7話(過去③)-婚約者
「それで、どう? きみは弟がいる生活というものに、もう慣れたの?」
きらびやかな太陽のもと、優雅に紅茶をすする婚約者どの。この国の第二王子さま。かれはどこか機嫌よさそうに、そのきらきらしい金の髪をゆらめかしながら、そうして私に問いを投げかけてきた。
シュウェルツ・フォン・ユーゼリヒ。優秀な兄がおられる、この王子さま。私と同い年の、十二歳。
このお方は、余計な跡目争いの火種にならないためにと、フォスター家へ婿入りすることが、内々で決まっているのである。友好を深めようと、そういう意図から月に一度ていどは、フォスター家へあらわれ、こうして私とのティタイムの時間を作っている。王宮に私がはせ参じることもあったが、今日は、前者。我が邸の中庭のなか、東屋。天気が良かったものだからと、薔薇を見ながらのお茶会である。
「慣れたように、思えて?」
「それは、どうだろう。……まったく?」
「まったく」
いささか肩の力を抜けるのは、侍従も護衛も、私たちから遠く離れた……視認するに困りはしないが、会話が筒抜けになるほど間近で聞き耳を立ててはいないから。完璧な令嬢でいなければと思う反面、アルザードが現れてからそれが煩わしくなったのもまた、事実だった。不敬ではあろうが、お目付け役から叱咤される心配のないこの方との時間はなかなか安らげる。
シュウェルツには、そういう独特な雰囲気があった。露骨に甘やかしてくるわけでも、絆そうとしてくるわけでもないのに……いや、むしろそういう意図が透けないからこそ、ほうと息をつけるのかもしれない。ことば、イントネーションというか、ひびきかたというか、それが柔いのも要因のひとつだろう。シュウェルツは、春の陽気のようなひとだった。
その、どこか貴族らしからぬ雰囲気を抜きにしても、個人的にかれのことは気に入っていた。私が侯爵に執着していることを知っているから、結婚をしたとして、侯爵というものはきみのものだし、俺は口出しはしないよと、明言してくれているから。
私はそうっとソーサーにカップを置いて、からだごと、となりの王子さまのほうを向いた。
「意図の読めぬ、気味の悪い子どもよ」
「あはは。ねえ、そろそろ俺に紹介してくれてもいいんではないの?」
「御冗談を。アレはつい最近まで市井で暮らしていた、ただの平民です。あなたのまえに姿を現わせるほどの礼儀を、身に着けてはいません」
「ほんとうに? 聞くところによると、じゅうぶん優秀らしいじゃないか。……いまなら、きみのかわいい嘘を、不敬といいはしないよ」
シュウェルツは足を組み替えて、にっこりとほほえんだ。まだ子供のくせに、彼はそんな姿であっても絵になる。高貴さは、血に現れるのだろうか。ぼんやりと思う。そうでなくては、記憶にある限りのこの方がいつだって平静で、悠然としている説明がつかなかった。
太陽の光が反射して、金髪が透けるようにかがやく。アクアマリンのひとみはおだやかなのに、けして抗えないような強さが見え隠れしていて、なんだかな。そういうところはちょっと苦手だ。かれの血筋はみなそういうところがあった。かれの兄もまた、同様に。身体のよわい第一王子さま。シュウェルツよりもちょっぴり性格が悪くて、でも、国のことをきちんとお考えになられているかた。
私は、息を吐いた。このひととアルザードを会わせたくはなかった。だって、将来の悪友。シュウェルツがアルザードのほうについては、私の強力なうしろだてが失せてしまうのだもの。
「……まあ、どこから聞いたのかしら。口の軽い使用人でもいたのかしら。それとも、お父様がいたるところで吹聴しているの?」
彼は笑みを深めて、なにも言わない。なるほど、話題変更には、応じてくれないらしい。私は降参して、わかりました、とうなずく。うなずくほかなかった。アレがいそうな場所を頭のなかで二、三ピックアップして、そばで控えていた侍従を呼んで、指示を出しながら、また、息を吐く。
「あなたは意地悪ですわ。かわいい嘘というのなら、騙されたふりをしてくれてもいいのに」
「はは、そんなことを俺に正直に告げるのは、きみくらいだよ、ヴィオレット」
「それはそうでしょうね。私はだれにも傅かない女だもの、シュウェルツさま」
「きみのそういうところは、きっと美点なんだろうけれどね。同時に敵をつくるたぐいのものだよ」
シュウェルツがにがく笑うのをしり目に、私は紅茶を口にふくみながら、ぼんやりと思考をめぐらせる。
敵、つくるのかしらね。いまの私でも。原作ではたしかに、孤立無援でしたけれども。
「それで、ヴィオレット? きみはまだ、侯爵位を継ぎたいの?」
「……」
「なるほど」
かれは聡いので、私がなにを言わずとも正確に心中を察したようだった。諦めていないんだねと言いながら、肩をすくめる。
「きみの気持ちはわかるけれどね、法がある以上……直系の男子が表れた以上……きみは侯爵にはなれないよ。法改正がなされることを祈るしかないね」
「わざわざ口になさらないで。私だって理解しているんですよ」
「それにしてはずいぶん不満そうだ」
「お父様の都合の良さに呆れているだけ。私の自由な時間、すべて奪って教育にささげていたのに、いまじゃすっかりそれは弟の立場」
ぽかぽか陽気とは裏腹に、私の心には暗雲たちこめている。
「きみが人並みの嫉妬を見せるだなんてめずらしい」
「嫉妬ではなく愚痴です。嫉妬だなんて、自分よりも上のものにするものでしょう」
あれは、私より下だと言外に告げる。
シュウェルツはケラケラと笑って、きみのプライドはおもしろいねと、褒め言葉だかなんだかわからないお言葉を下賜される。たぶん半分くらいは馬鹿にしているのだと思うけれど、仮にも一国の王子さまに喧嘩は売れないので、とりあえず額面通りの言葉だけを受け取ることにした。
「……ヴィオレット」
それから、いくらかの沈黙ののち、王子さまは少し表情をきりりとあらためて、口をひらいた。
「いくらアルザードが憎かろうと、害そうとしてはいけないよ」
「……なにを言い出すのかと思えば。私、そこまで追い詰められているように見えるのですか?」
「万が一があるからね」
信用がないのを不満に思うが――このひとは、そういうところがあった。
王家など、敵も味方も不透明になる、大人たちの知謀に満ちたところで育てば、多少の人間不信も仕方のないことなのだろう。まあたしかに、王都からほど遠い、ときに雪で閉ざされるようなカロン地方に籍を置く私ですらも、貴族たちとのやりとりには時折、疲弊し、辟易するくらいだから。
理解は示せても、納得は、そんなに。婚約者相手、以前に、うらわかき乙女相手になんて無礼な、と思うくらいは許してほしい。
私の無言の不満に、シュウェルツは苦笑をうかべた。「わかっているよ、きみがそんなことをしない人間なのは」
「でも、きみの口からきちんと、それを聞きたいだけ」
「……あなた、」
念書ではなく、口約束で。ほんとうにあなた、そんなことで私を信用できるの?
なんて言葉は、スコーンとともに流しこんだ。
ほどなくして現れた弟は、嫌になるほど完璧なたたずまいで王子さまと相対していた。初対面だというのに臆した様子もないのは私でも呆れる図太さだった。ここいらで失態を演じて見せれば私は嬉々としてこれをなじれるのに、という思い半面、もしその程度の人間が私から侯爵の座をうばうのなら、それもやはり気に食わず、私は不機嫌になってしまうのだろうと想像に難くないのだから、我ながらほとほと厄介な人間であると思う。
昼と夜、対称的な見目のふたりが並んで、おたがい完璧ともいえる微笑を浮かべている。果たしてこの王子さま。シュウェルツさまは、いったいこれを呼び出して、なんの話をしたいのだか。
なんでもないふりをしながら、紅茶を手に取る。アルザードの来訪により用意された、新しい一杯だった。
香りだかいわりにくどすぎない舌触りで、おやと目を丸める。フォスターの領地でとれるものはどこか薬草くさいというか、清涼なにおいのなかに青臭さがまじるようなものだったけれど、これはどちらかというと甘味が強い。こくりと嚥下したときの、喉の通りもよかった。おそらく私が初めて飲むものだと思うけれど、いったいどこの地方で取れたものなのだろうか。王子さまはそういうことに詳しいと思うけれど、さすがにアルザードを無視してたずねてみるほど礼儀知らずにはなれなかった。
私を抜いて、ふたりだけで当たり障りのないことを話している。私が会話に入る気がないことには気付いているのだろう、特にそれをとがめられることも、強引に話に引きずり込まれることもないので、私はぞんぶんに紅茶のかおりを楽しんで、陽の光にかがやく赤薔薇を鑑賞していた。
風のそよぐおと。鳥の鳴きごえ。私の呼吸。アルザードの相槌。……それから、王子さま。
「――それで、きみにとってヴィオレットとは、どういう存在なの?」
異なことを聞く。
私は、そうっとティカップを置いた。ふたりの邪魔にならぬよう、音を立てずに。けども隣に座るアルザードはそれが気になったのか、ちらとこちらを見て、空気をゆらす。思わずこぼれた、みたいな、そんなやわらかさがあった。
それから、王子さまに視線をもどして、事も無げに言う。
「すべて」と。
「…………なるほど、ねぇ」
いっしゅん、シュウェルツは目を見開いた。かれが、動揺、おどろき、想定外、をそのまま表情に出してしまうことなんてほとんどないものだから、おや、良いものを見たと、私は少し愉快になった。すぐにつねの、あのおだやかなる微笑をうかべてみせたけど、あのくずれた表情を見たあとだとどうにもそれが可愛らしく感じられた。
想定外だったのだろう。私自身、アルザードの詳細をこのひとに告げたことはないし、このひとの認識はせいぜい「とりつくろうこともなく、私が一方的にけぎらいしている」くらいだ。だからこそ、おどろく。けぎらいされてなお、慕ってくるような子どもなどなかなかいない。
「好きなんだ?」
「あいしているんですよ」
ねえ、気味悪いでしょう。
先ほどかれに告げたことを、心の中で繰り返した。
アルザードは、おわりまで完璧に、去っていった。
「どうでしたか、愚弟は」
「うーん、はは。正直に言っていい? なんであそこまで好かれてるの、きみ」
「私が聞きたいくらいですね」
「かれ、きみが侯爵を継ぎたいと言ったら家を出るくらいしてくれそうじゃない? あ、きみの自尊心がそれは許さないか」
シュウェルツはひとり納得して、だまりこくる。
ただ、静寂な時間が流れる。ふたりの会話を横で聞いていただけなのに、私はなんだか疲れきってしまって、口を開こうとも思わなかった。