16話(幕間②)-各
アイリスは、紅茶を飲んでいた。頬に手を当てながら、困ったように眉を下げて、ヴィオレットさま、ごめんなさい、とせせらいだ。
謝られる理由があったのかと、考える。むしろこちらが謝罪をする理由は思い浮かべど、彼女からのそれを受け取る理由は、まるきりないように思えた。
「だってヴィオレットさま。帰省の予定はないとおっしゃっていたのに。私があんな手紙を出したせいで……」
「ああ……」
だってそれは。口にしようとして、適切な続きを紡げる自信がなかったものだから、紅茶を飲んで、ぼやかすことにした。我が領地の、清涼感のあるそれとはちがう、果実を絞ったかのような甘みのある味わいだった。サンチェス領でとれるそれも、嫌いではない。
サンチェスのお屋敷は、フォスターに比べればちいさく、けども温かかった。そも彼女は、男爵に見放され市井にいたわけではないので――詳しくはおぼえていないが――屋敷内におだやかな空気が漂っているのも、当然だろうか。少しだけまみえた男爵は、彼女によく似ていた。
「……アルザードさまのこと、お聞きになりにきたのでしょうか」
オリーブの瞳が、ゆれている。
私は目を瞬いて、そうなのだろうか、と我ながら心中で首をかしげた。彼女の屋敷へ来訪を決めたのは、私。でもどうしてそうしようと思ったのかまでは、自分の心を掘り下げてはいなかった。ただ、そうしなければいけない気がしただけ。言い換えれば、なんてことない、ただの衝動だ。
応接間には、私たちふたりだけだった。使用人を下げたのはアイリス自身で、彼女自体はそれについて語るつもりでいたのかもしれない。聞きたいかと問われれば、そこまで興味はなかった。そもそも必死になっていたら、彼女からもらった手紙を解読した方が手っ取り早い。
では、なぜ。そう思うと、迷宮に捕らわれそうになるので、いまこの場ではふさわしくはないだろう。
「……恥知らずと、わらうでしょうか……」
「……?」
頬を染めて、彼女は、私を見つめた。恋する女の顔だった。
「アルザードさまは、ひどくていらっしゃる……でも、わたしはそんなあの方のことが、やはり好きなのです」
「……奇特な子」
「ええ、はい……。わたし、いつかヴィオレットさまにあの方が欲しいと、そう言いましたけれど……あの日、わたしのことを見つめるかれは、かれではないと思ってしまったの。だから……」
どうしたらいいのか、とそれは苦笑した。つねよりも落ち着いた、すこし大人びた顔で、女の顔だった。
アイリスは、アルザードと彼女のあいだにあったなにか、それを私自身がしっている前提で話している。そも手紙を送ったのは彼女なのだから、当然と言えば当然ではあるけれど。
なぜか、そのまろい身体に目がいった。
アイリスのそのちいさな身体を、アルザードは拓いたわけではないと。そういっていたけれど、それは、ほんとうに?
ひどくていらっしゃる、といった彼女の声に、呪詛は乗っていなかった。文面ではあらぶっていた彼女であったが、その声音はむしろあまやかな砂糖菓子のように、ふわりと溶けては消える類のものに聞こえた。
「あんなことをされても、かれのことが、わすれられない、」
聞こうか、否か。私が目を伏せると同時に、記憶のなかのアルザードが、そうっとささやいた。
じゃあ聞かない方がいいんじゃないですか? 彼女の尊厳のためにも、あなたの精神衛生上のためにも。
その声を想っているうちに、彼女はうつくしい笑みを浮かべて、いった。
「でも、かれは、ヴィオレットを見ているときが、やはりいちばんおうつくしい」
・
休暇の間に行われた王家主催の舞踏会で、かれにふと、たずねてみたことがあった。
婚約者のいないかれが、王族の親戚と一番にダンスをともにした、そのあとのこと。無作法にも、一曲いかが、と誘う私に、かれはちょっと驚いた顔をしたのちに、うなずいてくださった。
周囲のざわめき、弟のひりつくような視線、全部が気にならなかったのは、たぶん、あるていど吹っ切れてしまったからだった。良いか悪いかは置いておいて、それは私に久しぶりに訪れた変化と言えただろう。
「俺と彼が仲が悪い理由? べつに、なんてことないよ。向こうはどうかしらないけど……俺の側がアルザードを得意としてないのは、ひとえに彼の人間性だなぁ。女性の顔に傷をつくる男は、ちょっと認められないよね。素でヒいてる」
「……しってらしたの?」
身体を寄せながら、ちょっと上にある顔を覗く。かれもまた、私のほうを……おそらくは傷あとのあるあたりを、見つめていた。
かれはなんともなさそうな顔で、頷いた。
背後で、荘厳な音楽が流れている。楽師たちが楽器を打ち鳴らし、それに合わせながら、皆が躍っている――私たちも。公然のなか、秘密の会話は、これがいちばんさりげない形だろうと思った。
ひさしぶりに社交の場にあらわれた私は、目立ちすぎるから。死亡説なんてかれの言い出した冗談かと思っていたが、あながちほんとうであったのかもしれない。
「まあ、あれも俺に対してそんなに隠していなかったからね。暴いてやろうとも思ったけど、きみ、たぶんそれを望んでいなかっただろう」
「……望んでいなかった……?」
「隠れるように屋敷に閉じこもって、あれの承認を満たしてやっていたじゃないか」
「……」
「仮に俺が同じことをしていたら、全力で逃げたんじゃない?」
この方も、アルザードとおなじことを言うのか。私がみずから、あれに捕らわれていたと。
彼らが聡すぎるのか、私がわかりやすすぎるのか、あるいは、彼らが共通の幻覚を見ているかのいずれかだが――いまさらだ。アルザードに丁寧に答えあわせされたあと、私がいまさらなにを言っても、負け犬の遠吠えに近しいなにかにしか、ならない。
「きみのこころはアンバランスだよね。きみは侯爵になりたがっているのに、同時にアルザードに制圧されていることを、良しとしていた。そのふたつは両立しないのに。……でもまあ、しあわせそうではなかったから、どうなんだろう。そこがまだ救いだったのかな。あのとき、きみがすこしでもしあわせそうだったら、学園に呼び戻すことも、学園でしたあの話も、どちらもしなかっただろうよ。……ねえヴィオレット。侯爵という夢は、きみに希望をもたらしただろう?」
「ええ」
「でもそれも、アルザードのもとから逃れる言い訳としては機能しなかったみたいだ」
「……」
シュウェルツは、悠然にほほ笑む。くるりとターンする、そのとき、私の首筋に、さりげなく鼻を寄せた。
「今宵も、ライラックの香りがする。ほんとうに、あれと寝ていないの?」
「……おなじ馬車で来たから、においが移っただけでしょう」
そう、とうなずいて、ぬくもりが離れる。
「ヴィオレット。アルザードにつかまってなんて、やらないでよ。俺はきみが侯爵になるのを見てみたい」
「……口説いてます?」
「はは、まさか。これはね、損得の話だよ。将来的に見てさ、優秀ではあるけれど愛した女の顔を焼くような男と、優秀で成りあがった女、どちらを信用して用いたいかっていう、そういう話」
自明だろう、とかれは謳った。口にして並べてみると、たしかにと納得せざるを得なかった。
王子さまのささやかな期待には応えたかったし、そも学園に連れ戻してくれた恩や、かれの将来の望みを共有してくれた、その歓びだってある。けれども、果たしてそれが実現できるのかどうか。
ふたたびアルザードによってふぬけにさせられた私には、まだ考える時間が必要なように思えた。
音楽が鳴り止み、そして私たちの距離は離れる。
かれも私も、それ以上はなにもいわなかった。