【123】夢と現実の狭間で
夢と現実の境界線が曖昧になって、自分が何をしていたのか分からなくなるときがある。要するに寝ぼけているわけだが、その現象は日の落ちてきた時間帯に起こりやすい。原因は単純な疲労か、退屈な授業か、はたまた夕暮れ時のノスタルジーか。なんにせよ、あまり良い兆候ではない気がする。俺にはもっとすべきことがあったような──
「──ここの係数が偶数だと、いつもの公式も簡略化できるわけだ。入試は時間との勝負でもあるからな。省けるとこは省いて楽してけ~」
“入試”というリアリティ極まりない言葉によって、俺は夢と現実の狭間から脱した。
六時間目の数学だった。残り十分。いや、七分ほどで終わりのチャイムが鳴る。窓の外はすでにちょっと暗くなっていた。以前よりも日が短くなった気がする。
「それじゃあ……麦嶋! ここの答えは?」
それじゃあってなんだよ。俺しかいないだろ。
「全部三」
「なんじゃそりゃ?」
太った若めの男教師が白チョークの動きを止めて振り返る。
「三分のマイナス三プラマイルート三です」
「あぁそうだよ。ちゃんと答えろ、ふざけんな」
「あい」
「んじゃ次。田中。解けるか?」
田中? 誰?
先生の視線の先は俺の右隣に向いている。広い教室にぽつんと置かれた俺の席から右へ数メートル離れた位置。そこには黒髪ロングの女子がいた。絵画から飛び出してきたかのような美少女であり目を奪われてしまう。
その視線に気づいた彼女はこちらを見て微笑み、俺は咄嗟に目を伏せた。
そうだ。田中……田中実さんだ。なんで忘れてたんだ。どうやら俺はまだ狭間にいたようだ。
「解けない」
田中さんは先生の方へ向き直り、悪びれることも恥じることもなくそう答えた。
なんだこいつ。
「解けないんじゃあ困る。もう十月も終わるぞ?」
「……」
彼女は唯一のクラスメイトだった。俺が転校してきた小春空中学はやけに過疎っている。一年と二年は三十人前後しかおらず、何より深刻なのはこの三年一組だ。俺が転校してくるまで田中さん一人だけだったらしい。学校側もさすがに通学区域の見直しなど検討しているようだ。
「──というわけだ。難しくないだろ田中? 数学が苦手なのはいいとして、考える前に諦めちゃうのはよくない」
六時間目終了のチャイムが鳴った。先生は黒板を消しながら、不真面目な田中さんにいくつか小言を言い、そして教室を後にした。その間、田中さんは姿勢正しく凛としていたが、話を聞いてるんだかなんだか分からない澄ました表情だった。
先生がいなくなるやいなや、彼女はまたこっちを見てくる。
俺は得体のしれない不気味さを感じながらも、同時に彼女のノートが真っ白であることに気づいた。ただのポンコツなのかもしれない。
「田中さんってスポーツ推薦かなんか受ける人?」
「ん?」
大人びた雰囲気の女子が子犬みたく首を傾げたものだから萌えてしまった……だが“スポーツ推薦”というワードがまったくピンと来ていないらしく、萌えより心配が勝る。
「いや……田中さんって全然真面目に授業受けてないから、スポーツがめちゃくちゃ得意でそっち方面で高校受験するのかなって」
「高校受験……高校受験ね。うふふ」
なぜ笑う? 何も面白くないが。
「ねぇ麦嶋君。今度二人でどっか出かけない?」
「えぇ?」
「今週の土曜日にしましょ」
「待て。出かけねーよ」
「どうして?」
どうしてもこうしても受験生だからだ、と言いたいところだが彼女にその理屈は通らない気がした。
「その日は……塾があるからぁ」
「夜からでしょう。お昼は暇なはずよ」
なんで知ってんだよ。前に話したか?
すると、彼女は机をこちらに寄せてきて、俺の机とぴったりくっつける。
近い。彼女の長く綺麗な黒髪が揺れ、俺の肩に当たった。ただ、これだけ接近しているというのに女子特有の匂いなど皆無で、そこに存在しているのかも疑わしいほど彼女は無臭であった。
「私、動物園に行きたいわ」
「動物園んん~?」
「そう……あ、でも麦嶋君とならどこでもいいわ。世のカップルが言うには“どこに行くか”より“誰と行くか”のほうが重要なんでしょう?」
「カップルはそうかもな。でも、俺たちは──」
彼女の不可解な言動を否定しようとしたところ、これまで培ってきた常識を覆されて上書きされるような感覚を覚えた。
「どうしたの?」
気づけば、俺の太ももに彼女の手がそっと置かれていた。冷たい体温がスラックス越しに伝わってくる。
「俺たちはカップル……か」
なんだって今日はこんなに寝ぼけてるんだ。そうだった。俺は田中さんと付き合ってるんだ。転校してお互い一目惚れして毎日顔を合わしているうちに惹かれ合って、初デートの水族館の帰り、俺から告白してオッケーをもらったんだ。
「もう……今さら改めて言わなくっても分かるわよ」
田中さんはいじらしく顔を赤らめた。
しかし、なんだこの胸騒ぎは。ときめきとはまた違う。まるで悪夢から醒めたときのようだ。いや、それとも俺はまだ──
「じゃ決まりね? 土曜日、動物園行こ」
彼女は置いていた手を撫でるように動かし、今度は手を握ってくる。すると、また醒めるような感覚を覚えて、俺の思考は混濁した。動悸も不思議と収まった。
「分かった。行こうか動物園」