15話(現在⑧)-心象
場所をうつして、庭園。
私がこれとおなじ、閉ざされた空間にいることを拒絶したら、では、と言って連れ出されたのがここだった。いつ訪れてもうつくしく咲いている薔薇たちをながめながら、歩く。背の低い薔薇の生垣は、どれも輝かしいほどの笑顔でもって私たちを迎えているようだったが、私の心はそれを見たって、ちっとも浮上されてはくれない。
こうして二人で庭園を歩くというのは、初めてだった。
「姉さまは、また僕の妄言とおっしゃるのでしょうし、僕はべつにそれでもいいんですけどね。姉さまには、僕が必要なんですよ」
アルザードは、先ほど自室で告げたことを、もう一度焼き直して、かみ砕く。
もうすっかり、アイリスのことは話題にのぼらなかった。アルザードからしてみればその程度の執着なのだろうし、私も今、彼女のことを考えてあげられるほどの余裕はない。
昼の日差しが、私を焼く。くらくらと視界がぶれて、たまらない。アルザードの差す日傘に入りながら、いま、私はこれのてのひらの上で転がされているのだろう、と思った。癪だが、認めざるを得ない。認めなければ、話は進まないだろう。
「なにから話せば、あなたは納得してくださるのか……」
「……おまえは、私が、私の顔を焼くような男に惚れる、そんな女だと言っているの」
「そうですよ」
白布の張られた傘を、くるりと回した。なにをいまさら。そんな副音声が聞こえてくるほどの、あっさりとした肯定だった。
「だって、そうじゃないですか。あなた、言えばよかったんですよ。糾弾すればよかったんです。だって僕、特別な隠蔽なんてしてないですよ? 火ばさみだってあの場に置きっぱなしで……まあ虚言は吐きましたけれど、それでもそれは、姉さまが僕のそれを否定なさらなかったから、信じられたんだと思いますよ。姉さまが証言すれば、僕は気狂いとして施設にでも送られていましたよ。そうしなかったのは、姉さまの判断で、選択だ。そこに僕をかばう以外の意図があったんですか? だとしたら、それはなに? ……ほら、こたえられない」
鼻歌交じりに、アルザードは笑う。無垢さは残酷だ。これはなんでもないように、私の心の鎧を、剥いでいく。私があえて、目を向けないようにしていた部分だった。
「姉さまのくちびるを奪ったときだって、寝台にもぐりこんだときだって、ひとこと誰かにそれを告げるだけでよかったんだ」
生垣のなかから一本、赤薔薇を抜き取った。
ていねいに棘の抜かれているそれを日にかざして、アルザードはいままでにないくらい、しあわせそうな顔を浮かべていた。
日傘は私にたくされ、とうの本人は陽の光を浴びている。よるのなかにいるのが似合うようなこの男には、光の下だって輝かしいほどの魅力を振りまくのだと、くやしいながらに認めざるを得なかった。
「姉さま。さきほど、安堵したでしょう」
薔薇の一挿しが、私の耳横に添えられる。視線だけで、続きを問う。口を開く余裕すらなかった。
「アイリスのこと。僕が彼女を抱いていないと知って」
「……」
「そもそも、なぜ帰ってきたのですか。僕を叱責するため? ――まさか。あなたがそんなタマであるわけない。ただ、不安だっただけだ。確かめたかっただけだ。そうせざるを得なかっただけだ。だってあなた、一度だって彼女を心配するような言葉を吐いていない」
やめてくれと、さけんでやりたかった。
これは、いつもそう。
在りもしない妄想を、願望を、――隠しておきたい真実を、こいつは、自分のなかで勝手にさだめて、私に押しつけてくるのだ。心の奥、必死に閉じ込めていたそれを、いちまいいちまい、ていねいに剥いでいく、それだけの作業。拷問だった。私が白旗をあげようとも、やめてなんてくれない。だってこれは、こいつなりの制圧の作業だから。
それがわかっているから、私は、これの暴力とも思えるような答え合わせを、しずかに聞くしかなかった。
「姉さまのこころは僕のものだよ。たぶん、一目見たときから。……ちがいますか? ……ああでも、殿下に対しても、こころをささげていたかもしれない。そこのところ、どうです? そこに関しては、ちょっと、自信がないんですよね」
前の生の私の影響だ。愛とまではいかずとも、シュウェルツを二番目に推していたわたし。
「だから、顔を焼いて、試しました。――あなたは僕から離れていかなかったから、ゆかいで。ああこのひと、たぶん僕のために命すら捧げてしまうんだろうな」
傘をかたむけて、それからの視線をさえぎる。ささやかな抵抗だったが、アルザードはかまわず歩きだして、ふたたび妄想を口にする。
「いつか姉さまは、私を掌握できると思うなと、そうおっしゃいましたね。それは、正しい。姉さまはたしかに、僕に掌握なんてされたくないんでしょうね。でもたぶん、僕がそれを望んだら、明け渡してしまう。そのアンバランスさが不思議で、いとおしい」
「……よくしゃべるわね」
「今日は記念日ですから。あなたがようやく、僕の名を口にしてくれた」
傘のかげに、ひょこりと入りこんでくる。
強制的に、視線が合わさる。物語のお姫様みたいに、顔を上気させ、おのれの持つすべてで、アルザードは歓びを表現している。
「あなたに名前を呼ばれる日を、待ち望んでいた。あなたがようやく僕を強く認識したあかしでしょう。……だから、あなたが名を呼んでくれたら、その心を剥いでやろうと。そう思っていました。長かったな。姉さま、いま結婚の適齢期じゃないですか。暴くよりもまえにどこかにいってしまうんじゃないかとひやひやしましたよ?」
アルザードの黒曜のひとみに、私がちいさく映っている。なすすべなくなって、途方に暮れた子どもみたいで、なるほど、このさまは滑稽だ。
「姉さまと初めて会った日ね、あったでしょう。あのときのあなたは、これでもかという憎しみの目で僕を見て――それが、ふと、溶けた。深い海のひとみに、光が差した。何故だろう。不思議に思って、次の日あなたに会いに行ったとき、あなたは泣いていましたね。その海の瞳から、あまたのしずくをこぼしていらっしゃった。それを見て、なんだか……なんだろう、たまらなくなってしまったんでしょうね。だって僕は、生きていていままで、そんな矛盾を抱えたものを見たことがなかったから。言葉にできないような感情を向けられたのは、初めてだったから」
「……」
どうして、これの執着が私に向けられたのか。物語のヒロインではなく、本来反目しあうはずの私に。
現在この場に立っている私のせいか、前の生のわたしのせいか。
なんてことない。ふたつの人格が融合したからこそ、これは私に惹かれたのだ。私が前の生の影響でこれを憎み切れなかったように、これもまた、前の生の影響をぞんぶんに受けていた。
アルザードはふたたび私の手から傘をうばって、ふらりと歩きだす。うごかずにいたら、かれの手が私のそれをすくったから、かれの歩調に合わせざるを得なくなった。
「姉さまが僕を心の底から嫌悪するのもほんとう。僕を心の底から愛するのもほんとう。……最近は、後者が勝っているようにも感じるけど、どうなんでしょうね。まあ、どっちでもいいんですけど。僕は姉さまを愛しているが、正直、姉さまからの愛はどうだっていいんだ。いつもね」
私は、髪に挿された薔薇を、抜いた。愛の告白に利用されるような、その説得力が十二分にある、力強くみずみずしいそれ。庭師が丹精をこめて咲かせたのだろう花が、途端に気味悪く思えた。私がそれを地面に落としても、彼は一瞥くれるだけで、特になにも言及することもなかった。
「……じつの姉相手に、なにを言っているのか」
「姉さまは、都合の良いときだけそれを持ち出しますね。半分しか血はつながっていない」
「半分も、だわ」
いつかのやりとりをなぞったそれに、アルザードは目を細めて笑った。なつかしそうに、少年のような顔立ちで。
私との思い出を、抱えている。そして私も、あたりまえのようにこれとの思い出を忘れていなかった。抱えていた。前の生のなかにある、どんなにか重要かもしれないそれを忘れてなお、ささいな、忘れたって支障ないような、かれとの記憶だけは。
「……おまえの運命が、アイリスだったならよかった」
「そう、それが不思議だった。あなた、やけにそれを推しているようでしたね」
「……気付いていたの」
「はい。だって姉さま、普段のあなたなら、侯爵の人間として付き合う人間は選べと、そうおっしゃるでしょう? そういう小言がなかった時点で、まあ、なにかしらの作為があるだろうと」
わずかのあいだ、目を閉じる。どうしてこの男は、こうも聡いのだろうか。私が口にせぬ想いを、簡単に見つけて、暴いてしまうのだろうか。
「意味なんて、ないけれど。でも、おまえたちの境遇は似ていたから」
「ああ、そういう意味ではたしかに運命的ではあったかもしれませんね。僕はたいがい、あなた以外に興味はありませんが……でも、そうですね。めずらしく、嫌いではなかったかも」
でもねえ、とアルザードは言う。やはり、どこまでも軽く、あっさりとした口調だった。
「運命って、血のつながりよりも強いんですか? それはしらなかったな」
――ああ、しんでしまいたい。
わきたつこころ、からだ。震えるそれらを、いかにして制御せよと言うのか。
彼がていねいにはいでいった、私のこころ。残ったのは、なまなましくいろどられる、私の隠されていた本心だけだった。
しかしてやはり、私はこれが愛であるという、その一点だけはどうにも、認められない。
だって愛ならば、世界はかがやいて見えるのでないの。おとぎ話のように、めでたしめでたしで終えられるのではないの。……私は、アルザードと迎えるハッピーエンドなんて、しんでもごめんだった。それはやはり、ちがうのだ。きょうだいだからとか、そんなことではなく、ただ、ヴィオレットとしての矜持が、それを許せないのだ。
にこりと、それがわらっている。
近年まれにみるほど、正気の笑みだった。