【136】私の好きな人
私にしては珍しく、今日は女子部屋の誰よりも早く目が覚めた。布団をしっかりかけていたのに、なぜか寒気がしたのだ。カーテンの隙間から差す光はまだ淡く、薄暗い。
暇だから、二段ベッドの下にいる知華子の寝顔を覗こうと思った。あわよくば布団に入り込みたい。彼女を抱き枕にして、うなじの匂いを嗅ぎたい。たぶん怒られるが、そこは寝ぼけたふりで押し切る。私が朝弱いということは、修学旅行のときに分かっているはずだし、彼女は優しいからなんだかんだ許してくれるだろう。
「……?」
いない。布団やシーツ、枕が綺麗に整頓されているが、肝心の知華子はそこにいなかった。はしごを下りて、部屋を見渡すがやはりいない。お手洗いだろうか。
月咲の静かな寝息と、名波の低音のいびきが交互に鳴っている。雲藤はいびきこそかかないが寝相が悪く、柵の上に片脚を乗せていた。しかも、赤子みたいに腕を万歳しており、寝間着がめくれ上がっていた。お腹はもちろん、水色の下着もはみ出していてだらしない。
ちなみに雲藤の下は新妻のベッドだが、彼女はラヴィニアさんと行動を共にしており、今はいない。
一昨日の作戦会議から、二人は麦嶋勇探しに明け暮れている。魔界やモレットなど彼がこれまでに立ち寄ったであろう場所を当たっているようだ。一方で、やはり私は効率が悪いと考え、二人とは別行動で記憶を消した犯人を探っていた。
と言っても、昨日は結局、新妻たちも私も、なんの手掛かりも得られなかった。また何もない一日をこの異世界で過ごしてしまったのだ。
寝間着からいつものセーラー服に着替えて、白の運動靴を履く。なんだかじっとしていられなくて、わけもなく部屋を出た。
そうだ。私たちはもっと焦るべきなのだ。
ヴェノムギアが死んで、みんなが一堂に会し、エリーゼさんもいる今、私たちはどこか気が抜けてしまっている。しかし、まだここは異世界だ。みんなで生き残って家に帰るまで、私たちは助かっていない。
「──」
リビングへと繋がる廊下を歩いていたら外から物音がした。ザッザッという誰かの足音。音はログハウスのすぐ隣で止まり、続けて小屋の扉が開かれる音を耳にする。
「……アダムさん?」
足早にリビングの窓際へと向かい、カーテンを少し開けて外を覗く。ちらりと、おさげの黒髪が見えた。
あの髪型、あのキューティクル……知華子だ。
小屋の先の階段を降りると地下室があって、そこでアダムさんが桃山たちの蘇生をしている。
たぶん様子を見に行ったのだろう。彼女のことだ。みんなを心配して──
「おいっす!」
「きゃっ!?」
後ろから肩を叩かれた。心臓が止まるかと思うくらい驚いて、窓に頭を軽くぶつけてしまう。
「あ、わりぃ……脅かすつもりは」
神白だった。黒いランニングシャツを着て、筋肉質な腕をこちらに伸ばしていた。大分ラフな格好で、それが余計に私の神経を逆撫でした。
「何!?」
「いや、おはよう!」
「……」
驚きと苛立ちで挨拶を返すのを忘れているうちに、神白がカーテンを全開にし、窓も開けた。
「七原が早起きなんて珍しいな。今から翠斗とランニングすっけど一緒に行くか!?」
「……行かない」
なんとなく地下室に向かった知華子に気づかれてはいけない気がして声を抑える。
「あ? なんて? 腹から声出せよ! おまえな、朝からそんなんで最高の一日を始められるとでも──」
やかましいので『7』で神白の声量を七デシベルにした。
知華子の行動が少し気になる。ただの気まぐれという可能性もあるが、私の直感はそうでないと言っていた。第一、こんな朝早くに地下室へ立ち寄る意味が分からない。死体を扱うということで、アダムさんからも勝手に立ち入るなと忠告されているし、彼だって籠って作業しているわけではない。定期的に表へ出てきて進捗を教えてくれる。こちらから出向く必要なんてないはずだ。胸騒ぎがする。
あたふたしている神白を押しのけ、外へと繋がる木造の玄関扉に手をかけた。『7』を解除し、彼に指示を出す。
「神白。三分以内に私が戻って来なかったら、全員起こしてここから逃げて」
「──は!? なんでだ!?」
「いいから!」
そうして私はログハウスを飛び出した。
真っすぐ小屋へと向かい、戸を開け、階段を駆け降りていく。
声がする。二人の声だ。
踊り場を曲がった先。階下にある扉の向こうから聞こえる。
一度立ち止まり、足音を抑えながらゆっくり降りていくと、その声も段々聞こえやすくなる。
低い男性の声と、聞き慣れた女子の声。しかし、女子のほうはやけに冷たく感じて、そんなはずはないのに、知らない人のように思えた。
「──そう何度も──されては」
「──は?」
「──だって──じゃないですか? スキルの──ことになりますし。ただまぁ────なんて、無駄口を叩いてみたり」
気づけば、私は扉の前にいて、そのドアノブを捻っていた。思いのほか、躊躇いはなかった。
どんな最悪の可能性も、拭いきれない違和感も、彼女の顔を見れば払拭できると思った。
だって、扉の向こう側にいるのは知華子だから──
「──!?」
アダムさんが血だまりの上に倒れていた。
その前にはセーラー服を着た私の親友がいて、ただ一人立ち尽くしているかと思えば、しなやかな白い腕を伸ばし、アダムさんに手をかざしたのだった。
「……何やってるの……知華子?」
こちらに背を向けたまま、彼女は顔を上げ、溜息をついた。
「……」
「何してるの? ねぇ?」
彼女がこちらを向く。怯えた顔をしていて、それがいつもの知華子のように思えて、私は安堵してしまう。
「違うの! 私、私ね──」
瞬間、彼女はこちらに手をかざし黄色の魔法陣を展開した。エリーゼさんみたいなスピードだった。
何も見えなかったが、何かが飛んできて私の胸に当たった。というか貫かれた。
「──今日でロワイアルゲームを終わらせようと思います」
「う……!?」
何、今の口調? 知華子じゃない? でも、見た目は間違いなく知華子だ。しかも、ロワイアルゲームを終わらせるって? まだ終わっていなかった? ヴェノムギアは死んでない?
思考を巡らしているうちに、自分が致命的なダメージを負っていることに気づいた。意識した途端、耐えがたい激痛が走り、立っていることもままならなくなる。そうしてまた何か魔法を撃たれて──
「────っ!」
一度力尽きるが、私はすぐに体を起こしてカードを構える。
私の復活に気づいた知華子が、鋭い視線を向けてくる。
「あぁ、七原さ……茜ちゃんってスキルで残機増やしてるんだっけ?」
「知華子……どうして!? どうしてこんなことするの!?」
やはりどう見ても知華子だ。いつも自然に目で追っていた人。身長は低めで華奢に見えるけど、私より丸みを帯びているというか女の子っぽい体つきをしていて抱きしめたくなる。クリクリした瞳は黒く大きく、肌は透き通るように白い。低めの位置で結んだツインテールは、彼女の真面目な性格を表すように左右対称で高さはいつも同じだ。
私の目に狂いはない。今ここにいるのは私の親友で、私の好きな人……李知華子だ。
膝に手をついて立ちあがり、一歩一歩彼女へと近づいていく。
「何かされたの? エラーコードかなんかに……操られてるみたいな? 分からないけど……でも、知華子に変わりはないよね? それだけは分かるよ」
「…………」
彼女は時折、ぞっとするほど静寂に浸っていることがある。思えば、あれは彼女の抱える闇が垣間見えたときだったのだろう。最愛の姉と、信頼していた仲間たちを殺されて正気でいられる道理はない。彼女はずっと一人で戦っていた。
「知華子も私のこと分かるよね? 茜……七原茜だよ?」
知華子がほんの少し目を見開いた。
彼女は分かりやすい。びっくりしたとき、嘘をついたときは特に。私がそれをからかうと、これまた分かりやすくムッとする。そんな彼女と一緒にいるのが楽しくて、灰色で重苦しい私の世界が彩られるようだった。
「大丈夫……大丈夫だから。一緒に帰ろう? みんなで地球に」
彼女の手を取り、ぎゅっと握り締める。すると、こちらを見つめる彼女の表情が少し柔らかくなり、瞳からツーっと涙がこぼれていった。
事故で両親を失った私の身の上を話したときも、彼女はこんな顔をしていた。
あれは知華子が転校してきて間もない頃で、私も叔母の家に引きこもっていた時期だった。そんな私のもとへ、ろくに知りもしない転校生が毎日ノートやらプリントやらを渡しに来るのものだから、痛い子なんだと思って邪険にしていた。それにもかかわらず、友人の家に遊びに来たかのような明るい笑顔で懲りずにやってくるので、ついに私はドアホンのモニターを切り、一度面と向かって嫌味でも言ってやろうと玄関を開けたのだった──
思えばあれは、私たちが次のロワイアルゲームの標的だと分かった上での行動だったのだろう。ヴェノムギアに対抗するため、彼女は必死に私たちをまとめ、繋ぎ止めようとしたのだ。
私もまんまと丸め込まれてしまった。いつしか、玄関先での彼女との立ち話を待ちわびている自分がいた。
一ヵ月とかからず私はすっかり心を許していて、自室にまで彼女を招き入れ、身の上話もしていた。
私の話に彼女はこれでもかというほど号泣していたが、もしかしたら自身の過去と重ねていたのかもしれない。
私も私で、両親を失って以降初めて誰かと心が通じ合ったような気がして、たぶんそのときから彼女に惹かれていたのだと思う。
「あか……茜ちゃんっ……」
知華子の目に光が戻ったような気がした。絞り出したかのような、か細い声を上げて、彼女は私の胸に飛び込んでくる。助けを懇願するかのような抱擁で、私も堪らず強く抱きしめた。
その瞬間、強張り、震えていた彼女の体が急に脱力した。
それはまるで魂が抜けるかのような奇怪な反応で、安堵によるものではないとすぐ察した。続けざまに、体の芯が熱くなるような冷たくなるような、激しい衝撃と痛みを覚えたのだった。
「う……あぁ……」
胸から何かが引き抜かれ、私はろくに声も上げられぬまま崩れ落ちた。眼前には、右腕を真っ赤な血で染めた知華子が立っていて、もう片方の手には私のカードがあった。
「カードがあれば、『7』も解除できるみたいですね。良かったです。手間が省けて」
この口調。そうか。そういうことか──
薄れゆく意識の中で、私はあの友人のことを思い出した。顔はまだ思い出せない。それでも彼が前に言っていた、ヴェノムギアの能力に関する話が脳裏をよぎる。
ヴェノムギアは殺せない──迷宮深部にあった過去の映像でエラーコードが言っていた言葉は真実だった。
ロワイアルゲームはまだ終わっていなかったのだ。あいつは知華子を──
しかし、再起する気力なんか残ってなくて、私はただ目を閉じた。
知華子。ごめんね。助けてあげられなくて、ごめんね────