33
「もちろん、ここに残るわよ。だって外は危ないもの」
私は答えながら、窓に近づいた。
三階建ての宿の二階。高台にある宿からの景色は、たとえ二階からでも町並みを見下ろせる。晴れた日には遠くキンリ山脈を望めるらしい。といっても美しい景色も、今の私には無意味。
けれども、まったく見えないともなると、話は違ってくる。
「どうして?」
窓の外は景色がけぶり、視界が悪い。さっきまではそんな事なかったのに。
背中がゾワリとした。
私が仕掛けたのは爆発もせず、煙だけが濛々と立ち上がるものだったはず。
もしかして間違えた?ドキドキしながら、記憶をたどる。
演習に参加した時使用する爆薬をくすねて、夜寝不足になりながら作ったのは、今より幾分か昔の事で、使わないとしまい込んだのを取り出したのは、昨日の夜だ。
ここに来る途中、ジージールの耳元に小声でささやきながら彼の注意を逸らし、地面に落とした。その後、体の向きを変えながら、こっそりと足で踏みつければ準備は完了。時間が来ればごく少量の煙だけが出てくる。けれど、それだけ。
目に見える火も煙のほとんども魔法で見せている幻覚。多少混乱するだろうけれど、持続時間もほんの数分間の代物。
ジージールならきっと一目で見破る。彼にとったら子供騙しな魔法具のはず……だと思っていたのに。
「これって、まさか本物の煙?」
もしかして火薬の分量を間違えた?それとも、こっそり読んだ本の記憶を頼りに作ったから、魔法式を書き間違えたとか? けれど、もしそうなら……
本当なら、私はアートを拘束したままジージールを外に追い出し、その隙に外へ逃げるつもりだった。
誰の手の届かない場所へ。誰も知らない私になって、本当に自由になるの。
私だってそのくらい望んだって良いじゃない。
これまでずっと我慢してきた。
姫として求められる姿を保ってきた。国の為、お父様とお母様の為。
だからもう良いでしょ?好きなように生きてみたって良いでしょ…………って、そう思ってしまったの。
大変な事をしてしまったわ。
私は窓にかぶりついて身をのりだし、外に出ようとした、その刹那、視界の端に暗い影が私を目掛け伸びてきたのを捉えた。
ゾワリと肌を撫でる殺気に、私は咄嗟に窓から飛びのき距離を取る。向けられた、白く光る刃に気が付いたのはその後だ。
魔獣と対峙した時、一瞬の判断が生死を分けるなんて、よく聞く話だ。
私も咄嗟の場合に生き残れるよう、繰り返し訓練を積んできた。体に染みつく程、繰り返し、何度も、無意識に体が動くようになるまで。
私の体は飛び退きながら、全身に魔力を巡らせ、腰に手を当てた。武器を取る為だ。
染みついた習慣から戦闘態勢に入ったのだけど、いつもならそこにあるはずの愛用の武器がない。
当然よね。私は今、町娘に扮しているのだから、それらしく見える様に、武器は隠してあった。
一瞬の判断が生死を分ける。生き残った人達はそう口にする。
あの時、後一歩でも前に踏み出していたら、咄嗟に逃げていなければ、諦めず刃を振るっていなければ、自分はあの時きっと死んでいた。
私も同じ。
もしも不用意に窓に近づかなければ、武器をいつもの場所に仕込んでいたら、きっと追い詰められる事はなかったはず。
私の脳裏を死が過る。けれど、私はまだ死んでいない。私はまだ、足掻けるはずだ。
侵入者の腕がしなり、私に向けて振るわれる。体が硬化した今の状態なら、少なくとも致命傷にはならないはず。攻撃してきたところを捕えれば、付け入る隙もある。
私はある程度の怪我を覚悟し、痛みに備え歯を食いしばった。けれども、予想に反して刃は私に届かなかった。
――バキッ!――
突然侵入者が椅子で殴られ、態勢を崩した。よろめいた所に、至近距離で放たれた魔法弾が頬骨を砕く。
「え?」
「大丈夫か!?」
歯を見せ食いしばる彼は、興奮して息が荒い。彼の手と足に縛り付けられたままの椅子が折れている。
剣の打ち合いをあんなに怖がっていたのに。戦闘には慣れていないのかと思っていたのに。
こんな時は来ちゃうのね。
「あ、あり……」
一応助けてくれたのだから、憎い相手でもお礼を言わなくてはね。姫として以前に、人として当然言うべきよね?
これだけ王子に対して嫌悪感を持っていても、私を助けてくれたアートを格好良かったとか思ってしまうし、ドキドキしてしまう。
それともこれが、吊り橋効果とかいうやつで、惚れ直したとか、そんなのではないのかしら。
でも、どっちにしたって、どうでも良いことよね。
「……あ、ありが」
どうでも良いの。けれど素直にお礼の言葉が出てこない。そうこうしている内に、今度は部屋のドアから新たな侵入者が現れた。
ジージール? 本当に結界を張ったのよね?
それにしてはポンポン侵入者が入って来すぎじゃないかしら? 後で覚えてらっしゃい。
新たな侵入者は、床で伸びてる彼と同じく暗い色の装束に身を包んでいる。
ドアに背を向けるアートでは、たぶん間に合わない。
今度は大丈夫。間違えないわ。
幸いにも侵入者は、倒れている仲間を見て、一瞬動きが止まった。
また、室内に二人もいるものだから、どちらが私か判断する時間もかかってしまった。
とはいえ、一秒にも満たない程のわずかな時間だった。
その僅かな時間が、私に床を蹴り一足飛びで侵入者の足元に潜り込み、腹部分のたわんだ服を掴むだけの隙を生んだ。
侵入者が息をのんだ次の瞬間、私の小さな拳は、その細腕には似つかわしくない力で、腹の急所を抉る。
侵入者が潰れたアヒルの様な声で呻き、床に崩れ落ちた。
「そんな……馬鹿な……」
あなた方私を舐めていたのね。
表に殆ど出ず大事にされているお姫様だって、世間の評判を信じてくれて、侮ってくれてありがとう。
「すげぇ……」
杖を構えたものの、何もできず固まったまま、アートが思わず零した呟きは、床で悶える彼と同じ感情が見え隠れする。
私は胸の前で腕を組み胸を張った。
「だから言ったでしょう?私、体力には自信があるのよ?」
だから山道を行くくらいわけないの。自信たっぷりに言い放つ。今と何の関係があるのかと言われれば、それで終わりだった。
けれど、アートは一瞬キョトンとした後に、目を瞬き、
「ふ、ふふっ……」
笑った。あの日みたいに笑った。
「すごいな。はははっ……そりゃ山道も付いていくって言うはずだ。あの時は断って悪かったよ」
「そうよ。私ちょっとすごいの」
そうよね、あれから一か月とちょっとしか経っていないもの。変わっているはずがないのよね。
「ふふっ……ふふ……」
私もつられて笑う。
かわってしまったのは、私だけ。認めたくないけれど、これが現実なのよね。




