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18

 私はしばらくの間訓練の様子を、というよりは訓練を見守る彼の姿をぼんやりと眺めていた。

 これまでは恋人の付き人であるアートに対して、人目を気にして目を合わせず、素っ気ない態度しか取れなかった。

 それがどうして。今は、私とネイノーシュの延長線上に立っている彼を、どれだけ見つめてもバレるリスクは低い。


 だからといって、特に何かを考えていたわけでもないけれど、私はアートから目を離せずにいた。


 ただ、ぼんやりしすぎて、今がどういう状況にあるのかすっかり忘れてしまっていて、それどころか、明らかな異変すら見えていなかったのだから、私の浮かれ具合も相当なものだ。


 

 私が異変に気が付いたのは、一度休憩を挟もうというのか、ネイノーシュがアートの傍へやってきて剣を渡した時だった。

 それをアートは受け取るだけれど、重そうに抱え一歩後ろによろめいた気がして、私は思わず彼の名前を口に出してしまいそうになった。



「アー…………!?」



 ネイノーシュを眺めていて、違う男の名前を呼ぶなど失態もいいところだけれど、問題はそこじゃない。

 気が付けば、部屋には煙が立ち込め、焦げ臭さが鼻につく。

 運が悪いのか何なのか、この時の私は本当におかしかった。本来なら、すぐに窓を開け助けを呼ぶべきだった。けれども、私は未だ正気じゃなかった。


――このまま逃げるのはお父様とお母様にとって、良いことなんだろうか――



 一瞬過ってしまった考えは、私の動きを止め、思考をさらに鈍らせた。



――私の役目は一体何か?――



 私の中で、過去の記憶が問いかける。



――姫の役目は国王の敵をおびき寄せ捕まえる為のエサになる事――



 いつだったか、お父様とお母様が私を憐れんで、そんな役目を担う必要はもうないと言ってくれたけれど、本心では真逆の事を思っていると()()()()()()()



 他ならぬお父様とお母様が望んでいる。この事が私をこの場に踏み留まらせた。



 さほど広くない部屋で、扉はすぐそこで、手の届く所にあるのに、どうしても体が動かない。苦しくて涙で視界が滲む。


 その時だ。突然誰かが怒鳴った。



「何をぼさっとしてる!逃げるぞ!」



 怒鳴り声がしたのと同時に、私は顔に冷たく柔らかな物を押し当てられた。私は咄嗟に息を止め、顔を逸らした。



「落ち着けって、俺だ!」



 頭には大きくカールした二本の角。緩くウェーブのかかった黒髪に黒い瞳を持つが、珍しい事に彼はカラスではない羊人だ。なので、もちろん魔力の扱いにも長けている。


 私は耳に馴染んだその声に抵抗を止め、体の力を抜いた。


 顔に押し当てられたのは、煙を吸わない様にするための”ケムリん”というスライム状の道具だった。スライムに見えてその実、空気を含み、吸い込んだ毒素を吸収してくれる便利な道具だ。もちろん私も常に持っている。多分これはジージールの物だろう。



「ジージール?どうして……」



「どうしては……ゴホッ…こっちのセリフだ……とにかく、でっ……出るぞ」



「ええ……」



 ジージールは自分のケムリんを私に渡したせいで、自分は呼吸ができず苦し気にしている。それでも彼は私を優先する。

 ジージールはマンナの息子で私の乳兄妹で、常に張り付いている守ってくれる護衛の一人。これが私が多少の無茶を押し通しても、マンナが無言で引いてくれる理由だ。


 ジージールに手を引かれ部屋の外へ、本館との連絡通路に出る。部屋を出る前、ジージールは床に落ちていたドアノブを拾うと窓に向かって投げ付けた。

 派手な音と共にガラスが割れる。



「どうして?!」



 ガラスが割れた音は、訓練場にいる兵士たちにも聞こえたはずだ。人が集まれば、巻いた種に食いついた獲物に逃げられるのは必須。そんな事はジージールだった分かっているはず。それなのにどうして。

 私の疑問にジージールは睨み返した。



「どうしてすぐに逃げなかった!?」



「だって……もしアレだったらって……」



 誰かに聞かれても困るので、私は小声で返した。



「だったらなおさらだ!逃げてくれよ!」



 実は護衛よりも重要な役目を担う彼らが、私に姿を見せるのはめったにない。彼らはエサに釣られてやって来たハエを捕えるのが仕事だ。

 ハエに罠と知られない為にも、エサは自分自身で火の粉を払わなければならなかった。

 煙で喉を傷めたのか、ジージールが激しく咳き込んだ。確かにこれでは、ハエを捕えるのは難しい。



「そう、だったわね。ごめんなさい。私が……ダメにしちゃった」



 私は持っていた自分の新しいケムリんを、ジージールの顔に押し当てた。少しでもジージールが楽になればと思っての事だったが、それがジージールは気に入らなかったようだ。

 シージールは私を通路の壁に預け、ケムリんを私の顔に押し当てる。



「俺が言いたいのはそういう事じゃなくて!いや、合ってはいるけど、全然違う!これは俺よりもお前に必要なものだ。どれだけの時間、煙の中で突っ立ってたと思ってんだ!妙な臭いもしてたし、普通の火事じゃねえよ。頼むからもっと自分を大事にしろ!」



「…………ごめんなさい」



「あ゛ぁ?」



 これも気に入らなかったみたい。謝って欲しい訳じゃない。いつだったか、そう言われた事があったわね。



「ジージール、ありがと」



「おう。ったく、昔っから世話の焼ける奴だよ、お前は」



 私に対してこんな言葉使いで。マンナに知られたらジージールはきっと叱られるわね。でもその笑い方、昔に戻ったみたいで懐かしいな。



「そこで何をしている!?」



 誰かが叫んだ。叫んだ彼は間違いなくジージールを見ている。



「人が来たか。ま、当然だな」



 人が集まるように、ワザとガラスを割ったのだから。


 私と向かい合っているジージールは、まだ顔を見られていない。



「無茶はするな」

 


 一言だけ残し、ジージールは文字通り、スゥーッと姿を消した。


 

 

 

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