第83章:月夜の街-浮世仙月
翌日、風間伊佐は戦技訓練を終えた後、自室の扉口でアンナとジェミットを従え、イレスに声をかけた。
「イレス、陛下には、今日の食事はご一緒できないとお伝えください。それと、アンナとジェミットのこと、よろしく頼みます。」
「かしこまりました、勇者様。」
イレスは丁寧に頭を下げて答えた。
その答えを受けて、風間伊佐はアンナとジェミットに向き直った。
「夜には戻るから、それまでイレスの言うことをちゃんと聞くんだよ。いいね?」
「はい、マックスお兄ちゃん!」
二人は元気に声をそろえた。
アンナとジェミットに別れを告げた後、風間伊佐は王宮の門へと向かった。そこにはすでにケンが待っていた。
「お待ちしておりました、勇者様!」
ケンは伊佐に気づくと、軽く頭を下げながら大きな声で声をかけた。
「ケン、行こうか。」
そう言いながら、伊佐はケンの隣に並んだ。
二人は徒歩で王宮を後にし、街の通りへと進んでいった。夕闇が次第に街を包み、店々の灯火が一斉に灯り始める。その煌びやかな光景は、まるで幻想の絵巻が広がっているかのようだった。伊佐にとって、王都バスリグの夜の街を歩くのはこれが初めてだった。
道の両側からは食事と酒の香りが漂い、酒場からは陽気な笑い声が聞こえてくる。まさに王都の夜の繁華がそこにあった。
「ケン、ところで俺たちはどこに行くんだ?」
伊佐は疑問を口にした。
「それはね……行けば分かるさ。」
ケンはいたずらっぽく微笑んで答えた。
「その前に、何か食べておこうか? さっきまで訓練してたし、お腹が空いてるんだけど……」
「もうちょっとだけ我慢してください、勇者様。その先の店は、期待を裏切りませんから。」
ケンの言葉に、伊佐はお腹を押さえながら、仕方なく彼の後ろをついていった。
王宮を出てからおよそ三十分後、二人はまったく異なる一画に足を踏み入れた。空気には香水、酒、甘い化粧の香りが混じり合い、通りの建物は装飾が華やかに変わっていた。緋色や紫色の柔らかい光を放つ提灯が並び、妖しげに街並みを彩る。
聞こえてくるのも先ほどの陽気な笑いではなく、どこか艶めいた女たちの甘い囁き……そこは王都バスリグでも名高い男たちの楽園、『月夜の街』だった。
建物の前には絹や薄紗を大胆に纏う美女たちが立ち、白い肩と長い脚をあらわにして通行人に視線を送っている。伊佐とケンが通りかかると、その視線が二人に集中し、甘い声がかかった。
「お二人とも、とっても素敵なお客さま♡ ちょっとお休みしませんか? ママにお願いして特別割引もできるかも〜♪」
風間伊佐は、かつての世界でこのような場所の話を耳にしたことはあったが、それはあくまでドラマや記事の中の世界だった。実際に目にするのは初めてで、思わず目をそらし、足早に通り過ぎようとする。
一方、ケンは女たちの誘いにも一切動じず、慣れた様子で真っすぐ歩き続けた。
「いやはや、勇者様、こんなにウブだとは思いませんでしたよ」とケンは苦笑しつつ、伊佐の狼狽ぶりをからかった。
「まさか……ケン、お前が言ってた“息抜き”って、ここだったのか……」
伊佐は顔を伏せながら尋ねた。
「まさにその通りです。」
ケンはニヤリと笑い、低く囁いた。
「戦士の張り詰めた神経には、解放の場が要りますから。ここには、うまい飯、極上の酒、そして……すべてを忘れさせてくれる“癒し”がありますよ。」
その言葉に伊佐は無意識に顔を上げ、提灯が灯る幻想的な風景を見つめた。まるで異世界のようでもあった。
ケンの軽口に導かれるまま歩き続け、やがて二人は一軒の建物の前にたどり着いた。他の店のように艶やかだが、どこか品格もある佇まい。入口には「浮世仙月」と書かれた立派な看板が掲げられていた。
「さあ、勇者様。中へ入りましょう。」
「いや、今日は……遠慮しておくよ。改めて機会があれば……」
伊佐はそう言って踵を返そうとした。
しかしケンはすぐさま伊佐の肩を掴み、店の入口へと引き寄せた。
「せっかく来たのに、そんなにそっけなくされると寂しいですよ、勇者様!」
「ケン、やめてくれ! 俺、そういうのは――――!」
必死にもがく伊佐。
その時、ケンが声を張り上げた。
「おーい! お客様ですよー! お出迎え、お願いしまーす!」
すると四人の女性が店内から現れ、笑顔で二人に近寄ってきた。そして伊佐の両腕を、左右から柔らかく包むようにして掴んだ。
「まぁまぁ、ケン様じゃないですか〜♡」
「ちょっ……俺は違……」
伊佐は言い訳する間もなく、二人の女性に抱き寄せられた。
「この方、大事なお客様なんです。初めてだから、特別によろしくお願いしますね。」
「かしこまりました♡」
両側の女性はさらに密着し、伊佐の腕を優しく引っ張った。
「ま、待って……本当に結構ですから……!」
「お客様、初めては緊張されますよね。ご安心を、優しくご案内しますから♡」
女性たちに挟まれながら、伊佐はされるがまま店内へと引きずり込まれていった。
「お、おいケンっ! 本気でやめ――!」
「勇……じゃなかった、大人しくしてくださいね。さあ、楽しんでください。」
ケンは満足そうに笑って見送った。
その瞬間、店の入口から一人の男が放り出され、地面に大きく転げ落ちた。男は酔っぱらって顔を赤くしながら立ち上がり、怒鳴り声を上げた。
「てめぇらなんか、ただの娼婦だろうが! 俺は子爵家の次男なんだぞ、なめやがって!」
男――ロバートと呼ばれるその人物は、二人の用心棒に付き添われ、中年の豊満な女性と共に店から姿を現した。
「ロバート様、『浮世仙月』の規律をお忘れですか?」
その女性の声は冷たく穏やかで、反抗を許さぬ威厳を帯びていた。
「べ、別に無茶をしたわけじゃ……あの娘が酒を断っただけだ!」
ロバートは反論したが、すでにその気勢は消えていた。
女性は微笑みながら、言い放った。
「うちの娘たちは、お客様の心を癒すためにいるのです。無理強いされる酒の相手ではありません。お金と地位で一夜の夢は買えても、人としての尊厳までは手に入りませんよ。」
その言葉に合わせて、両脇の用心棒が一歩前に出る。張り詰めた緊張の前に、ロバートは驚き後退った。
「それでも騒ぎたいのなら、ご自宅まで“お送り”します。それと、子爵様に御子息の酒癖をお話ししなくてはなりませんね。」
「き、貴様ぁ……!」
怒りを噛みしめるロバートの声は弱々しく、覇気は消えていた。
「覚えておけ……!」
そう吐き捨てて、慌てて去っていった。
その一部始終を目にした風間伊佐は、茫然と立ち尽くした――まさか、遊郭がここまで毅然と貴族に対抗するとは、思いもしなかった。
騒ぎが収まると、中年の女性はくるりと振り返り、ケンと風間伊佐の二人に視線を向けた。さきほどまでの冷たい目つきは一転し、今は愛想よく微笑んでいる。
「やあ、ケン様、ようこそいらっしゃいました。こちらの方は?」
「このお方? 王城でもかなりの大物でね。丁重にもてなさないといけない方だよ」
「ほう……?」
中年の女性は鋭い目つきで風間伊佐をじろじろと観察した。
「えっと……何か?」
風間伊佐はその視線に耐えきれず、おずおずと声をかけた。
「あら、ご無礼を。まずはご挨拶を。私、この《浮世仙月》の女将、サブリナと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「どうも……私はカザ……いや、マイケルと申します。よろしく……」
咄嗟に本名を出しかけたが、風間伊佐は危機感を覚え、とっさに偽名を名乗った。
「マイケル様ですね、ようこそ。それでは、こちらでゆっくりとおくつろぎくださいませ」
「い、いや、その……」
風間伊佐が断ろうとするも、左右の女性たちに腕を取られ、ずるずると中へ連れ込まれてしまった。
その隙に、ケンがサブリナの耳元に囁いた。
「彼のご身分は、あなたの想像を遥かに超えている。くれぐれも、心を尽くしてもてなしてくれ」
「承知いたしました」
一礼したサブリナは、彼らを見送ったあと、階上へと向かっていった。どうやら自ら手配に動いたらしい。
そうして風間伊佐は、訳も分からないまま《浮世仙月》の座敷に通されることとなった。両脇には美しい女性がぴったりと寄り添い、彼の心拍数はうなぎ登りだった。
「さあ、お客様、一杯いかがですか?」
「お客様、こちらの果物もどうぞ」
両脇の女性がそれぞれ酒杯と果物を差し出し、風間伊佐の前に並べる。
「すみません、」
風間伊佐は一つ深呼吸して、できるだけ毅然とした口調で言った。
「僕、こういう場所に来るなんて思ってなくて……。無理にお構いなく、すぐに出ますから」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、ケンが口を開いた。
「まあまあ、お方様。せっかく来たんですから、少しくらい楽しんでいかれては?」
風間伊佐はついに堪えきれず、語気を強めた。
「ケン、君……ここがどういう場所か知っていて、連れてきたのか? 先に言ってくれていたら、絶対に来なかった!」
ケンの笑みが消え、酒を一気に飲み干すと、重々しく言った。
「言っていたら、あなたは来ましたか?」
風間伊佐の目をまっすぐ見つめながら、厳かな口調で続けた。
「昨日、墓地でのお顔……覚えていらっしゃいますか? まるで世界の罪を一身に背負っているような、そんな顔でしたよ」
「俺たちの苦しみ、覚悟……それを理解してくださったのはありがたい。でも、それは騎士の一面にすぎない。今からお見せするのは、もう一つの側面──『忘却』と『放縦』です」
「重荷を背負い続けていたら、人間は壊れる。心が、体より先に潰れてしまうんです」
その言葉は、まるで重い槌のように風間伊佐の胸に響いた。反論したいが、彼の理屈の中に、この世界独自の真理があるような気がして、言葉が出てこなかった。
気まずい空気を察したのか、隣の女性たちが慌てて話題を変える。
「お客様、お怒りにならないで。ケン様も、お客様のことを思って……」
「そうです。まずは一杯いかがですか? これは《浮世仙月》自慢の“忘憂酒”です。どんな悩みも、一時だけ忘れられると評判なんですよ」
しかし風間伊佐は酒杯を取らず、真剣な表情で言った。
「……とはいえ、君が僕をここに連れてきたのは間違いだと思う。僕は、知らない女性と……そういうことは……」
ケンはくすっと笑った。
「そうだ、言い忘れてましたが……ここでのサービスはすべて料金別です」
「え……?」
「つまり、酒と料理と会話だけでも、十分楽しめるってことですよ」
「……そういうことか」
風間伊佐の顔が一気に真っ赤になった。自分がとんでもない誤解をしていたことにようやく気づき、恥ずかしさで穴に入りたい気分だった。
「だから、肩の力を抜いて、美味しいものを食べて飲んで、ゆっくりしてくださいな」
ケンの言葉に、ようやく風間伊佐も安堵し、席に戻った。
「でも、お二人は……横にいなくても大丈夫ですよ。僕、一人で大丈夫ですから」
「もしかして、私たちが邪魔ですか?」
「お願いです、お客様。私たちをお側に置いてください。ノルマ達成しないと、ママに怒られてしまうんです……」
「怒られる……?」
「そうなんです。雑用させられたり、給料から引かれたりして……」
「だから、お客様、どうか、お願いします!」
「……」
「ねぇ、かわいそうだと思いません?」ケンがささやいた。
観念した風間伊佐は、小さく頷いた。
「……じゃあ、少しだけ。よろしくお願いします」
「ありがとうございますっ!」
「助かります、お客様!」
二人の女性は満面の笑みで再び寄り添い、酒や果物を差し出してくる。
「え、ちょっ、近すぎ……! 自分でやりますから……!」
「照れてる〜」
「ほんと、可愛い方ですね」
その後、風間伊佐は彼女たちに挟まれたまま、半ば流される形で酒と料理を口にし、やがて少しずつ緊張がほぐれていった。
どれほどの時間が経っただろうか。
そこへ、エリザベートと同じくらいの年頃の少女が現れ、風間伊佐の前に丁寧に頭を下げた。
「お客様、アスタルテ様がお呼びです」
「アスタルテ……?」
その名を聞いた瞬間、隣の二人の女性の顔がみるみる曇る。
「はぁ……また売上が……」
「仕方ないわ、行きましょ」
「え? どういうこと……?」
困惑する風間伊佐に、ケンが説明する。
「いやぁ、大当たりですよ、マイケル様。アスタルテ様は《浮世仙月》の一番の人気嬢。あの方に呼ばれるなんて、滅多にないんです」
二人の女性は名残惜しそうに立ち上がり、礼をして去っていく。
「それでは、どうぞアスタルテ様のおもてなしをご堪能ください」
「失礼いたします」
彼女たちが去った後、先ほどの少女が再び口を開いた。
「お客様、こちらへどうぞ」
風間伊佐は困惑した表情でケンの方を見た。
「ほら、行ってきなよ。こんな機会、そうそうないんだから」
杯を軽く掲げるケンを横目に、風間伊佐は少女のあとを追って、階上の奥──より神秘的な空間へと足を踏み入れていった。
アリアン(Arian):
主人公と仲間:
風間 伊佐〔MAX〕
リック(Rick)
エマ(Emma)
レイチェル(Rachel)
世界・国家:
休ジェスト(ヒューゲスト)〔世界名〕
アレクス王国
王族・王宮関係者:
シャルルマン・ハンスウォーケン〔国王〕
エリザベート・ハンスウォーケン〔王女〕
ウォリック・ハンスウォーケン〔第一王子〕
ジフク・ハンスウォーケン〔第二王子〕
クリス・ハンスウォーケン〔第三王子〕
宮廷・騎士団関係:
リゼス・アンコベル〔首席女神官〕
アルドフ・ツァイコロフ〔宰相〕
アーサー・リチャード〔騎士団長〕
マイヤー・オギリテ〔騎士団副団長〕
アリアン・レフォルト〔魔法騎士団長〕
カフス・フォンデシーン〔魔法騎士団副団長〕
ジュリエット・ナスタント〔初級神官〕
ダンブズ・ホークランド〔前大賢者〕
イレス・ヴォジリット〔メイド〕
リチャード・ディオジット公爵〔東方領地領主〕
主人公関係者:
天翔〔風間伊佐の騎乗馬〕
養女の庶民の女の子: アンナ
養子の庶民の男の子: ジェミット
浮世仙月の花魁: アスタルテ
他国・神・魔族
東方帝国 ロールス
南方王国 シーク
中土王国 プシス
中土王国 ウランクス
シドレフ・グランシス〔プシス国王〕
プシス公爵 ヒルトン・ヴァルキス
ウランクス公爵 ヴァキル・キルコフ
魔族将軍 クラシド
魔族魔法将軍 シフィス
神:
光の神 エリクス(エリクス)
大地の神 ディートラ(ディートラ)




