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5話(過去②)-あねおとうと

 なみだ、なみだ。

 外は小雨が降っていて、窓ガラスをさあさあと叩いている。いくつもの小粒が硝子に張りつき、流れてゆくのをぼうっと眺めては、自身の頬をすべるしずくの無様さに思いを馳せた。

 雨の冷気に耐えられなくて、もぞりと身体を動かして、ブランケットを鼻さきまで持ち上げて暖を取る。

 たとえば、午睡に抗うためにくわりとあくびをしたときにこぼすような涙なら、たとえば頓珍漢な話を聞いて笑いすぎたときに流してしまうような間の抜けた涙だったのなら、さして気にも留めないのにな。

 これは、なんだろ。屈辱か、悲しさか、怒りか。我ながらなんにもわからない。なんにもわからないのに、とまる気配すらないのだから、呪いでもかけられたような気分だった。

 雨を運ぶ、灰色の雲みたいな。そんなものがまるごと心に入りこんできたような、そんな気分。そんな気分になったことなんて、一度もなかったのに。

 もしも呪いをかけられたのなら、相手はこの子供だろうな。おずおずと私を覗きこんでいる、黒の具現。

「おねえさま、泣いていらっしゃるの。それは、ぼくのせい?」

 入室の許可なぞ与えていないのに、当たり前のようにベッド脇にたたずんでいる、それ。

 仮にもレディの部屋で、まだ、出会って一日も経っていない関係性の男女だった。それなのに、勝手に入って悪びれもしていないのはどういうことなの。これだから教育のたたきこまれていない平民の子は――文句を言いたくもなるが、あいにくとその元気すらなかった。

 私が口をとざし、はらはらと涙をながすさまを、それがどう受けとったのかはわからない。ただ、眉をさげながら「ぼくは」と小さな声で口を開いた。

「昨日は、まともにご挨拶ができなかったから。だから、訪ったんです。おねえさま、ぼくはアルザード。アルザード・フォスター。昨日から、あなたの弟になりましたよ」

 にこりとほほ笑むそれは、天使のものか。

 昨日に比べ平静な心を保っていられるのは、現在のすがた、そしてこのシーンが、かつてのわたしが愛したそれと、うまく結びついていないから? それとも、昨日のあの衝動。あの、さけびだしたくなるほどのものが、単なる身体の誤作動だったとでも言うのか。

 いやだな。いつ起こるかもわからない誤作動に怯える羽目になるのなんてごめんだから、自分の身体がポンコツではないことを祈るしかない。

「それで、おねえさま。どうして泣いていらっしゃるの」

「……泣いてなど」

「では、あなたのそれは甘露なのでしょうか」

 にがく笑いながら、それは人差し指で、私のしずくを掬った。

 驚いた。こんな、私の婚約者ですらしないような行動。齢九つがする行動ではないでしょうよ、気障たらしい。自然、眉が寄った。こんなの、()(かた)にされても同じ反応をみせるだろう。

 ひとつ、強く目を瞬いて、目の端に溜まっていたしずくを落とした。とまれと祈ってもうまく反応しなかったそれが、容易に最後のひとしずくを落として、沈黙する。

「おまえ、それだけのために、…………?」

 わずらわしさのなか、口を開こうとして、ふいに、言葉がとまる。

 冷静に、考えて。というか、もやのなか、原作のそれと、昨日のやりとりを、思い浮かべて。

 どうしてこれ、私にこんな笑顔を見せている?

 アルザードとヴィオレットは、初対面からいがみあう関係ではなかったの。

 するすると零れおちていって留めようともしなかった記憶は、しかしてたかだか一日では簡単に消えてなくなりはしないし、ましてや思い違うほど間抜けてもいない。

 アルザードは、もっと、警戒心を隠そうとして、それでも隠しきれない幼少時代を送っていたはずだった。成長するにつれ仮面を被るのがうまくなるが、幼いころはそれがうまくいかず、そんなところが「ヴィオレット」の癇に障っていたのだ。

 「ヴィオレット」に虐げられていることを除いても、おのれの母が、貴族の(つまりは私の父の)、手籠めにされて以降、貴族というもの、それ自体を疎んじているはずで。

 それが、なぜ?

「……おねえさま? ご気分がすぐれませんか」

 演技なわけがない。

 こてりと首をかしげている、その顔。如何にも心配です、と、大丈夫ですか、と、そんなことを言いだしそうなそれが。将来のゆがみをしってもなお、私はそれが、器用に被られた仮面のものだとは思えなかった。だって、まだ九歳だ。

 直感。

 か、なにか。そうじゃない。これ、つまり……昨日の私が倒れたせいで、たぶん、イベントがつぶれた。

 そう、初対面では本来、ヴィオレットは、このちいさくうつくしい少年の、その頬を。思いきり、張るのだった。この少年が、床に倒れこむくらい、強く。

 だから、かわった? たった、それだけで?

 わからない、が、相違点はほかに浮かばない。

「おねえさま、侍女かなにか、呼んできましょうか」

「……ひつよう、ないわ」

 気味が悪い。いがまれていたほうが、何倍もましだった。これが、ずっと続くのか? 今後?

 いまこの瞬間でビンタのひとつでも食らわせれば、修正が効くのだろうか――いや、しかし、果たして原作に添わせる必要があるのか? 私が悲惨な死を迎える可能性のある、それに?

 どちらのほうが、益となるのか。思考は、いっしゅん。

 ……ほうっておけばよい。そも、前世の影響で暴力を振るいたいとまでは思わなかった。たとえ、私が望んでいた、フォスター侯爵の地位を奪っていくような男であっても、暴力で従わせるのは、品がない。

「……それより、おまえ。半分しか血の繋がっていない女を、姉だなんて」

「半分しか? 半分も、ですよ」

「私はおまえのことなど、認めていないの。家族ごっこならお父様とやってちょうだい。きっと可愛がってくれるでしょうよ」

 手を上げようとは思わなかったが、棘のある言葉までせき止める気にはならなかった。だってこれは、本心だ。

「わかったのなら、とっとと出ておいき。おまえには教育が足りていないのだから、せめて私を不快にさせないように、ひとつでも多くの事柄をおぼえなさい」

「……では、おねえさま。ぼくが優秀で在れたら、褒めてくださる?」

「褒める……?」

 馬鹿げたことと思いつつ、瞬で否定できなかったのは、ついぞ父から褒められることのなかった私が脳裏をかすめたからか。

 フリーズは一瞬。それはなにも、逡巡していたわけではない。悲しくても、くやしくても、泣くことなんてなによりも自分が一番ゆるしてあげられなくて、親の膝の上で甘えて、褒めてと乞うような、そんなひくいプライドを持ち合わせてもいなかった、そんな幼少期のころの私が、僅かに首をもたげただけ。

 それを、どう受けとったのか。アルザードはにこりと微笑みを残して、大人しく去っていた。

 窓をたたく小雨は、すっかりとあがっていて、雲の切れ間から、日差しが降り注いでいた。

 乾いた涙のすじを、指先で追った。

 私の憂鬱はきっと、アレがいる限り、アレへの嫌悪で塗り込められるのだろうな。


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