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「姫様…………やはり、今日はお止めになりませんか?」
マンナがそう言いだしたのは、私が着替えを済ませ、髪を綺麗に結い直している時だった。
眉尻を下げ、まるで悪い事をしでかした子供の様に、私を見るマンナ。
私は王女らしく、マンナを一瞥しただけで、すぐに鏡の中の自分に視線を戻し、ゆったりと返事をした。
「何を?」
「正式な婚約式も挙げていない男女が、一つの部屋に籠るのは外聞も良くございません。そういったのはせめて、正式にご婚約を交わしてからの方が、よろしいかと存じます」
「あら、今時そんな堅苦しいこと言っているのは、きっとマンナだけよ。私は構わないわ」
「ですが姫様、体面というのも大事でございます」
いつだって作戦の為必要とあらば、叱りつけてでもやらせるマンナにしては、珍しく食い下がる。だからこそ、公の場では決して口にできない、何らかの事情があるのではないか。
私は鏡越しにマンナを睨みつけ、さも面白くなさげに息を吐き出す。私の準備をしていた侍女たちの表情が僅かに強張る。
無視しても良いだろう、とも思ったが、マンナの提案は魅力的過ぎて、私はズルい気持ちが勝ってしまった。
私はマンナと後一人を残し、他の侍女を全員下がらせた。頭を下げ、最後の一人が退出し扉が閉まる。
私は腰に手を当て、マンナに向かい合い立った。
「あのね、マンナ。期待の婚約者殿と私の仲がよろしい方が、お父様とお母様もお喜びになるわ。そうではなくて?」
それが私の役目の一つでしょう?
私は目で訴える。マンナも深く頷いた。
「それは、そうでございますが……私は姫様が心配なのでございます」
私は首を傾げた。
体面が悪くなるのは、私の為にならない。普通に考えれば、そういう意味だろう。さっきもそう言っていた。けれども、この後に続けられた言葉を聞いた私は、思わずマンナに抱き付いていた。
「だから、これは私の我儘でございます。今日ぐらい、よろしいではありませんか。姫様の好きなように過ごされても、好きな事をして過ごされても…………きっと解っていただけます」
《私の》の部分をあえて強調した、マンナの気遣いが本当に嬉しくて、私は本当に泣きそうなった。
昔から腹の底に溜め込んでいる、どう扱えば良いのか分からないドロドロした感情を、マンナは解っていてくれたのだ。
ずっと私と一緒にいてくれる彼女だからこそ、彼が憎くて憎くて仕方なくとも、私が使命を全うすると信じているからこそ、そんな言葉が出てくるのだと思うと、私は嬉しくて、救われた気がして、ちょっぴり悲しくなって、泣きそうになった。
私に抱き付かれて、マンナは驚き、両手をわずかに上げた。傍で、侍女がクスリと笑む。
「あぁ、マンナ……ありがと。でも同じ城内にいるのに、ラブラブな恋人同士が会わないっておかしくない?大丈夫かしら」
マンナの提案は魅力的だ。だが、私の知る恋人同士というのは、隙あらば、視線を交わし、時間を作っては逢瀬を重ねるものだ。念願叶い婚約者とまでなった二人が、会わずに過ごす事などあり得るのだろうか。
私の心配を他所に、マンナは自信たっぷりに胸を張る。
「そこはこのマンナにお任せください。婚約者殿には何か用事を作ってもらいましょう」
「さっすが、マンナ!格好いいわ!大好き!」
マンナは満足そうに頷いた。優しい笑みを向け、昔そうしていた様に、私の頭をそっと撫でた。
「それで姫様、どちらで過ごされますか?」
「そうね……お庭にするわ。誰も入れないようにしてちょうだい」
「かしこまりました」
マンナと侍女が礼をとり、頭を下げた。
気温が上がり切るお昼過ぎ、私の庭の中央にある半球体の東屋に、私はいた。
半球体の東屋は天井部分以外は透明で、一見ガラスのようだがその実、とある生物から採取する液体から作られている。
混ぜる材料によっては、鉄などより固くなる為、要人の過ごす場所や警護の際重宝される代物だ。
秋を迎えた私の庭は、まだ花が咲き乱れている。
ここは城の敷地内に作られた、私以外は近しい者以外は決して入らない、私の為だけの庭だ。マンナや侍女だけでなく、護衛のカクだってこの庭には入ってこない。
この庭の中では、私は自由なのだ。
東屋には寝そべっても余裕がある程の大きなソファーが置かれ、サイドテーブルには果物と冷たい紅茶が用意された。
それから軽快な音楽が流れる。
巷で話題の活動写真の導入部分の音楽だ。曲のタイトルは祝福。
試練を乗り越えた若者が、神の祝福をその身に受け、ありとあらゆる幸運が舞い込むようになる。ひたすら高揚感に浸る、ストーリー性のある曲だ。
最高潮に盛り上がったところで、爆発し掻き消えるかのように、一瞬にして終わるのが気に入っている。最近では一番聞いていると思う。
私にとっての自堕落な時間を過ごす用意がすっかり整ったその場所で、私はクルリを回った。
「ああ、気持ちいいわ」
ステップを踏み曲に合わせて跳ねと、気分も跳ね上がる気がした。狭い東屋を出て、低めの植木を、踊りながら跳躍し飛び越え、綺麗に駆られた芝生の上に着地する。
曲調が早くなり、跳ねるような音が続く。私をそれに合わせて、綺麗に手入れされた庭中を、ステップを踏みながら縦横無尽に跳ねまわった。
誰も見ていない今くらい、好きにするわ。その為にマンナがわざわざ用意してくれたんだもの。
楽しかった。
私はタンッと跳ねた。
――でも、ここはあの場所とは違うのね――
無意識に比べて、ストンと落ちた。
心地よい木漏れ日も、小さな雑草もない。鳥の鳴き声も聞こえてこなければ、湿った空気の香りもしない。
東屋に戻った私は皿の果物を手に取り、手元で弄び、食べずに戻した。
比べたってどうしようもないじゃないの。言い聞かせつつ、きつく唇を噛む。
アレは夢のようなもので、もう現実には存在しないもの。どんなに欲しくても手に入らないものだ。
ふん、まあいいわ。今日の私は機嫌が良いの。だから些細な事なんて平気だし。だから、たとえあの男が………………あっ……最悪
私は声を出さないで言った。この場所では誰に聞かれるでもないが、揚げ足を取られない様にする、長年の癖だ。私の不都合な本音は決して口に出さない、癖だ。
今は何をしたって許される時間なのだから、仕方ない。
あの夏の日を思い出してしまうのも、ついあの男の事を考えてしまうのも、余計な事を考えてしまうのも、全部自由だから。
そうなると、自由って言うのも、案外難儀なものね。




