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「ねえ、ネノス?あなた、私を木の上から抱き留めた時、私の正体知ってましたの?」
準備をしている様子を眺めながら、唐突に、私はネイノーシュに尋ねた。
ネイノーシュが一瞬言葉に詰まり、周囲を確認してから
「いいえ」
と答える。
「気付……覚えていらしたのですね。初めて会った日の事。忘れらてれいるのかと思いました」
後ろからハッと息を飲む音が聞こえてきた。
ネイノーシュにも聞こえたはずだが、澄まし顔のまま私を見ている。もちろん私も聞こえなかった振りをして、ネイノーシュに微笑みかけた。
「あの時の貴方のたくましい胸の中を、忘れろなんてほうが無理ですことよ?あれはどんなご婦人方でも虜になってしまいますわ」
「……貴方もですか?」
「まあ、恋人に対して、それは愚問ではなくて?」
「失礼致しました。木の上から飛び降りたアイナ様はまるで天使のようで、あの時から私は、貴方の虜になったのでございます」
「ほ……」
本気で言っているの? 言いかけて、それこそ愚問であると気がついた。
ここにいる以上、彼は恋人が演技であることを了承しているはずだ。
そうでなければ、こんな事を言うはずがない。あの時の彼からは、今の歯の浮いたセリフを言うような印象を受けなかった。彼はどちらかというと、アートに抱いた印象と似ていると感じた。
そういえば、あの時始めに私を見つけたのはアートだったわね。口を開いたままポカンとして、私を見上げる彼を思い出し、あの時の羞恥心が蘇り、私は持っている扇子で軽く顔を仰ぐ。
「そ、そういえば、あの時もご兄弟と一緒でしたわよね?」
いくら演技のためでも、これ以上の賛辞は、虫酸が走るというものだ。これ以上はいらない。私は本来の目的を思い出し、彼の兄弟の話題を振った。
「はい、皆私の弟たちです」
ネノスが優しく微笑む。それだけで彼が兄弟思いの人間であるとわかるが、私は堪らなく嫌な気持ちになった。
そこに私がいるはずなのに、と思い浮かべた情景に、私はふと違和感を覚えた。だが、その正体が何だったのか、気が付く前に会話が進んでいく。
「三人兄弟ですのね。兄弟がおりますといつも楽しいのでしょうね。あの時も微笑ましく思っておりました」
「あの時は弟共々ご無礼を働きまして、申し訳ございません。それに本当は六人兄弟なのです」
「まあ、六人も弟が!?」
「ふふっ……六人ではなく、五人ですよ。私を抜き忘れております。それに末は妹です」
「あら?そうですわね。私ったら、ついうっかり。久しぶりにあなたに会えて、浮かれすぎてるのですわね」
私は表面は無邪気な笑みを浮かべながら、頭では全く別の事を考えてた。
確か妹は9歳だったはず。《末が》というのなら、他は男だけという事になる。
私と王子が16歳で、六人兄弟であるなら年子か二つ違い。どちらかといえば可能の範囲だけれど、王子を預かる身でそんな事するかしら。
私なら王子を預かる以上リスクを増やしたくないと考える。子供を作るにしても、王子がある程度大きくなってから。
でも、これはあくまでも私の想像だ。
私が世間とずれている自覚はある。王子という存在が、私が思うより軽いという場合も考えられるから……
「アイナ様?どうかなさいましたか?」
澄んだ空色の瞳が私を覗き込み、名前を呼んだ。黙った私を訝しんでいるのか、ネイノーシュが眉をしかめた。
「あぁ……」
途端、ずれていたものがピタリとはまり、私は矛盾に気が付いた。
王子なら私と同い年のはずだし、ネノスはどう見たって立派に成長した青年だ。それに、彼の目はお父様とちっとも似ていないし、お母様の物とも違う。
私のネノスに対する第一印象は《とても親しみを覚える顔立ち》だった。彼の顔は毎日必ず見る、見知った顔によく似ているのだ。
ああ、そういう事…………このネイノーシュが私の兄弟なのね。
私はゾクリとした。
気付いてしまった瞬間、いつくもの可能性が見え、恐ろしい気持ちになったからかもしれない。泣きはしなかったが、この時私は、本当は泣きたかったのだと思う。
「いえ……ちょっと、立ち眩みをしただけですわ。心配いりません」
彼らに気付かれてはいけない。私は咄嗟にそう思った。
だってそうでしょう。グレンウィル家は偽物を寄こしたのだ。目的は何かは知らないけれど、王家に対する謀反の可能性だってあるのだ。
「そう……でございますか?」
納得していない様子のネイノーシュの後ろで、静かに控えるアートが、不躾なくらい私を見ていた。
彼の視線が熱くて痛い。
心臓が嫌な音を立て、嫌に苦しく感じるのは決して気のせいではないはずだ。
視界から外そうとすればするほど、彼が気になってしかなかったし、意識したくないと理性で拒否しても、心がどうしようもなく喜んだ。
だからこそ、私は、彼をまっすぐ見てはいけない気がした。
「何ともないご様子ではございませんね。やはり部屋でお休みになられた方が……」
私は首を横に振った。
「なら、少しお待ちください。せめて椅子をお持ちしましょう」
そう言ってネイノーシュが離れた後だった。
ネイノーシュがマンナに声を掛け、マンナがこっちらを振り返る。
私は、剣呑な表情のネノスと慌てた様子で指示を飛ばすマンナに対し、大げさなと溜息を吐いた。しかし次の瞬間、浅はかだったのは自分の方だと思い知らされる。
頭が激しく痛み、立っていられなくなった。手に持っていた扇子を落とし、頭を抱え蹲る私に、傍で見ていた彼が咄嗟に……だろう
「どうした!?」
と気持ち小声で言いながら、手を差し出した。
アートのとりすました仮面が剥がれ落ち、懐かしい顔が覗く。
私が焦れた彼だ。
「アイナ?どうした!?頭が痛むのか?やはり横になっ……」
彼にアイナと名前で呼ばれ、全身の血が沸騰したかのようだった。涙が滲み、無意識に息を止める。
私は一度は差し出されたアートの手に縋り、彼に身を預けた。彼の逞しい腕が背中から私を支え、厚い胸板に抱かれる。
彼が触れる場所が嫌に熱い。
私と彼の距離は息遣いを感じる程近く、このまま彼を求めても良いとさえ思い、それと同時に、時計塔に登ったの記憶が刺激された。あの時は、恥ずかしくて嬉しくて、ひたすらドキドキしていた。
でも、あの日の記憶が一気に駆け巡り、それだけで虫唾が走り私は我慢ができなくなった。
「私に触らないで!」
強い言葉でアートを拒否し、手を振り払い、突き飛ばした。彼がショックを受けたが顔で私を見ている。
どうしたら良かったなんて、私が知りたかった。
生理的に無理というのはどうしたって無理で、手を払い突き飛ばしたのだって、反射的にそうしてしまっただけだ。
けれども、私はアートを傷つけた罪悪感よりも、自らの中に未だ残る嫌悪感にショックを受けた。
私はふらつき覚束ない足取りで、近くの太い幹の植木まで走った。
「申し訳ございません。俺、あっ……私はつい咄嗟に……ご無礼をお許しください」
アートが顔を真っ青にして謝罪を口にした。
私は幹に体を預けるつもりで、木に手を伸ばす。
あなたは悪くないの。
今からでもそう言うべきだろうか。考えながら私の意識は、そこで途切れてしまった。




