2話(過去①)-はじける
「不相応なお仕着せがまあ、ずいぶんとお似合いですこと」
腹に、なにかしらのわだかまりがあった。それがなんなのかもわからぬまま、まだ小さな、十にも満たぬその子供に皮肉の言葉をささげた。
自覚している思いは、傷ついてしまえばいい――そんな悪意だけ。それだけが、いまの私のすべてだっていうのが、たしかなこと。
父が連れてきた子供。私にも、父にも、まるで似ていない、愛想のないお人形のような男の子。なにを考えているのかまるで読めない、深い色をしたひとみ、夜中にたたずんでは見つけられなくなりそうな、闇色のさらりとした髪の毛。にこりとも笑わないからこそ、よけい強調される、整った顔立ち。
はらちがいの、おとうと。
存在だけは、しっていた。なにせ屋敷の中で、その存在は公然の秘密となっていたものだから。私の耳にむやみやたらに吹聴してくるような、そんな恥知らずの使用人はいなかったものの、かといって、その存在が耳に入らぬようにと、私の耳を閉ざしてくれる大人もまた、いなかったもので。
聡明でうつくしい、庶民の子供。侯爵さまとは対の色をした髪色の少年。
よく聞いたフレーズだ。
さて、それがなぜ、ここにいるのだろう。父は、フォスター侯爵は、彼を認知しなかったはずなのに。
あさっぱら、父の執務室に呼び出されたときからいやな予感はあったのだ。それでもまさか、これを紹介されるだなんて、想像もしていなかった。
「ヴィオレット。この子供は先日、母親を病で亡くしてね。それで、私が引き取ることにしたんだ。ほかに身よりはないようだから。正真正銘、おまえとは血がつながっているのだから……仲良くするんだよ」
「お父様――それは、つまり。これを、次期侯爵にすると、そうおっしゃっておいで?」
「そうなる」
くちびるがふるえた。
それは私のものだったはずじゃないの――という、ささやかな糾弾は、果たして通じたのか。いや、通じているはずもない。父は、私と似た顔を、すこしもゆがめることなく、悪びれることもなく、うなずいたのだから、笑ってしまう。
父の隣にちょこんと立つそれ。
それが、私の望んだ椅子を奪うの? 私にくれると、約束していたのに。
男子の直系がいない場合にのみ、女子にも継承がゆるされるそれを、私がどれほど……どれほどのぞんでいたと、それを知らぬお父様ではないじゃないの。
黒い瞳を、にらむ。
この男が、私の地位を脅かす人間だという、それだけがいまの、憎らしい真実。後継者が、私ではなく、この、庶民の胎から産まれた人間へと移行される。男だという、ただそれだけで、私のいままでの教育も、矜持も、なにもかもを、これが、奪い取ってゆく!
これは、予感だ。
怒りで、視界が赤く染まってゆきそうだった。父はどうして、私の怒りなど、気付かぬのか。あなた、あれほどまでに私に教育をささげていたくせに。それをひとこもなしに、なかったことにすると言うの。
私の心のなかの嵐など、父は素知らぬ顔で、それに視線を向けた。
「アルザード、挨拶を」
アルザードと呼ばれた少年は、父の隣から一歩、私の方へと足を踏み出した。
そのとき。なぜか、ふと。
――あ。
――私、は、これ、を、しっているな?
既視感に、襲われる。しっている。アルザード・フォスターという文字のつらなりを。その怜悧な顔立ちを。このやりとりを。いま抱いている嫌悪を。これの将来を。私の、いきつくところを。
だって、見たことがある。
「はじめまして、おねえさま」
ふわりと、それが笑んだ。どこまでもわざとらしい、子供らしからぬ、社交辞令じみた種類の。
うつくしかった。
子供に対する表現として、それがただしいのかはわからない。けれども、たしかに。たしかに、私は、わたし、は、その笑顔にひととき、見ほれていた。
高揚と、絶望。
わかるか? 私は、私が高揚してしまった事実に、絶望しているんだ。
「どうして……」
口が動く。自然のうち、自分のてのひらが、心臓あたりの衣服をぎゅうとにぎりしめ、しわをつくった。私のこころの奥底が、腹の底のわだかまりが、頭の奥のいらだちが、みるみるうちに、じわ、と音を立てて溶けていった。ゆっくりと、でも、確実に。その、事実に。体中から、血の気が失せていく。
私ではない、わたしのこころが、さけぶ。
アルザード! わたしのすべて!
身体がよろめいて、けども侯爵令嬢の矜持が、簡単に倒れることをゆるさない。
なんだ、これは。この、感情の奔流は。アルザードに向ける、これは。
私の様子は、きっと目に見えておかしかったと思う。でも、父はなにも言わぬ。気付いていないのかもしれなかった。たしかにこの、深い海の、同じ色をした瞳は、見つめ合っているのに。しらなかった。とうさま、私には興味が微塵もないのね。
用済み? 笑える。それでも、ひとの親かよ。
柱がひとつ、消え去ったみたいな、そんな感覚。
自覚すると、すとんと、膝から力が抜けていく。その間際――私は、アルザードの顔を、見た。なにを考えているのかまるでわからない、光のとどかない、海の底のようなひとみ。
目が合う。私のことを、じいと見つめている。きっと、私が口を開かねば十分でも二十分でもそうして見つめ合っていただろう――そう思えるほど、瞳だけは真剣な色をたたえていた。
けれども、それも長くは続かない。アルザードは目をまたたき、井戸の底のひとみが、隠される。
「……おねえさま?」
いぶかしむ声。たぶん、見つめ合ったのは、数瞬。それでも、彼はめざとく、私の異変に気付いたようだった。どうしておまえは、すぐに悟るんだろう。
私が床にくずれおちるのと、彼が私に駆け寄るのは、ほとんど同時だった。
「……おねえさま、なんて……」
おぞましいひびき。
それが、どこまで言葉になっていたかは、わからない。私はその瞬間に、意識を飛ばしてしまったから。
・
パン、とはじけて、それから、記憶はひとつになる。
――『知った』こと……いや、『思い出した』こと? 私ではない「わたし」のこと。つまり……前の生、の記憶の断片。起きたばかりの夢のように、ともすればすぐにでももやになって消えてしまいそうなそれを、なんとか必死に、つなぎとめている。
前の生のわたしの記憶と知識をかいつまむと、つまり。
この世界は、前の生の私が推していたゲーム……『アヤメの泡恋』に酷似している……というか、まんま、それだ。
典型的な成り上がりストーリーで、ヒロインは市井で生まれ育った天真爛漫な女の子。あるとき彼女がサンチェス男爵の庶子であることが判明し、貴族学校に編入し、恋をするというのが、おおまかな流れだった。私……ヴィオレット・フォスターはその中に登場する、悪役のポジションを賜ったキャラクターのようだ。主に登場するのはアルザードの√だが、そこでいろいろな意味で活躍する、高飛車で性悪な侯爵令嬢である。まあ現状、異はない。確かに自分の底意地が悪い自覚はある。
息を吐いて、姿見の前に立つ。
きらびやかに波打つ白髪と、深い海のような青い瞳……まだ齢十の、この姿。将来はきっと悪女にちがいないと確信できるような、きっと吊り上がった目元や、紅を引いていないにも関わらずに毒みたいに赤いくちびる――。この、美少女の姿。見覚えがあるなんてものじゃない。アルザードの回想シーンのスチルに――つまりはさきほどの一幕――たしかにいたのだ。
アルザードは、私の父の、不義の子。母親はどこぞの庶民で、その見た目の美しさを見初められて、手籠めにされ、そして産まれたのがアルザードだったはず。ゲーム中では度々母親の生き写しだと言われていた彼は、認めてやるのは癪だが、非常に整った顔をしている。
濡れ羽色の髪と瞳も、にこやかにほほえんでばかりいるかんばせも、かたちのよい、うすいくちびるからこぼれるお優しいことばたちも、きっと、令嬢が放ってはおかない。まだ九つそこらなのにその片鱗は見て取れた。ああ、気に食わない。
だれかが昔決めた法律のせいで、侯爵の権限は今後、あれに移ることになるのだ。たとえ私が世界一の才女で、あれが世界一の間抜けだったとしても覆らぬのが法というものだ。困ったことに。
とっ散らかりそうになる思考を、必死でかき集める。
私はあの男――アルザードのことを、この上なく嫌悪している。庶民の胎から産まれてきたような人間が、私の立場を、なんの労苦なしに食らうのだから、嫌悪が簡単に消えるはずもない。
……たとえ、前の生のわたしの最推しが、アルザードだったとしても。性悪キャラ最推しの前世のたましいが、フォスター姉弟万歳といっているとしても。
そのころの意識があるわけではない。ただそれを、物語を読んだときのように、それよりも近しい距離感で、受け入れているだけ。なんか、情念、みたいなものが私の器に、たましいに、そこかしこに、根付いて、こびりついてしまっているのだ。けがらわしいことに。
『はじめまして、おねえさま』
私のなかのなにかが、しあわせになれ、と言う。このままだとろくな生にならないのだから、おまえの死亡率はすさまじいのだから、霞のような記憶を頼りに、それを回避しろと。……具体的な策も寄越さずして、よくもまあそんなことが言えるものだ。
そしてあわよくば、アルザードとくっついてくれと。前の生のわたしは、近親相姦厨なもので、そんな妄言を平然と口にする。
目が覚めれば、記憶なんて消えていく。それが夢ってものでしょう。
だから、無理に決まっている。思い出した記憶のなか、すでに私とはまるで関わりのない√なんて、頭から消えかかってつかめなくなりそうなのに、こんな状況で、どうやって今後のできごとを回避しろと言うのだろうか。
前の生のわたしであっても、関係ない。だれかに指図されるのだなんて、死んでもごめん。
不確かなハッピーエンドも、凄惨なバッドエンドも、私にはいらない。
ほしいのは、私が確固とした意思を持って生きたという、その事実だけ。