導きの北極星
世と世のあわいにある王国の空は常に夜でした。
月が出るのは三十日に一度きり。人々が『輝きの日』と呼ぶその日以外は星明りのみが人々の足元を照らす唯一の光でした。
この国には遥か昔、名無しの魔女が告げた予言が言い伝えとして語り継がれていました。
『いつか北斗七星がこの国を隅々まで煌々と照らすでしょう』
民は皆その言い伝えを信じてはいましたが、北斗七星といえど所詮はただの星明り、急に明るくなることがあるはずもない、明るくなったところでたかが知れていると割り切った上で、北斗七星が空に輝く季節には夜通し歌えや躍れのお祭りを開いては、夜闇の暮らしを楽しんでおりました。
そんな風に民が踊り明かす夜を過ごすはずの、ある日のことでした。
その日は本来、月が出るはずの日でした。しかし雲一つない空を月が照らすことはありません。民たちは不思議に思いながら、松明の明かりで少し遠くなった星空を見上げておりました。
あっ、と声があがったのはいつの頃だったでしょうか。おい、あれを見ろ。名もない男が発した声につられて指さした先を見た人々は、彼と同じようにあっと息を呑み、やがてその驚きの声は感嘆、そして歓声へと変わっていきました。
彼らが見上げたのは流れ星でした。それもひとつやふたつではありません。全天の星がすべて流れ落ちていると錯覚するほどの大流星群です。それは北の空を埋め尽くし、一日中美しい光の線を描いておりました。
そんな風に民たちが歓喜の声をあげる中、王宮ではひとつの産声がありました。王妃が胸に抱くのは産湯に浸かったばかりの女の子。この国の未来を担う、王の第一子が誕生しました。
王は娘の誕生に歓喜の涙を流しながら、城下の民が歓喜している北の空の様子を見上げて、そのあまりにも幻想的で摩訶不思議な夜に何かの兆しを予感しておりました。この娘はきっと、何かのしるべとなる運命を背負った子なのだろう、と。
流星の中でも見失わない、しるべとなる星。その名をとって、王女はポラリスと名づけられました。
ポラリスは美しく健やかな少女に育ちました。
髪は恒星の熱さとその冷たい光を体現するかのようなプラチナ、瞳は月の輝きを湛え、肌は白雪のように白く唇はまるでバラの蕾。その場にいるだけで眩しさに目を細めてしまうような、それは美しい王女へと成長しました。
民も歓び、北斗七星を讃える祭りの歌はいつしか王女の美しさと世界を変える使命を語る歌へと変化していきました。
いつかこの美しき王女が、北斗七星を、そしてこの国を明るく照らすのだろう。王も民も、そんな想いを抱いておりました。
一方、王女はというと。
「疲れたわ……」
夜会が終わるとドレスが皺になるのも厭わず、ぼすんとベッドへと倒れこんだ。それを諫めるのは二本足で立ち、かっちりとフォーマルスーツを着こなしたウサギ、従者のピエタだ。
「姫様、いけません。そのドレスは陛下が特別に誂えたものです。眠るのであればお召替えを」
人の三分の一ほどの背丈でぴょんぴょんとベッドの周りを飛び跳ね、精一杯ポラリスに忠言するが、しかしウサギとは元来愛らしい生き物、迫力のないその姿にはポラリスの重たい腰は動かない。
「貴方は口うるさいのだけが欠点ね、ピエタ。それがなければとても愛らしいのに」
「お言葉ですが姫様、わたくしはそれがお役目でございます故」
ほら、起きてください。そうベッドの周りを飛び跳ねられては気が散って仕方がない。ポラリスはのろのろと身体を起こした。
「だって、夜会って退屈なのだもの。愛想笑いで顔がどうにかなってしまうかと思ったわ」
ポラリスははぁとため息を零した。
「皆、わたくしの美しさを褒めるばかり。他に話題はないのかしら」
「それは致し方ありません、姫様。わたくしはウサギ故、人の美醜にはあまり明るくありませんがそれでも姫様が国で一番美しい方だと存じております」
「媚びた笑みの他人に言われるよりはウサギに言われる方がマシね」
ありがとう、とピエタを抱え上げ、ぬいぐるみのように膝に乗せて頭を撫でた。
「姫様、これもいつも申し上げておりますが、オスにそのように気軽に触れるのは控えられた方が、」
「それも聞き飽きたわ、ピエタ。大体わたくしにはウサギのオスメスの見分けがつかないわ」
ウサギの眉間に皺がよるのかは分からないが、人であれば硬く寄せられていそうな眉根をかりかりと掻いてやると、ピエタの長い耳から少し力が抜けた。本能には抗えないようだ。
しばらくピエタを撫でてぬいぐるみにはない温かみに少し心が緩んだのか、ポラリスは不意にぽつりと零した。
「……北斗七星の使命、だなんて。馬鹿馬鹿しい話ももううんざり」
「姫様……」
ポラリスの瞳には霞雲がかかっていた。肩を落としてぬいぐるみのようなウサギを抱くその姿はただの少女そのもの。その背に乗る期待の重圧は、ピエタも痛いほどに分かっている。
「貴方に弱音を吐いたところでどうにもならないのは分かっているのだけれど。『北斗七星を照らせ』だなんて具体性のない使命、どうしていいのかわたくしには分からないわ。そもそもそんな言い伝えにだって信憑性はないし、その使命を果たすのがわたくしだなんて決まったわけじゃ……」
だんだんと小さくなっていく声を遮るように、ピエタは短い前足で自身の頭を撫でるポラリスの手の甲に触れた。
「いいえ姫様。言い伝えも、北斗七星を導くのも、貴女が成すことでございます。少なくとも私はそのためにここにいるのですから」
ピエタは、ただのウサギではない。ポラリスが産まれた夜、王宮の門戸を叩いたウサギは、なんと予言の名無しの魔女から遣わされたという。世と世のあわい、色んな事象が揺らぎやすいこの王国でも立って喋る動物はそう居るものではなかった。王はこの不思議なウサギの来訪を、名無しの魔女からの祝福だといたく喜び、産まれたばかりの王女の世話係として正式に召しあげた。
「ただの野ウサギだったわたくしに、産まれたばかりの王女に尽くすよう言い含めて歩ける二本足と自在な言葉をくださったのは他でもない、あの名無しの魔女様でございます。わたくしの存在こそが、貴女が予言の方なのだという証明です。それとも姫様はわたくし以外に喋るウサギのお知り合いがおありで?」
「……いいえ、いないわ。そんな変な生き物、貴方だけで十分よ」
首を横に振るポラリス。未だその顔は晴れなかった。むしろ影を増したようにさえ見えた。
「だからこそ、なのよ」
小さく囁いた言葉は、ウサギでなければ聞き逃したであろうほどにか細かった。
「わたくしは何をすればいいの? 分からないわ」
「姫様……」
「このまま蝶よ花よと愛でられているだけで何かを成せるほど運命というものが甘くないのは分かっているわ。でもだからといって、何をすればいいのか、分からないの。……焦っているのよ、これでも」
ポラリスはピエタを膝からおろしてベッドから立ち上がった。
「ごめんなさい、ピエタ。情けないことを聞かせてしまって。着替えるからメイドを呼んでちょうだい」
「……はい、承知いたしました」
ピエタは入り口近くに置かれたベルをチリンと鳴らすと、別室に控えていたメイドたちが数人入ってくる。彼女らと入れ替わるように、ピエタは恭しく頭を下げながらポラリスの私室を後にした。
「ピエタ」
ポラリスの私室前にて着替え終わるのを待機していたピエタに声をかけたのは、王宮の侍従長。侍従の一人であるピエタにとっては上司にあたる存在に、ピエタは一瞬耳をぴんと立てたあと、すっと首を垂れた。
「王女殿下の様子はどうだ」
侍従長の言葉に、ピエタは一瞬言葉に詰まる。しかしそれを気取られないよう、頭を下げたまま何事もないような声色で告げた。
「連日の夜会で少々お疲れがみえるようです。とはいえこの夜会も北斗七星がのぼるこの季節では例年のこと。今晩ゆっくりとお休みになれるよう、リラックス効果のあるお飲み物を差し上げようと考えております」
「……ふん」
そつのないピエタの様子に、侍従長は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「それで、お前の方はどうなのだ」
「わたくしめ、でしょうか」
「とぼけるな。いつになれば名無しの魔女からの使命は届くのだ。それを受け取るのがこの神聖な王宮を汚す不気味な獣の唯一の仕事であろう」
ピエタは地面を見つめたまま、前足の先にぎゅっと力を入れた。
「だいたい、本当に名無しの魔女からの使いなのかも疑わしい。だから私は反対したのに陛下は何故かお前を重用する。まったく、いつ化けの皮がはがれるのやら」
はぁとこれ見よがしにため息をついてみせる侍従長にピエタはさらに深々と頭を下げた。
「国王陛下のご温情には感謝申し上げるばかりでございます。至らぬばかりのわたくしめではございますが、侍従の一匹として王女殿下のお顔に泥を塗ることがないよう侍従長様から侍従としての在り方を学ばせていただきながら精一杯執務にあたらせていただく所存でございます」
当たり障りのないピエタの様子が勘に障ったのか、侍従長が何事か言葉を重ねようと口を開いたが。背後のドアがかちゃりと開いてポラリスの着替えを手伝っていたメイドたちがしずしずと出てきたのをいいことに、ピエタはぴんと耳を立てた。
「王女殿下のお召替えが終わられたようです。このあとは明日の公務について王女殿下にお伝えしなければならないため、わたくしめはこれにて失礼を致します」
「……ちっ」
ピエタは侍従長にくるりと背を向けたが、人一倍よく聞こえる耳でなくても届いた侍従長の大きな舌打ちで、彼が苦々しい顔をしていることが如実に伝わってきてピエタは一瞬だけ瞳を伏せた。
ピエタが侍従たちの間でよく思われていないことは使用人たちの中では周知の事実だった。それもそうだ。王族の側近ともなれば侍従の中でも役職は上、その座を正体不明のウサギに盗られたと思う者は少なくない。
国王や王妃は誠実なピエタを信頼していたが、その後押しがなければピエタはいつでも王宮の外の野に放たれてしまうだろう。このまま、名無しの魔女からの使いという使命を果たせなければ、今すぐにでも。
しかし名無しの魔女はピエタに言葉を与えたあの日以来、一度もピエタに接触していない。焦っているのは、ポラリスだけではなかった。
チリン、と侍従を呼ぶベルが部屋の中から響く。ピエタはぴんと耳を立てて、少しだけ髭を撫でつけて身だしなみを整えて、ポラリスの私室のドアを開けた。




