9話(現在④-2)-アイリス
物語のヒロインは、アルザードが四学年になり数ヶ月を経たときに編入してくる、市井の子供だ。男爵家の、隠された落としだねとして育てられ、そしてのちに生家に引き取られるのは、アルザードと似た境遇だろう。まあ彼女は、「アルザード」とちがって意地悪な姉もおらぬし、男爵家ではそこそこ可愛がられて育てられたようなので、ひねてもいないが。
天真爛漫、ほがらか、庶民らしくころころと笑うすがたに、ものめずらしく近づいて、それでうっかりほだされたり、カウンセリングされたり浄化されたりするのが攻略キャラクターたちだった。
前の生のわたしも、そして私も、そのキャラクター造形に特に思うところはないわけだが(強いて言うなら裏表のない人間が苦手ではあるけれど)、これでもいちおう、そんなヒロインの登場をまちわびていたのである。
だってヒロインは、アルザードの運命だろう。
運命の力、というものがどれほど強いのかはしらないが、その清く正しい想いで、アルザードの、私に対する執着を消してほしいのだ。
けれどそれは、私の見ぬところ、つまりは私は屋敷のなかで、そしてアルザードは学園のなかで、勝手にやっていてくれ――と、そう思っていたわけで。決してヒロインとまみえることを心待ちにしていたわけでは、ない。
「うわぁ、まずった?」
めずらしくずいぶんと砕けた口調で、シュウェルツはいう。言葉には出さないけれど、私も同じ気持ちだった。まずった。
ふだんは誰も来ぬ、学園の温室に、一国の王子さまと、特段だれと慣れ合うわけでもない、侯爵のくらいを戴いた家の令嬢が、ふたりきり。
私の城にしてしまって、その噂が広まっているから、滅多なひとなんてこないのに。だからこそ、かれだってようやく秘密の話をしに現れたのに。
視線の先、入り口。ふわふわとやわらかそうな、うす桃の髪の毛。小動物を思い起こさせるようなまんまるの瞳や、抱き心地がよさそうなからだ。背の低さから常に上目遣いになるのも、わざとらしさは感じないし、なんか、愛されオーラが全面に出ている、それ。が、いま。私たちの目の前に。
「あなた――」
仲良くおなじベンチに腰かけていた私たちのことを、逢引と思っただろうか。それとも、会話の内容、それ自体を聞かれただろうか。どちらにせよ、面倒だ。
この子。ヒロイン。なんだっけ。名前をひっぱりだそうとしても、うまくいかない。
なんだったかな。こうして貴族世界に戻ってきたばかりの私の耳にも届くくらいに、いっとき噂にもなっていたのだ。男爵の落としだねは。だから、姓はわかる。けれど、名前。肝心の。
前の生のわたしの執着の薄さよ。いや、私が留めおこうとしていなかっただけか。可愛らしい名前だったのは、憶えているんだけれど。
王子さまをちらと見る。このひとのことだから、たぶん、彼女の名前、フルネームくらいは知っていると思うのだけど、いま、そんなことを悠長に聞いている場合でもないだろう。
「……どうする?」
「どうするもこうするも。口止めしかないんでなくて。彼女、アレと同学年でしょう」
シュウェルツはそれもそうだとうなずいて、立ち上がる。
彼女は、そのぷくりとしたくちびるをふるわせて、後ずさりした。
「わ、わたし、なにも聞いていませんので……!」
ああ、聞いてるやつね。
いまにも逃げ出しそうな彼女を――こんな天上の身分のひとを前にしたら誰だってそうしたくなるだろうけど――王子さまはお得意の笑顔で封じ込める。「ちょっと、お話ししよう? サンチェス嬢」
温室は、私の城だ。
というよりも、気付いたらそういうことになっていた。
ヴィオレット嬢の憩いの場。
べつに誰に頼んだわけでも、権力に任せてなにかしたわけでもないのだけれど、たぶん、フォスターの家が薬草に強い家系だから。二度、三度と温室を訪れて、その回数が片手を超えるころには、もともとひとけの少なかった温室にはすっかりと人が寄らなくなっていた。侯爵令嬢の憩いに乱入するような度胸ある人間はいないらしかった。この二か月程度、あのアルザードすら現れたことはなかったのだ。アレの場合は、口付けの契約を律儀に守っているのかもしれないけれど。
シュウェルツだって、今日がはじめてだった。ふらりとあらわれて、やあヴィオレットとほほえむ彼と会話したのなんて、学園に復学して、今日が何度目かといった具合で……。
だというのに、まさか、このタイミングで。いや、たしかにヒロインは私が温室を城にしていることなど知らないだろうし、こちらとしても警戒にものぼらない。……この子がアルザードになにかを語りでもしたら、アレがどんな反応を示すことか。
彼女――アイリス・サンチェス――を、とりあえずは私たちが座っていた長椅子へと誘う。傍から見れば、くらいの低い彼女のみを座らせようとしているなんて、なんて異様な状況だろう。
「とりあえず、きみがどこからどこまで聞いていたのかおしえて?」
「き、きいていないです……! ほんとうに!」
オリーブ色の瞳に、じわじわと波がただよっているのを、私はぼうっと見下ろしている。権限の高い方の口止めの方が、よほど効果があるだろうという判断のもと、余計な口出しをしないようにしているのだ。
シュウェルツは落ち着かせるように彼女を長椅子に座らせる。特に圧をかけているわけでもないのに、彼女は可哀想なくらいおびえていたから、シュウェルツもどうしたものかと考えあぐねているようだった。
そして、その思考の帰結だろうか。かれはちょっと首をかしげて、とんでもない行動に出た。
「これなら、こわくない?」
「シュウェルツさま……!?」
思わず声を発した私に、彼は目線だけで制した。……自分に任せろと。そういうことですか、ええ。
かれは、アイリスのまえ、地面にひざをたてて、ひざまずいている。アルザードなんかが、私にするよりももっと、つよい意味をもつ、それ。この場にいるのが私でなく、良識のあるおとなや、あるいは彼を利用したいだれかだったら、とんでもないことになっているだろう。
たかが男爵の娘が、王子を。
あるいは、王子が、たかが男爵の娘に。
今この場に第三者が入ってきては、下手をしては王子さまの失脚や男爵令嬢の不敬罪にまで発展しそうだ――なんだか頭が痛くなってきて、ちらと温室の入り口を見る。うん、きちんと閉まっている。さきほどの、このヒロインに気がつかなかった、あの失態の二の舞はごめんだ。
さきほどよりもずっと顔の色を失せさせているアイリスに、王子さまはさらに声をかける。
「サンチェス嬢。なにも俺たちは、きみを取って食おうなどとしていないよ。聞いていないのだったら、それでいい。ただ、なにか、単語一つでも聞いてしまったのなら、それを教えてほしいだけ」
オリーブのひとみが、うろめいた。
ひどい脅しをみた。かれにここまでさせて、それでも嘘をつきとおせる国民がいたら、いっそ見てみたい。
「わ、わたし、道に迷ってしまって、それで、どなたかに教室までの道をお聞きしようと……それで、話し声が聞こえて――でも、具体的なことは……っ」
「ひとつも?」
「……いえ、」
彼女は、自分のてのひらを、自分の胸のまえでつつんだ。震えるそれを、むりにおさめるように。
「――王になる、と」
「ああ……」
いちばんまずいところじゃないか。
「この方……すみません、名前を存じ上げないのですけれど、」
「ヴィオレット?」
「あ、はい。ヴィオレットさまとおっしゃるのですね。ヴィオレットさまのために、王になると……」
「は?」
「お、おふたりの関係は、よくわからないんですけれど! でもわたし、だれにもなにも言いませんので! ええ! きっとおふたりには障害があるのでしょう、わたしは決して邪魔しません!」
「は、待って。たぶんすごい誤解してるんだけど」
「……ああ……」
思い出してきた。そういえば、ヒロインってこういう子だったな。悪い子でもないし、基本的に分をわきまえている、出来た女の子なんだけど――ときおり、思いもよらない方向に思考の舵を切ってくる。
彼女のなかで私たちはいったいどんな設定になっているのか。
王になる、とかれが言ったのはほんとう。でも、それは私のためなんかじゃないし、私たちのあいだにあるという、なにかしらの障害を取り除くためでもない。ただ、王になる必要があったからそうしようとしているだけで、その先にある未来で、たまたま私の益になることをひとつ、施策として行おうとしているから、それについての話をしていただけ。
アイリスの目からしてみれば、シュウェルツが膝をついたのも、私を守るためと映ったのかもしれない。純愛によわいもの、彼女。
「……ねえ、王子さま」
いまだ勘違いしたままなにかを喋っている彼女の話を聞き流しながら、すっかりと辟易してしまっている王子さまの背中に、そうっと声をかける。
「いっそ勘違いしたままのほうがよろしいのではなくて?」
「……奇遇だねヴィオレット。俺もいま、そう思っていたところだよ」
・
「つまりおふたりは元婚約者で、現在は婚約を破棄している間柄なのですね? その理由が、ヴィオレットさまのお顔の怪我が原因で、王子にふさわしい相手ではない、と周囲から糾弾されたから、と……。けども諦めがつかず、自分が王になればそのような声もねじ伏せられる――と、そういう……」
「うん、まあ……だいたいはそんなかんじ、かなぁ……?」
あのシュウェルツが勢いに押されているのは、いっそ愉快ですらあった。なんか助けを求めるみたいにこっちに視線を投げた気がしたけど、私にもこれを御せる自信はないのでスルーさせていただく。
話の流れに合わせて、いちどだって自ら見せたことはない傷あとをさらしたのも、私としてはひっかかっているのだ。そりゃ、人目に触れさせるのも躊躇するほどの重いものではないし、真実味を見せるには仕方のないことだとは思うのだけれど。
たぶん、この王子さまは故意に、私の傷あとを見ようとしてこなかった。それをこんなかたちで、このひとのアクアマリンにまで映すことになろうとは。
うそとほんとうを半々に交じり合わせたそれにすっかりと騙されてくれたらしい、ふたたびオリーブの瞳にしずくを漂わせたアイリスに、この子が善良で単純なおんなでよかったと、そんなことを思う。
「なんて、かなしい……。失礼を承知で言わせていただきますけど、お貴族様はそういったところがございますわね! 外聞が重要なのは……まあ、わかりますけれども! でも、ヴィオレットさま、あなた、うつくしいのだから!」
「……、」
「そんな傷、ぜんぜん! ぜんぜんなんともないものですよ!」
「はは、」
空気をゆらしたのは、シュウェルツだった。
「うん。俺もそう思うよ。彼女はうつくしいよね」
ながい前髪で覆い隠された半分が、熱を持つ。さんざ、アルザードからなじられ、屋敷の人間も、父ですら痛ましいものを見つめるようにして、腫れ物に触れるよう接してこられた火傷あとだ。
アルザードに焼かれたそこが、じくりと痛んだ気がして、思わず撫ぜる。色の変わった、ひきつった肌。
「……馬鹿げたこと」
「でも、わたし。殿下に婚約者がいたという話、初めて聞きました。無学ですので……」
「ああ、いや。知らぬのも無理はないよ。家同士で内々に取り決めたものだったんだよ。だから破棄も簡単にできたわけで」
「私の家が、母が亡くなって喪に服したり、かと思えば侯爵の撒いた種を回収したりと、あわただしかったもので」
シュウェルツの言葉を、ひきつぐ。
まあ、侯爵位を継げぬ娘のところに婿入りすることにならずにすんで、よかったのではないの。こころのなかで、つぶやく。私が申し入れた婚約の破棄がすんなり通ったのはたぶん、向こう側のそういう思惑があったからだろう。
「それよりも、あなた……アイリス? あなた、このこと誰にも言わないでくださる。私たちがこうして会っていたことも、かれの発言もよ」
「ええ、ええ、それはもちろん! わたしはあなたがたお二人の味方になります! 男爵令嬢など、取るに足らぬ小娘かもしれませんが……お役に立てることがあったら、なんでもおっしゃって!」
きらきらしい笑顔に、一歩足を引く。こういう、無条件に周囲を明るくさせてしまうタイプは、いままでまわりにいなかったのだ。対応に困る。これがヒロイン力。さすがは闇のはしを揺らめいて、落っこちそうになっている原作アルザードすら救い上げてしまう女……。
「……味方にならずともいいから、とりあえず黙っていて。特に、弟には」
「弟……アルザードさまですね?」
「そう。あれは過保護なのよ」
じっさい、そんな言葉で言い表せるほどかわいくはないのだけど、そんなことまで事細かに告げる必要はないだろう。
私の言葉に、彼女は拳をにぎりしめ、こくこくとうなずいた。「かしこまりました!」
……なんだってこう、物語は原作に沿わないのだか。
私の呆れを、どう判断したのか――シュウェルツはアクアマリンの瞳をほそめながら、面倒なことにならなければいいけど、とつぶやいた。