はどうかな?」
フィエルは一礼して退出し、襖が閉じられる。室内に静寂が戻った。
その静けさの中、風間伊佐は彼女の方を見られず、ひたすら食事に集中するふりをしていた。
彼の慌ただしい食べっぷりを見て、アスタルテは微笑んだ。「マックス様、浮世仙月のお料理、お口に合いますか?」
口の中の食べ物を慌てて飲み込み、少し咳き込んだ風間伊佐は、「お、美味しいよ。き、君は食べないの?」
「特別なご要望がない限り、私たちはお客様と一緒に食事はしませんので」
「そ、そうなの!?じゃあ、君も一緒に食べてよ。俺だけ食べてると、なんか落ち着かないし……」
「では、いただきます」
アスタルテはすんなり了承し、箸を上品に取り、一口だけつまんだ。片手で頬にかかる髪をそっとかき上げ、月光に照らされながらその料理を口に運ぶ――まるで一枚の絵のような美しさだった。
その所作に見惚れた風間伊佐は顔を赤らめ、慌てて目をそらした。アスタルテは箸を置き、かすかな音が響いて、彼の動きがピタリと止まる。
「勇者様、ご飯も良いですが、『酔月醸』もぜひお試しくださいませ」
アスタルテはフィエルが運んできた酒壺を取り、銀の盃に透明な酒を注いだ。その壺には白月の下に広がる夜景が描かれ、酒は月光にきらきらと煌めいていた。
風間伊佐は盃を手に取り、じっと見つめて言った。「一階で飲んだ忘憂酒より、高級な感じがする……」
「酔月醸も忘憂酒も、月光花の実――『月下果』から作られているのですが、酔月醸はより手間をかけ、長時間熟成させています。そのため、味わいも深く、まろやかで……」
「へえ……」
興味深そうに風間伊佐は盃を傾け、口に運んだ。甘く、ほのかに辛い酒が喉を通ると、全身に温もりが広がった。
「この酒……ただものじゃないな」
うっとりと呟き、心の中で思った:
『月下に佇む絶世の仙女と、この名酒……まさに夢のような別天地だ……』
「あ、気に入られたなら、もっとご注文くださいませ。彼女たちの成績にもなりますので」
アスタルテの声に現実へ引き戻された。
「あ、ああ……これ、いくらするの?」
「まあ、マックス様。お値段の話なんて野暮ですよ?ここは浮世仙月、選ばれた者しか来られない場所ですから。アレクスの勇者様が、そんなこと気にされるなんて〜」
その完璧な笑顔に言葉を失い、風間伊佐は財布の紐が悲鳴を上げる中、追加の酒を注文させられた。
―――――――――――――――――
三度の酒が回ったころ、風間伊佐の頬は赤みを帯びていたが、意識はしっかりしていた。窓の外の満月を見上げ、ぽつりと口を開く。
「花間一壺酒,獨酌無相親。舉杯邀明月,對影成三人。月既不解飲,影徒隨我身。暫伴月將影,行樂須及春……」
その詩句は、水が流れるように静かに室内に響き渡った。彼の胸にふっと染み入る一節一節。
最後まで読み終えた風間伊佐は、ふぅと息を吐き、畳に仰向けに倒れる。「……いい詩だな……」
アスタルテは静かにその詩に聴き入っていた。「マックス様、その詩は……?」
「俺のいた世界の、歴史に名を残す詩人の作だ。彼は非凡な才能を持ちながら、生涯報われなかった。都の華やかさの中で理解者もなく、月と影だけを友として……」
彼は少し間をおき、苦笑が漏れる。
「……まあ、俺なんかが彼と比べるのはおこがましいけどさ。でも、この知らない世界で、“勇者”なんて肩書を一人で背負うのは……正直、息が詰まりそうなんだ」
彼は天井を見つめながら続けた。「若いころは、この手の詩をテストのために覚えるだけだった。先生が『報われぬ悲哀』とか言っても、ピンと来なかった。でも、経験を重ねるうちに、少しずつその苦しみが理解できるようになって……“人生不如意十之八九”ってやつさ。最初はただの他人事。でも、今は……再び聞けば、すでに“曲の中の人間になっている”──か」
最後の呟きには、自嘲と隠せない疲れが混ざっていた。仰向けのまま、彼はこの異世界の重圧と郷愁を少しでも天井の向こうに預けるかのようだった。
部屋は静寂に包まれていた。先ほどとは違い、今の沈黙は、優しく穏やかな空気に満ちていた。
アスタルテは黙って彼を見守り、あのいたずらっぽい笑みも媚びるような眼差しも消えていた。今は、澄んだ月のような深いまなざしで、彼の心の奥を見つめているかのようだった。
しばらくして、彼女はそっと酒壺を手に取り、空になった二人の杯に再び酔月醸を注いだ。その清らかな水音だけが、今、部屋の中に響いていた。
「世の人々は、今日も賑やかに行き交っているわね……」
アスタルテは窓の外に浮かぶ月を見上げながら、柔らかく呟いた。
「浮世風月に訪れる人々は、みんな一夜の慰めを金で買おうとするの。幾人も、あなたのように“マックス様”と呼ばれる方が、幾杯かの『酔月釀』を飲んでは、月明かりの下で悩みを口にする。酒に自分を酔わせて、歌や踊りで虚しさを埋めようとするのね」
言葉を一度切った彼女は、ふたたび口を開いた。
「けれど……あなたのように、こんなにも美しい詩で自らの孤独を語る方なんて、ほとんどいないわ」
「それは……僕が違う世界から来たからかもしれない」
風間伊佐は少し照れながらも、穏やかに微笑んだ。
「けれど、“マックス様”がどこの世界の方であろうと……あなたもまた、私たちと同じように、孤独や悲しみ、そして不安を感じるのでしょう? そうであれば、本質的には、私たちに違いなんてないわ」
その言葉に、風間伊佐は驚いてアスタルテを見つめた。
「あなたは勇者。世界を救う存在。
彼は詩人。名を残す存在。
でも、私は……」
アスタルテは自嘲気味に小さく笑った。
「この“浮世仙月”という場所で、客の機嫌をとって生きるしかない……華やかだけれど檻のような世界で、ただ一枚の花びらとして揺れているだけ」
彼女は自分の杯を持ち上げ、ゆるやかに傾ける。
琥珀色の酒が揺れ、その中に窓の月が映っていた。
「立場が違い、責任も違い、見る世界もまるで異なる。
でも、“勇者”、“詩人”、“花魁”という名の衣を脱ぎ捨てれば……残るのは、どれも同じ“ただの人間”じゃないかしら?」
「血が流れ、肉があり、夜に迷い、不安に震え、望まぬ重荷に心が折れそうになる……それは、誰もが抱える弱さよ」
その言葉は、まるで月の光のように、静かに、しかし確かに風間伊佐の胸を打った。
「アスタルテ……君も、寂しさを感じることがあるのか?」
「もちろんよ」
アスタルテは顔を上げ、まっすぐに彼を見た。
「この華やかな場所に、誠なんてものはない。
すべては利害で動いているの。私は“花魁”として特別扱いされているけれど、権力者の前では笑顔で媚びるしかないし、時には拒むことすら許されない。あと数年して年を取れば……ただの娼妓に降ろされるの。
そうなれば、指名があるかどうかさえ怪しい」
「アスタルテ……」
「これが、私の運命……いえ、“月夜の街”に生きる無数の人たちの運命よ」
「アスタルテ……どうして、君は“浮世風月”に?」
風間伊佐は躊躇いながらも、静かに尋ねた。
「選んだ? いいえ……私たちには、最初から選択肢なんてなかったの」
アスタルテの声には、かすかな哀しみが滲んでいた。
「家が貧しくて、生きるために売られた子もいる。
あるいは、小さな頃に誘拐されてここへ流れ着いた者も……。
私の故郷の村は……戦で焼き払われたの。
逃げる途中で家族とはぐれ、気づけば奴隷商人の檻の中だった」
「……そうだったのか」
アスタルテの語る過去に、風間伊佐は言葉を失った。
それを察した彼女は、微笑んで言った。
「“マックス様”、そんな顔をしないで。
私はむしろ感謝しているのよ。
ここ“浮世風月”では、きちんと食べられて、着る物もある。
そして他の場所と違って、ここの女将さんはとても優しいの。
私が“花魁”になれたのも、幸運だったわ。
だから理不尽な客に当たることも少ないの」
「それは……よかった」
風間伊佐は素直にそう答えた。
「でも、時々思うの。
もし、あの時、村が焼かれていなかったら。
もし、家族と離れ離れにならなかったら。
私は、今どんな人生を歩んでいたのかしら……」
アスタルテは遠く月を見つめ、淡く微笑む。
「きっと、普通の娘として畑で働いて、村の男と結婚して……
平凡だけど穏やかな毎日を過ごしていたかもしれないわ」
彼女の言葉に、風間伊佐は何も言えなかった。
どんな慰めも、今はただ空しく思えた。
「ごめんなさいね……話が長くなっちゃった」
アスタルテはすぐに表情を整え、営業用の笑顔を浮かべる。
そして、酒杯を掲げた。
「さあ、“マックス様”。この一杯は、勇者にも詩人にも捧げない……」
彼女はふと目を細め、深い真心をこめて言った。
「この杯は……月の下で、何かをひとり背負いながら生きているすべての“曲中の人”へ」
「“曲中の人”――物語の中にそっと存在し、誰にも知られぬまま、それでも必死に生きる人……」
アスタルテの言葉に我に返った風間伊佐も、そっと杯を掲げる。
「“曲中の人”に、乾杯」
そして、彼は真摯に言った。
「ありがとう、アスタルテ」
「え?」
アスタルテは首をかしげ、月のような瞳を細めて微笑んだ。
その笑顔には、先ほどまでとは違う、真心があった。
「君と話して、心が軽くなった気がする」
「ふふっ、そう? それならよかった。
でもね、その『心の軽さ』の相談料は……決して安くないのよ、勇者様」
彼女は悪戯っぽくウインクしながら言った。
「さっき追加した“酔月釀”、お会計、お忘れなくね~」
「えっ……あ、あぁ……」
(しまった、“酔月釀”って……いくらするんだ……? まさか破産するんじゃ……)
その時、部屋の奥から鐘の音が鳴った。
風間伊佐は時計に目をやる。
「やばっ! そろそろ帰らなきゃ!」
「えっ、もう?」
アスタルテが目を見開く。
「子どもたちに、今日は帰るって約束してたんだ」
「子ども……って、あなた……結婚してるの?」
アスタルテの瞳が驚きに揺れ、少し不安そうに尋ねた。
「いや、結婚はしてないよ。養子を迎えてるんだ」
「……そうなのね」
彼女はそっと胸を撫で下ろすように微笑んだ。
「じゃあ、またね」
「待って……!」
風間伊佐が戸口に手をかけたとき、アスタルテが呼び止めた。
「“マックス様”……また来てくれる?」
「えっと……」
(ヤバい、『酔月醸』がいくらなのかまだ知らないぞ……俺、まさか破産するんじゃ……)
その戸惑いを読み取ったのか、アスタルテはそっと囁いた。
「あなたと話すと、私も気が楽になるの。
だから……また来てほしい」
その瞳に込められた願いに、風間伊佐は考え込んだ。
「女将さんに、とっっってもお得な割引……お願いしておくから」
「……じゃあ、きっとまた来るよ」
「でも、今回のお会計は別ね」
アスタルテはにっこりと笑い、小悪魔のように言った。
「はいはい……」
風間伊佐は苦笑しながら、静かに扉を開けた。
戸が閉じられたあと、部屋にふたたび静けさが戻った。
アスタルテは月の光に照らされながら、窓辺に立ち、そっと詩を口にする。
「醒時同交歡,醉後各分散......」
――それは、かつて異国の詩人・李白が詠んだ言葉だった。
註:
作中の詩は、李白の「月下独酌」より引用。
アリアン(Arian):
主人公と仲間:
風間 伊佐〔MAX〕
リック(Rick)
エマ(Emma)
レイチェル(Rachel)
世界・国家:
休ジェスト(ヒューゲスト)〔世界名〕
アレクス王国
王族・王宮関係者:
シャルルマン・ハンスウォーケン〔国王〕
エリザベート・ハンスウォーケン〔王女〕
ウォリック・ハンスウォーケン〔第一王子〕
ジフク・ハンスウォーケン〔第二王子〕
クリス・ハンスウォーケン〔第三王子〕
宮廷・騎士団関係:
リゼス・アンコベル〔首席女神官〕
アルドフ・ツァイコロフ〔宰相〕
アルドフ・ツァイコロフ〔騎士団長〕
マイヤー・オギリテ〔騎士団副団長〕
アリアン・レフォルト〔魔法騎士団長〕
カフス・フォンデシーン〔魔法騎士団副団長〕
ジュリエット・ナスタント〔初級神官〕
ダンブズ・ホークランド〔前大賢者〕
イレス・ヴォジリット〔メイド〕
リチャード・ディオジット公爵〔東方領地領主〕
主人公関係者:
天翔〔風間伊佐の騎乗馬〕
養女の庶民の女の子: アンナ
養子の庶民の男の子: ジェミット
他国・神・魔族
東方帝国 ロールス
南方王国 シーク
中土王国 プシス
中土王国 ウランクス
シドレフ・グランシス〔プシス国王〕
プシス公爵 ヒルトン・ヴァルキス
ウランクス公爵 ヴァキル・キルコフ
魔族将軍 クラシド
魔族魔法将軍 シフィス
神:
光の神 エリクス(エリクス)
大地の神 ディートラ(ディートラ)




