玻璃の上で踊る
そこに初めて足を踏み入れた時、こんな美しいサンルームがあるのかと酷く驚いたことを今でも覚えている。
私が玻璃の伽藍堂で働くことになったのは、就職に失敗し、何もかもがどうでもよくなって、適当なアルバイトで食いつないでいた時だった。出会いのきっかけはそこそこ長くなるので、割愛するとして、働く決め手はお給料の良さだった。それだけこの店の給料は良い。掛け持ちしていたアルバイトの給料をまとめても、まだそれを超えるぐらいの金額を店長は提示してきたのだ。
けれど当たり前のようにうまい話には裏がある。最初、事務作業と雑務とだけきいていた仕事内容が、実際は妖怪やら神様への配達だったのだから。
霊感なんてない私にそんな仕事が務まるかと思ったけれど、実際やってみると彼らは普通の人の中に紛れて暮らしていた。私達が見えないのではなく、彼らが隠れているだけで、本当は誰もが見えるそうだ。
玻璃の伽藍堂は、妖怪や神様たちの何でも屋だ。同じアルバイトの、そもそも妖怪達にアルバイトという概念があるのかは分からないけれど、ウブメさん曰く、かつて妖怪達や神様が絶滅するほどの争いが勃発した時に、この玻璃の伽藍堂は作られたそうだ。
どの妖怪や神様にも属さない絶対的中立を保つこの場所に、彼らの最も大切な「名前」を納め、禁を破ったものは伽藍堂の主に名を食われる。そういう掟が作られたという。
そこから大事なものを預けるのなら玻璃屋へ、となったそうだ。玻璃の伽藍堂ができるとき、他にもいくつか掟が作られたそうで、その中に「人間、半妖は襲わない」という掟があるらしい。だから、この店には人間を配達人として雇うようにしていて、丁度前任者がいなくなったところに私が現れたということだ。ちなみに前任者の事は、ウブメさんも店長も何も言わないから、どうして彼、もしくは彼女が辞めたのかは知らない。多分、知らない方がいいのだろうと思う。
私がこの店で働き始めたのは昨年の10月の頃だから、今は3月、もう半年が経つ。ここで私が「三月」と名乗っているのは、本名が「弥生」だからだ。妖怪や神様達にとって本名は命のようなものだから、誰も仲間以外に本名は明かさない。それに則って私も偽名を使っている。そして、なぜ弥生というのかというと、私が3月に生まれた。ただそれだけだった。
春の少し前、まだ肌寒い、花冷えの日々。私が生まれた月は、これからやってくる始まりの季節なのに、いつも全てを奪っていく。家族も、未来の希望も。
「おはようございます」
「おはよう、三月ちゃん」
いつも出勤するとウブメさんがカウンターに座って、紅茶を飲んでいる。店は小さなバーのようだ。濃い茶色で統一された店内には入って右側に大きな窓が一枚あるだけで、いつも薄暗い。
夏はそれなりに明るいのよ、とウブメさんは言うけれど、昼間より照明がつく夜の方が明るい気がする。カウンターはそんなに広くない。四人ほど座れるぐらいの長さに、ランプとペンが置いてある。そこだけ見れば上品なホテルのフロントにも見え、一日中そこに座っているウブメさんに良く似合っていた。
店長とウブメさんはこの店に住んでいる。ウブメさんは自分の事を居候というけれど、店長はウブメさんの事を様付けで呼ぶ。二人がどんな関係か知りたいけれど、何度も言うとおり、この世には知らない方が良いことがたくさんある。特に職場という狭い世界では。
ウブメさんは、私と同い年ぐらいに見える。多分、人間ではない。でも、名前の通り「姑獲鳥」でもないだろう。たぶん、勝手な推測だけれど、ウブメさんは幽霊だと思う。とにかくウブメさんの肌の色は透き通るように白く、いつもこの薄暗い部屋の中で浮かんでいるように見えた。だから妖怪というより、幽霊。そう思ったのだ。けれど、彼女はやってくるお客さんを含め、この店の誰よりも、遥かに自分に近いように感じる。人間的なものを彼女の中に感じられるのだ。
ウブメさんもそうなのか、働き始めた頃、店長のように様付けで呼んだら酷く困った顔をして、様はやめてね、と言われた。確かに「様」なんてお客さんか、よっぽどの相手にしか使わないものだ。だから店長がウブメさんを、ウブメ様と呼ぶことにいまだに慣れない。
私はウブメさんに挨拶をして、カウンターの向こうにある、サンルームへと進む。薄暗い室内から一転して、太陽の光が直接に降り注ぐその部屋に入る時、私はいつも目を細めてしまう。
なぜここが玻璃の伽藍堂というのか。多分、この部屋が由来なのだと思う。天井も、壁もほとんどガラス、つまり玻璃でできているのだ。そして不思議なことに継ぎ目がない。晴れの日も気持ち良いけれど、雨の日の方が不思議な気分になる。外にいるのに、雨が避けていくような感覚がして、それはプラネタリウムで紛い物の、けれど満天の星空を見た時のような感動すら覚える。
サンルームは円形に作られている。それに合わせているのだろう、部屋の中央には大きな筒の形をした棚がそびえ立っている。私はこんな大きな棚を見たことはない。天井に着くのではないかと思うほどの高さに、それ自体が一つの建物に見えるほどだ。そこに全ての「名前」が収められていて、取り出すことは本人以外、店長すらできない。
どういうカラクリでそうなのかは分からないけれど、ここは人間の世界ではなく、妖や神様の世界なのだから、詮索するだけ無駄なのだ。私達人間と、彼らの見た目は人ととても似ているけれど、中身はほとんど違う。それだけは、半年のバイトで良く分かっていた。
棚の向こう、部屋の一番奥に店長のデスクがある。出勤したら挨拶をするようにしているけれど、例えしなくても店長は気にしないのだろう。この店に足を一歩でも踏み入れたら、店長には分かるのだから。
「おはようございます」
「おはようございます」
オウム返しのやりとりに、感情はほぼ含まれていない。この人はあまり私には興味がないのだ。それはとても楽だと思いつつも、例えばいきなり明日から来なくてもいい、そう言われても不思議ではない恐ろしさがある。
もう慣れたとはいえ、自分が何に雇われているのか分からないというのは中々薄気味が悪い。だから少しは安心できる情報が欲しいと思っても、店長には分からないのだろうと思う。実際、詳細な説明はウブメさんからされている。もしウブメさんがいなければ、いくらお金が良くてもこの仕事を辞めていただろう。
ここは不思議な職場で、雇われているとはいえ、常に仕事がある訳ではない。配達の依頼があればやるし、なければ家に帰る。最初の頃はそんな有り得ない事に戸惑ったものだ。でも、ここには私のデスクはないし、いたらいたで店長に何でここにいるんだ、と言われる。ここは彼らの家でもあるから、客人でもない人間がいても困るのだろう。
仕事がある時は、挨拶のあとに店長から仕事内容が書かれている紙が渡されるが、今日は何も渡されないから、仕事はない。給料が出来高制でなくて良かったと心から思う。
掃除なりなんなり、言われた事をやるだけが仕事ではないだろう、なんてここでは言われない。大切なものを預かっている以上、勝手に人間が触っていいものは何もないし、して欲しかったら店長は言うだろう。
ここしばらく仕事がない。なければないで駅前の喫茶店でお茶でも飲んでいくからいいけれど、何もしないと自分が働いていると思えず少し不安になる。
でも、ないものはないのだ。おはようございます、と言った口でさようなら、というのも妙だから、こういう時は頭を下げて帰るようにしている。いくら妖と働いているといっても自分は人間で、これにはきっと慣れてはいけないのだ。
「あら、今日は帰るの?」
「はい。お仕事なかったみたいで」
「……そう。じゃあまた明日ね」
「失礼します」
帰る時、ウブメさんは少し残念そうに言ってくれる。幽霊のように見えても、どこか近く感じるのは、この場所で唯一温かみのある存在だからだと思う。感情がある、そう言った方がいいのかもしれない。でも、ウブメさんには申し訳ないけれど、この店から帰る時、ほっとするのは誰にも言えない。
玻璃の伽藍堂から最寄り駅まで歩くと十五分ほどかかる。店は住宅街の中にあって、バスが通るような大通りからは随分離れているから、最寄駅から歩くしかない。
平日の昼前は静かだ。こうして仕事がなく帰ることには慣れてきた。でも、普通の仕事をしていれば職場にいる時間だと思うと、やはりちゃんとしたところに就職しなければと思う。例えば同級生に会った時、私は今自分が何をしているかを言いたくない。もし、ちゃんとしたところで働いていれば何と答えても後ろめたさはないだろう。
ああ、もし。あの時事故にあわなければ。きっと普通の人生を歩めていたのに。何度も繰り返す「もし」は今も私の精神を削っていく。過去はどうしようもないからこそ、何度でも後悔を連れてくるのだろう。空は見渡す限りの晴れ、そして春先の、少し冷たい静かな空気は気持ちよいはずなのに、どうしても仕事のない帰り道は同じことを考えてしまうのだ。
住宅街を抜け、駅に近づくにつれ空気が少しずつ騒がしくなってくる。そうすると沈んだ気持ちも幾分マシになるのはいつも不思議だ。外から聞こえる音が少ないと、どうしても自分の中の音が良く聞こえてしまうのだろうか。
駅前は好きだ。この街は大学時代から住んでいるけれど、駅前には私の趣味に合う店が集まっているし、生活に必要なものは一通り手に入る。少し歩けば公園もあって、もう少ししたら桜も咲くだろう。公園の近くに私は住んでいて、何度見ても立派だと思う。そういう買い物から公園まで必要なものがコンパクトに集まっているここは、中々住みやすい街だと思う。
そして、いつも今日みたいな仕事のない日に通う喫茶店は、駅前の商店街の一角にある。個人経営の古い喫茶店「やまねこ」は最近全面禁煙になったせいか、いまだに煙草のにおいがうっすらと漂っているような店だ。そこそこ広い店内は土日になれば混雑している時もあるけれど、基本的にはクラシックが静かに流れているし、客も一人で来ている人が多かった。
今日はホットケーキか、それともグラタンか。パフェだと変な時間にお腹が空いてしまうだろうか。そんな事を考えていると昔ながらの食品サンプルが並んでいるショーケースが目に入る。年季の入ったサンプルは、良くある古いお店のように埃は被っておらず、きちんと美味しそうに並んでいる。次に目に入るのは緑の看板。そこには「喫茶 やまねこ」と書かれている。いつの間にか喫茶店についていたようだ。
その日、ショーケースのサンプルの中で目についたものを頼む、それが自分の中のルールだ。ショーケースの前に立って、一瞬目をつぶって、心の中でせーの、と呟いて目を開けるとホットケーキが目に入った。やまねこのホットケーキは分厚く、それが三枚重なっている。バターとメイプルシロップが付いてくるスタンダードなホットケーキだ。今日のメニューはそれで決まりだ。
玻璃の伽藍堂の店内のような、ダークウォールナットの扉を開けば、時が止まる。玻璃の伽藍堂も中々不思議な店だけれど、やまねこもいい勝負だ。
お好きなところへどうぞ、と店員さんが入ってすぐのレジの前で座りながら言う。ここは普通の店とは違うところがかなり多い。注文は各テーブルに備え付けられたメモに書いて渡すようになっているし、お水やコーヒーなどのドリンク類は運んでくれるけれど、フードメニューは呼ばれたら取りに行くシステムだ。半セルフサービス方式というのだろうか。
そして、店員さんの愛想がない。感じが悪い訳ではないけれど、特別愛想が良いという訳ではない。ここで店員さんに求めて良いのは最低限の礼儀のみと言えばいいのだろうか。
私はそのそっけなさが好きだった。ここの店にいる時だけは誰も自分に興味がない、例えどんな服を着ても、すっぴんでも、無職でも、言い換えれば自由でいられる、そんな気がするのだ。
窓際の、商店街を行き交う人々が見えるテーブル席へ座る。いつもの定位置だ。テーブル番号が振られた注文票へホットケーキと、紅茶の欄に1と記入して、店員さんを待っていると、不意に声をかけられた。
「三月ちゃん?」
「あ…、あきらさん」
「久しぶりねえ、年末ぶりかしら。あの店長と上手くやってるの?」
「まあ、ぼちぼちですかね」
「そう。ねえ、ここ良いかしら?久しぶりだし、少し話でもしましょうよ」
あきらさんはそう言うと、私が返事をする前に自分のテーブルから食べかけのパフェやら紅茶やらを持ってきた。彼女はいつも突然で、強引だ。玻璃の伽藍堂で働く事になったのも、あきらさんの強引さによるところが大きい。
勝手な席の移動に店員さんは何も言わなかった。ちらり、とあきらさんを見ただけで、注文票を持っていってくれた。あきらさんは強引だけれど、この喫茶店がどんな場所かをわきまえていた。大きな声ではなく、小声で、席も丁度奥だったから、店内に流れるクラシックを邪魔することはない。そういうところが、彼女を憎めなくさせるのだろう。
あきらさんは、人間ではない。高名な占い師の水晶玉の付喪神だ。何でもその占い師は透視を得意とし、特に未来に起こることを的中させることに長けていたという。だから、あきらさん自身も未来が見えるそうで、駅前の占いコーナーで週に三回ほど占っているらしい。本来は百発百中、けれど適当な履歴書で雇ってもらったらしく、有名になると困るそうで本気が出せないそうだ。
「お仕事はどう?大丈夫そう?」
「…多分」
「多分って…ちゃんと面倒見てもらってるの?」
「はい。お給料もちゃんと頂いてますし、危ない目にあったこともないですし。ただ、店長とはあまり話しませんから。仕事がある時だけ、ですかね。あとはウブメさんと殆ど」
「えー、そんなはずじゃなかったんだけど」
「え?」
「ほら、私未来が見えるでしょう?玻璃の君とあなたが上手くいく絵が見えてさ。あそこも色々大変だから、あなたが働いてくれればなあって思って。丁度人手が足りないから探してくれってウブメちゃんから頼まれてて、それで無理やり荷物を届けさせたのよ」
「あれ、わざとだったんですか」
「そうよ。私だって見ず知らずの人間に、物をいきなり届けさせる訳ないじゃない。あれはね、試験だったのよ。玻璃の伽藍堂があなたを受け入れるか」
「はあ」
「でも、なんか悪い事しちゃったかな」
「いえ、お金が良いので生活は助かってます」
あきらさんとの出会いは半年前、この駅前の商店街を歩いている時だった。いきなり、本当にいきなり呼び止められて、荷物と地図を渡されて、地図の印の場所、つまり玻璃の伽藍堂まで届けてほしいと言われたのだ。
もちろん断ろうとしたけれど、よろしくね、と私が断りの言葉を伝える間もなく消えてしまったので、しょうがなく玻璃の伽藍堂へ荷物を届けたことが全ての始まりだった。
まさか最初から仕組まれていたとは。正直生活が楽になったから、怒りはしないけれど、少しだけ騙された気分だった。
それにあの店長と上手くいくなんてあり得ない。店長は、私に興味がないのだ。変な話でこのやまねこでは興味を持たれないことに安心しながら、あの店で興味を持たれないことは酷く居心地が悪い。
「そう?でもね、私の透視は絶対当たるのよ。って言っても今は信じてもらえないか。そうね、そしたら、ここから出て直ぐにあなたの好きなアンティーク屋があるでしょ。そこに貴方が欲しいと思っているピアスが割引されて売ってるわ。帰り確かめてみてね。…だから、あなたと玻璃の君はきっと上手くいくって信じて」
「……あきらさんの透視、本物なんですね」
やまねこのはす向かいに、アンティークもののコスチュームジュエリーを扱う店がある。普通の商店街にはない店がある、それがこの商店街の強みだ。そこは学生時代からのお気に入りの店だった。あきらさんの言うとおり、最近気に入っているピアスがあるけれど、中々のお値段がするのだ。もし割引されていたら、財布と相談して買えるかもしれない。
もちろんこの話は誰にもしていないし、(あきらさんがストーカーしているのなら別だけど)クリスマスの時期にしかセールをしない店だから、割引されるとしたら奇跡に近い。
「疑ってたの?やだ、酷い」
「だって、店長と上手くいくなんて考えられないし、正直不安なんです。このままずっとあの店で働いていける訳ないような気がして」
「何でそう思うの?」
「何でって、だってバイトだし…普通の仕事じゃないし」
「確かにあの店が人間にとって普通じゃないのは認めるけど…やっぱり普通の仕事がしたい?」
「はい。でも、生活の事を考えるとこんなお給料良いとこないし、私なんか正社員で雇ってくれる会社もないだろうし」
「弥生ちゃん、あなたは少し自分を卑下し過ぎじゃない?」
「そうでしょうか」
「そう思えるわ、少なくとも私はね。……まったく玻璃の君も、自分のとこの子を不安にさせて。今度行ったら叱らなきゃね」
こんなに話したのは久ぶりだった。あきらさんは優しいのだろう。こうやって話すとまるで姉のように何でも話してしまいそうになる。私も寂しいのかもしれない。仕事がなければウブメさんや、やまねこの店員さんぐらいしか話さない。そんな生活を半年も続けているのだ。
5番テーブルのお客様、と店の奥から声がした。私のパンケーキが焼きあがったのだろう。それを聞いたあきらさんが立ち上がる。いつの間にかパフェの中身は空になっていた。ずっと話していた気がするのに、本当にあきらさんは不思議な人だ。
「じゃあ、これで私は帰るね」
「色々話聞いてもらって、ありがとうございました」
「ううん、いいの。あ、また話したくなったら店に顔出すね。あと、三月ちゃんも占いに来てよ。月、水、金っているから」
「分かりました」
「じゃあね」
そう言ってあきらさんは、伝票を持って私に手を振った。そして次の瞬間にはもういなかった。パフェの容器も残っていない。夢でも見てたのか、そう思う程鮮やかに彼女は痕跡を残さず消えてしまう。
あきらさんを含めて妖は、できるだけ人間とのかかわりを避けなければならないという。かつてのように彼らが住む場所はほとんどないし、そもそも人間は妖を忘れてしまった。あきらさんのように人間とかかわろうとする存在は中々いないのだ。
人間の世界で生きていくことは、妖にとって辛いこと。かつて依頼主がそう言った。でもそれは当たり前だ。だって人間の世界なのに、人間の私でさえ生きていくのが辛いと思う時がある。それでも、生きていくしかないのだけれど。
5番テーブルのお客様、と再度声が聞こえた。美味しそうなホットケーキを迎えに、結局そうやって辛さを誤魔化して、私は一人になったテーブルを立ち上がった。