8話(現在④-1)-ゆめのはなし
温室に植わっているさまざまな植物を、おだやかなアクアマリンが映している。まえぶれもなく、ふらりと現れては、「やあ、ひさしぶりだね」と微笑するかれに、私は多少、驚いた。
復学してから、私的な話などいちども交わしたことはなく、かれがいっていた「秘密の話がしたい」だなんて、そろそろ妄想で片付けてしまおうかしらんと思っていたタイミングだったのだ。寮からも、学び舎からもほどほどに遠いこの温室に、わざわざ講義と講義のあいまに訪れるのは、私くらいのものだと思っていた。
「……王子さま、そろそろ戻らなくては講義に遅刻するのではなくて?」
「俺の学級はつぎ、急遽自習になったんだよ。だから温室の植物について、レポートでもと。きみ、ここには詳しいんだろう? 教えてくれるかい」
「……私にもサボれと言外に告げています? ……まあ、そうですね。とりあえず、あなたのまえにある、それ。花びらが八重型になっているものがあるでしょう。それは触れるとかぶれてしまうので、気をつけてくださいね。あなたになにかあったら、撤去されてしまうかも」
「なるほど」
かれはうなずいて、赤い花弁をつけたそれから一歩、距離を置いた。
まあ、たかだか学園内にあるていどのもの。強毒でもないし、一日二日もすればかぶれなんて治るんだろうけど、それでも、私の見ている範疇で怪我でもされてはたまらない。
「フォスターの家で栽培しているようなものも、ここにはあるの?」
「いえ……あるとしたら、研究室のほうじゃないかしら。ここにあるものは、観賞用のお花が多いですよ」
「ふうん」
気のない相槌。
「……それで、」
かれの雑談に付き合ってあげてもよかったけれど、それが本題でないことはわかりきっていたから、そうそうにおままごとは打ち切ることにする。
「秘密の話って、結局なんだったんですか。まさか学園に入学して二か月、いちども接触してこないとは思いもしなかったわ」
「ああ、気になってた? でも、ほら。そうすぐに逢瀬をしては、きっとめざとくアルザードが気付いてしまうから。べつに俺としては彼にしられたところで、どうだっていいけれど……きみは困るだろう? だから、彼の警戒が解けるまでは、と思ってね。いそぐはなしでもないし」
シュウェルツはくるりとこちらを振り返って、私の座るベンチに、おのれも腰掛けた。
「この距離。年ごろの男女の距離感ではありませんね」
「でもねえ、これからする話を、大声でするわけにもいかないから」
かれはいちど入り口を見て、だれかの気配がないことを確認する。
「ねえ、そんなに重要な話なんですか。それを私にする理由が、あなたにはあって……?」
「……うん、きみが不審を抱くのも当然だね。まあ、肩の力を抜いて聞いてよ。なにもきみを勢力争いに巻き込もうとしているわけではないから」
「……」
「そうだな、どこから話そうか……。そもそも、俺たちの婚約がなされた、大元の理由はおぼえている?」
「大元……? それは、第一王子派と、第二王子派が争わないために、あなたの婿入り先を探していたとかいう、あれですか」
優雅に足を組んだ第二王子さまは、そのとおり、とうなずいた。
フォスター家は、侯爵という位でありながらも、王都と物理的な距離がそこまで近くもなく、また、その関係で中央の政権にも深く入りこんでいるわけではなかった。かといって田舎のいち貴族というほど情報に疎いわけでもなく、また、権力欲も少ない。そして血筋としても、どこかで平民のそれが混じっているわけでもない、純正貴族だったのだから、簡単に白羽の矢が立ったわけだ。
「そう。俺と兄上は同じ胎から産まれているし、本来勢力争いなど、そうそう起こるものでもないんだけど……」
「あの方は、身体が弱い」
「致命的だよねぇ、王族としては。それでも、俺たちが十にもなるころには、まあ問題なく政務もできるだろう、と言われるくらいには調子がよくなっていたのだけれど……」
めずらしく、青空を写しとったかのような瞳がゆれて、地面に落ちた。
「……あのね、ヴィオレット。これはほんとう、国家機密で、ぜったい、だれにもいわないでほしいんだけれど……」
「ちょっと待ってくださいな。そんな重要な話を私にしようとしているの……? あなたいま、勢力争いに巻き込まないとおっしゃいましたよね?」
あいにくと、王族の方のなにかに巻き込まれる覚悟なんて、できていない。私は侯爵になりたいとは思っていたが、権力争いがしたいわけではないのである。
「巻き込まない。巻き込みはしないんだけど、だってこれ、きみの人生に影響を及ぼすと思うから」
「……人生?」
「うん」
穏やかな瞳が、ビニールに覆われた空を見上げる。「話を戻すと……」
「兄上はどうやら、子どもが作れない身体らしい。子種がないというのかな。幼少期、何度も病床にふせっていただろう。どうやらその影響で……」
「………………は、?」
絶句。
それ、ぜったい、いち臣民に聞かせる出来事ではない。
めまいすら覚えそうな私に、シュウェルツは苦笑を浮かべながらも、話をやめようとはしなかった。
「ここからが本題になるんだけど……。でね、そうなるとまあ当然、俺を王に、という方向になってくるのも、自然の摂理だろう。……俺としても、まあ、それが正しいのではないかと思う」
「……あなた、無用な争いはごめんではないの」
「うん。でも、王家の血を絶やすことはできないし。……まあ、兄上が遠縁から養子を迎えるという方法もあるんだけど、それだって血は薄まってしまうから得策とは言い難いし」
ここから、どうやって私に関係のある話になるのか、見当もつかない。
てのひらの中ではじとりと汗をかいていて、腹の底もぐるぐるとえたいのしれないものがまわっていた。悟られぬよう、軽く息を吐いて――そこで存外、自分が緊張をしていることを知った。
「だから、俺は王になろうと思うし、いま、いろいろ根回しをしているところなんだけど……ところでヴィオレット。俺が先日きみの屋敷を訪れたとき、きみに問いかけたことを覚えている?」
「……なんだったかしら」
シュウェルツは目を細めて、わらっている。
とぼけたふりをしてみせても、きっと見通されているのだろうと思った。……いえ、勝手に私が、このひとには腹の底が隠せやしないと白旗をあげているだけかもしれないけれど。
どちらにせよ、私は彼の問いかけをおぼえていた。おぼえていたけど咄嗟に素知らぬふりをしたのは、だってやっぱり、なにかしらに巻き込まれそうな予感をおぼえたからだった。
「……きみの、かつての夢。侯爵になりたいという、あわれなそれ」
軽いようで、私にとってはどんなものよりも重い一言だった。
「ねえ、ヴィオレット。俺もね、原則男子しか継げないなんて、おかしいと思っているんだよ」
「……なにを、おっしゃりたいの?」
「法改正」
シュウェルツは、いちどだって表情をかえなかった。
「俺は、王になるよ。そうしたら、きみの夢は実現に近付くかもね」
「……、」
「ヴィオレット。協力しろ、などとは言わないよ。ただ、これはきみの希望になるだろう?」
「……あなたが、屋敷でそれを口にしなかった理由が、よくわかる……」
牙をぬかれたはずの王子さま。臣下の令嬢にくだることを、否ともいわなかったかれが、まさかそんなことを望むとは。
……あの屋敷。アルザードが爵位を継ぐと、そう信じてうたがわない人間たちの巣窟で、かれがそれを口に出したくなかったのは、当然だった。
強引だ。かれは、その言葉だけで、いまだ現実になるともしれぬ夢物語を聞かせるためだけに、私をこの場に連れ戻したのだ。それが、私にとっての希望になるとしって。私が、それのためならば、腑抜けから生まれ変われるとしって。
くちびるをかむ。
ああ、みかただ、と思った。
なぜかわからぬけれど、いま、私はつよく、そのことを認識した。いままでこのひとに抱いていた印象が、音を立てて変貌していく。
このひとは、けしてアルザードの側につくことはない、むしろ、国家の機密だというそれを、わざわざ私に告げるくらいだ、そこにいったい、どれほどの想いがあったのか。このひとが味方でなければ、いったい、この世界のどこに私の味方がいるのだというのか。
たとえ、私のための行動でなくても構わない。このひとのゴールに、たまたま私の目的があっただけでも。それでも、私のことを微塵も想っていないのなら、そも目的が合致していることすら告げようとはしないだろう。
「ヴィオレット。爵位を継ぐのなら、この学園を卒業しないと。俺がきみを呼び戻した理由は、これで納得がいったんじゃないかな」
「――……ええ、ええ。そうね、シュウェルツさま」
万感の思いだった。私は、ただ、うなずくしか、できない。
「王になれるともしれないし、なれたとして、何年かかるかもわからないけれど」
「でも、ゼロの可能性が一にでもなるのなら。私、それでじゅうぶんだわ。シュウェルツさま。いまなら私、あなたにひざまずいて、つまさきに口づけでもできそうな気分!」
「それはなにより」
私は、何年かぶりに思いきりの笑顔を浮かべて、いっそほんとうにひざまずいて礼をしめそうかと思って、立ち上がった。
そのときだった。
入口の近くに立つ、ピンク髪を見つけたのは。