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玻璃の伽藍堂  作者: 遠野まひろ
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ある木と家族の話

 つんとした冬の風に、鼻の奥が痛い。駅に降りてから続く見知らぬ街の景色も相まって、体の底から冷えていくような気がした。土地勘があれば少しは足取りも軽くなるのだろうけれど、全く分からない街を歩くのはいつも不安だ。

 天気予報では午後から雪が降るなんて言っていたから、防寒対策はしてきたつもりだった。それでも寒いものは寒い。頬はきっと酷く冷たいだろうし、鼻なんか赤くなっているかもしない。

 この街には来たのはアルバイトのためだった。そうでなければ、多分一生来なかったかもしれない。店長いわく、この街は海と山に囲まれた、温暖な街だとのことだから、少しは寒さもマシかもしれない、そう思っていたが甘かった。

 私は配達の仕事をしている。配達といっても、とても特殊だ。トラックも使わないし、バイクも使わない。荷物の大きさも、リュックで足りてしまうぐらいの荷物ばかりだから、ほとんど配達は電車か徒歩で済んでしまう。

 普通に考えればそんな配達など需要はない。けれど、仮に需要を聞かれたら、私はある、と直ぐに答えることができる。何故なら、私たちが配達をする相手は人間ではないからだ。

 私のアルバイト先「玻璃の伽藍堂」、通称玻璃屋は人ではないもの、つまり妖怪や神様専門の配達を行っている。本当はもっと色んな仕事を請け負っているけれど、私は配達用に雇われたアルバイトだから、配達しかしていない。ちなみに私は人間だ。

 駅から徒歩10分の家。それが今回の依頼者が指定した場所だった。スマホの地図によれば、あと2分程で着くようだ。

 この冷たさだと、あと数時間後には雪が降るかもしれない。さっきから数台バスが私を追い越しているから、帰りはバスにでも乗ろう、そう思って歩いていると、バス停が見えて、ちょうどスマホが目的地の周辺です、と言った。

 スマホから顔を上げ、周囲を見回す。あ、と小さな声が白い息に混じり漏れた。丁度私の左側に古い家があった。古民家というより、昔の家と言えばいいのか、くすんだ木の色が周囲に滲み、そこにあるのが嘘みたいに古い家だった。

 私は立ち止まり、表札を確認する。―――外されたのか、四角くそこだけ汚れがない。妙なリアルさがあるけれど、ここは疑ってかかった方がいい。この家も幻覚の類なのかもしれない、と。もし幻を見せられていたとしても、かつて本当にここにあった家なのかもしれない。神様の類は別として、妖怪たちは記憶や思いに深く由来している、と思う。だから、過去のものを引き出すことは得意だという。

 今回配達するものは、そういつもと何も変わらぬ顔で店長は言った。今回配達するものは、君自身だ、と。そしてそれ以上何も言わなかった。配達するものが私だなんて、意味が分からない。私は配達をするためだけに雇われたのに。言葉が足りない、もっと説明しろ、と心の中で言って、はあ、とだけ返した。

 よく分からない依頼にも狼狽えないほどこの仕事には慣れてきたけれど、やはりよく分からない何かと対面するのはまだ、怖い。しかし、仕事だからしょうがない。そして、十分すぎる給料を考えれば少しはやる気がでてくるものだ。


「すいませーん、玻璃屋ですが」


 大きな声で店名を告げると、上がってきてください、と声が返ってきた。男の人の声だった。お邪魔します、と声をかけて、ガラガラと戸を滑らせる。玄関に入ると寒さが多少弱まったけれど、靴を抜いで上がれば、板張りの床から熱が奪われていった。

 玄関には誰もいなかった。ただ、誰かの気配は確かにあった。靴箱の直ぐ左に扉一枚があって、声の主はどうやらそちらにいるようだった。

 君は鼻が利くからね、と褒めているのか良く分からないが、店長に言われたことがある。どこに誰がいるのか、そういう気配だけは人一倍早く気付くことができる。それは私の数少ない長所であるのに、それを鼻が利くだなんて、もっと言い方があるだろうにと思い出す度にそう思う。

 扉を開くと、右が大きな仏間と床の間を兼ねた部屋で、左はガラス引き戸で庭が見えた。庭は大きな木が一本あるだけで、後は目を引くものがない。玄関はまだしも、廊下と部屋を区切る襖が開け放たれているせいか、室内に入ったというのに暖かさは相変わらずなかった。ひんやりとした空気は、修学旅行で行った大きな寺のようで、きっとすぐに指先まで冷えてしまうだろう。


「やあ、よく来てくれたねえ」


 間延びした声が聞こえるのと、私が依頼主を見つけるのは同時だった。依頼主は右側の部屋に座っていた。畳には酷く似合わない、けれど年季が入った揺り椅子に座っていたのだ。


「ご依頼いただきました玻璃屋の三月と申します。トウ様でよろしいでしょうか」

「ああ。寒い中済まないねえ。どうも火が苦手なもので」


 依頼主、トウさんは人間で言うと60代ぐらいのがっしりした男性のように見えた。トウ、という名前は偽名だろう。私も、本名を名乗らない。本名は弥生という。だから、三月という安直な偽名を名乗っている。

 彼らにとって本当の名というものは、この世界と自分をつなぐ最後の砦なのだという。人から存在を忘れられても、住処を失っても本当の名前さえあれば、この世にいられるのだという。

 あまり近寄らず、少し距離を置いて、立ったまま私は頭を下げた。依頼主によっては人間の匂いを嫌がる時もあるのだ。


「それで、私を配達するようご依頼があったとお聞きしていますが」

「ああ。人の手を借りたくてねえ。玻璃屋は何でも引き受けてくれると聞いたものでね。……依頼というのはね、探し物をして欲しいんだ。大体の場所は分かっているんだけど、どうしても見つからない。本当は自分で動ければいいんだけど、何せ動く事ができなくて」

「探し物、ですか?」

「ああ」


 やられた、と思った。

店長は私を配達以外の事もさせようとしていたのは分かっているけれど、だったらせめて一言でもいってくれればいいのに。確かに配達だけであの給料は貰いすぎだとは思うけれど、まさか最初からそのつもりだったのか。

 店長はいつもそうだ。騙すのはあまり上手くない、と言ってもいつも私は騙されるけれど、のに、言葉が足りない。もしかして、接し方が分からないのだろうか。確かにこちらは生まれて二十年と少ししか経っていないし、店長とは軽く一世紀以上の年の差はあるはずだ。でも、業務で必要なことに年の差は関係ないとも思うけれど。しかし、それはトウさんには関係ないことだ。ここで仕事を放りだす勇気など私にはない。

 

「……分かりました。お探しすれば良いものは何でしょうか」

「アルバムだよ」

「1冊ですか?」

「そうだねえ、確か2、3冊しまってあったと思うから、出来れば全部見つけてくれれば嬉しい」

「かしこまりました。では、どこにあるか教えてくれますか?」

「隣の部屋に大きな箪笥がある。そこのどこかの引き出しに閉まってあると思うから」


 後ろを振り向くと、昭和の家族ドラマで出てきそうな台所があった。タイルの流しに、湯沸かし器。ぶら下がったお玉は木製で、部屋に影を落としている。この家は随分と時が止まっているのだろう。けれど、入る時に見た塀や、門は妙に現実味があるから、室内に関してはトウさんの記憶が反映されているのかもしれない。

 後ろに部屋はない、ということは、廊下の先にまだ部屋があるのだろう。何があるか分からないからと用意してきた軍手と懐中電灯を取り出して、廊下に出れば、確かに少し奥にドアがあった。

 寒い、古い、そしてうす暗い廊下の先にある部屋に入るのは少し勇気が必要だった。玻璃屋の店員に手を出す馬鹿はいないよ、と店長は言うけれど、怖いものは怖いのだ。

 心持早歩きになりながら廊下を歩く。ぎりぎり光が届くところにドアがあった。私は立ち止まって耳を澄ます。茶色の重そうな扉の向こうに気配はない。もしここが幻の家であれば何があるか分からない。用心に用心を重ねて、軍手越しにも分かる冷えたドアノブを回すと、ぎぃ、という想像通りのきしむ音を立てて、ドアは開いた。室内はフローリングではなく、廊下と同じように板張りで、ベッドや机など何もなく、物置として使われていたようだった。室内は庭からの光がない分、薄暗く、一層温度が下がった気がした。

 トウさんが言っていた箪笥は直ぐに見つかった。昔、おばあちゃんの家にあった、おばあちゃんの嫁入り道具にそれはよく似ていた。しっかりとした作りは、大量生産の既製品とは直ぐに違う事が分かる。物を買うときは細部を見ろ、と誰かが言っていたが、なるほどこうして見ると良いものはじっくり見ても粗がない。

 大きい引き出しは着物を入れる場所だろうから、上の引き違い戸に入っているかもしれない、そう当たりをつけて開けてみれば、埃が舞うだけで、懐中電灯で照らしてみても、細々としたものが放り込まれていた。

 引き違い戸の下は引き出しが五段続いている。通常であれば洋服や、着物がしまってあるはずだけれど、調べないことにはしょうがない。

 一段目、二段目にはお誂と書かれた、たとう紙に包まれた着物があった。まさかこの下にアルバムをしまう訳はないだろうと思いつつも、「まさか」は十分起こりうるのだと知ってしまっているから、そっと取り出したが、ここの住人は常識的な人だったらしく、まさかは起こらなかった。

 三段目は着物の小物と洋服が入っていた。四段目も同じだった。どうやら年配の人が暮らしていたのか、いわゆる「おばあちゃんの服」が入っていた。そして、五段目。トウさんの言葉どおりなら、ここに入っていることになる。

 ―――それにしてもアルバムを探してほしいなんて依頼は初めてだった。

 いつも、店に保管しているものを届けたり、店に預かるため受け取ったり、そんなことばかりだった。店員は店長含め三人しかいないから、やっぱり私も他の仕事を手伝わなければならないということなのか。アルバイトだし、あまり責任を負うような仕事はできないと言ったところで、あの店長は聞かないとは思うが。

 人と違う仕事をしていることは確かに自慢できるのかもしれないけれど、内容を言っても誰も信じてくれないだろう。就職を失敗した私にとってお給料は十分すぎる。今時掛け持ちもせずアルバイトの収入で一人で生活できて、貯金もできる、そんなところはない。でも、やっぱり友達や親に言えない仕事は、少し寂しいし、将来の不安もある。やっぱりちゃんと転職活動したほうが良い。働くことは怖いけれど、生きていくためには仕方ないのだ。そう考えると店長やもう一人の店員であるウブメさんが羨ましい。本当なら彼らは働かなくて良いのだから。

 ―――ああ、いけない、今は集中しなければ。冷え切った手をこすり、最後の引き出しの取っ手に指をかける。五段目を引き出すのには少し力が必要だった。軍手の包まれた指に力が入る。少しずつ引き出すと、果たしてそこには、アルバムがあった。アルバムだけではない。この引き出しにはアルバムに入りきらなかった写真や、子供の絵、ビデオテープがぎっしりと詰まっていた。言い換えればこの家の思い出がここに入っているのだろう。

 大きなアルバムが三冊に、昔写真屋さんで現像を頼むときにサービスでくれた薄いアルバムが十冊。アルバムとしてはそれが全てだった。写真はトウさんに持ってくるか聞けばいい。一度に持っていくにはアルバムだけで手一杯だ。

 アルバムは結構重く、一気に持っていこうとしたことを途端に後悔する。それでも一度もってしまえば下ろすのも勿体ないとも思ってしまう。私はめんどくさがりなのだ。

 よろよろと落とさないように隣の部屋まで行くと、トウさんが驚いた顔をした。


「随分あったんだねえ」

「アルバム、あるだけ持ってきたのですが、他にもまだ写真あって。どうされます?持ってきますか?」

「いや、いいよ。アルバムだけ見たかったから。台所に椅子があるから、それに座って隣で一緒に見てくれるかい?」

「分かりました」


 アルバムを渡すと、トウさんは嬉しそうな、懐かしそうな、成長した孫の姿を見るような表情になって、ほんの少し体を動かした。私も少し興味があったから、トウさんの申し出には直ぐに頷いた。

 私が台所から椅子を持ってきて隣に座ると、トウさんは膝に乗せたアルバムを開いた。ふわり、と古い匂いがして、くすんだ色が目に入った。かつては白いページだったはずの台紙が黄色く変色していて、それは台紙だけでなく、中に挟まれた写真も同じだった。それは、写真は記憶より長く思い出を保管できても、やはりいつかは消えるものだと告げているようだった。

 ああ、とため息を吐きながら、思い出をなぞるように、たどるように、写真にトウさんの指が滑っていく。五人家族だったのか、お父さん、お母さん、そして三人の女の子達が笑い、時に泣いた写真が日付ごとに並んでいるのを見ていくと、日々の繰り返しの積み重ねが今はもう写真の中にしか残っていないのだと思うと切なくなる。

 彼らはかつて、ここにいた。けれど今は誰もいない。それがただやるせない。トウさんは、この家族の誰かではないけれど、ずっと見守っていたのだろう。私を呼んで、アルバムを見たいと思う程に。写真はほとんど色あせていた。でも、トウさんの中では違う。彼の記憶の中ではその日々が色鮮やかに息づいているのだ。

 

「これは、ここの庭だね」


 家族五人が並ぶ写真に指を止め、トウさんは顔を上げた。私もつられて庭を見た。古ぼけた写真の中の庭と、鉛色の空の下、くすんで見える庭を比べると、たしかに塀の感じや、何も植物がないところがよく似ていた。けれど写真の中には、そこには今ある立派な木はなかった。私が少し首をかしげたせいか、トウさんが、ああ、と言葉を続けた。


「桐の木は、彼らがここに越して来た時に植えたんだ。これはね、越して来た時の記念写真だよ」

「桐の木を?」

「そう。ご主人が、今からじゃあ遅いかもしれないけれど、うちには女の子がいるからって。昔ながらの人だったから、桐の木で嫁入り道具でも作ろうとしたんだろうねえ。結局、みんな勿体ないって言って作らなかったんだけど。まあ、彼女たちとは随分遊んだから」


 トウさんは、再び台紙を写真をなぞり始めた。それからだ。トウさんが写真について、一つ一つ思い出を語り始めたのは。一番上の子の小学校の入学式の日、門の前でお母さんと一緒に撮る時に、真ん中の子がランドセルを羨ましがって泣き始めてしまったこと。そうしたら、その真ん中の子の小学校の入学式の日、今度は一番下の子が、ランドセルを羨ましがって泣いたのだと。毎年夏になると、ガラス戸を開け放って、三姉妹が並んでスイカを食べたこと。この街には珍しく雪が積もった日に、雪合戦をして家族みんなが雪だらけになったこと。

 アルバムには、当たり前だけれど、日々のそんな些細なことが詰まっていて、私はトウさんを通して動かないはずの写真に、閉じ込められた時間を見ているような気分になった。


「雪合戦をしたときね、真ん中の子が投げた雪玉が当たってね。でもそのあと、撫でにきてくれたよ。みんな良い子だったけれど、真ん中の子は特に優しかったね」


 トウさんの言葉の中に、真ん中の子に関する話題は多かった。彼女は勉強は得意でなく、暑い日は廊下に寝そべり漫画を読んだり、最後までスイカの種を飛ばしていたという。社会人になっても家に一目散に帰ってくる。そんな彼女が突然結婚相手を連れて来た時は本当に驚いた、と。

 一番下の子と上の子は遠くへ嫁いでしまったというから、彼女自身、三姉妹の中で誰よりもこの家に長く住み、愛着があったのだろう。

 写真の中に、トウさんはいない。でも、私はその事を言わなかった。それは言わなくていいことだし、彼の正体の答え合わせなど必要ない。

 彼がどんなものであっても、アルバムの中にひっそりと残されている家族の歴史は、トウさんの歴史だ。めくるごとに、家族の時間は過ぎていく。子どもだった彼女たちが少女になり、大人になる。三冊目のアルバムには彼女たちの結婚式の写真が残っていた。そして、小さなアルバムには彼女たちの子どもと思われる写真がほとんどだった。

 家族の歴史は、きっと今も続いている。でも、トウさんの歴史は三冊のアルバムで終わりなのだろう。


「まだ写真ありましたから、持ってきましょうか?」

「いや、いいよ。もう十分だ」

「……仲の良いご家族だったんですね」

「ああ。みんな仲が良くてね。お父さんもお母さんも働き者で、子ども達を立派に育てあげた。ずっと側で見れて本当に良かった。……少し、話を続けてもいいかい?」

「はい」

「ありがとう。みんな良い子に育ったんだ。お嫁に行っても、度々顔を出してくれて。産んだ子を連れてくるようになった時は昔のようだったよ。みんな同じことを繰り返すんだ。夏にスイカをガラス戸を開けて食べたり、一緒に遊んだり。ずっとそれが続くと思っていた。でも、君たち人間は僕らより短命だ。奥さんが亡くなって、少しずつこの家は……なんていえばいいのかな、そうだね、隙間ができて冷たい風が吹くようになった。ご主人はしばらく一人で住んでたんだ。でも、真ん中の子が一緒にこの家を建て替えて住もうって。確かに家が無くなるのは寂しかったけれど、そうなってくれればいいと思っていた。古い家に一人で住むには年老いていたから」


 トウさんがさっき言っていたとおり、真ん中の子は優しい人だったのだろう。もしかしたら、遠くに住む姉妹たちに代わってこの家を守りたかったのかもしれない。でも、結局それは叶わなかったのだ。もし叶っていれば、トウさんは私を呼ばなかっただろう。


「本当は、もう君は分かっているだろうけれど、私は箪笥になっていた筈だった。そうなっていれば良かったと思う。幸せな家族の記憶だけでよかった。……ご主人も年老いて、奥さんに先立たれてどうして良いか分からなかったんだろうね。その混乱のせいか、真ん中の子を邪険にし始めた。家を取り上げるつもりかと、怒鳴って追い出して。結局ご主人は一人でこの古い家に住むことになった。でも、それでもね、家を建て替えるのを止めた後も、彼女は泊まったりしてくれたんだ。本当に良い子だよ。……それなのに、ご主人はその子に頼ることを拒んだ。そうするとほかの二人も、彼女のことを、徐々に近くに住むのに、面倒をみない。そう次第に考えるようになった。そして、結局ご主人は遠い地に引き取られて亡くなったよ。一度もこの家に帰ることなく」


 かつてを知らなければ、いや、もし過去の幸せだけを知っていれば。きっとトウさんはずっと幸せでいられたのだろう。仲が良かったからこそ、この家の結末はあんまりだ。今例え何が間違えだったのか、間違え探しをしたとしても、間違いは誰も分からないだろう。ただ黙って見るしかできなかったトウさんはどんな気持ちだったのか、私には分からない。


「この家は、明日には取り壊される」


 トウさんが、ぽつりと呟いた。この家は幻ではなかったのだ。本当に存在する家だった。何もかもが今もちゃんと存在している。けれどもしこの家が現実にあるのが間違いないなら、そして、この家が明日取り壊されるというのなら、大事にされなければならない沢山のものがまだ残っている、という事になる。アルバムだって、立派な大きな木だって、家と一緒に壊してゴミにして良いものではないはずだ。

 依頼人の前では冷静に、店長はいつもそう言う。そうであるべきだと、私も痛いほど知っている。人ではないもの達にとって、人間の感情はとても魅力的に映るのだという。彼らが生まれてきた場所でもある「感情」に、妖は魅了され、糧とするのだと。でも私は人間で、新米で、そうですね、で済ませられなかった。


「でも、まだ沢山アルバムとか……」

「そうだね」

「あんな立派な着物も、洋服も、あなただってあるのに」

「本当にね」

「でも、ここが無くなってもあなたが望めば、」


 トウさんは、桐の木に宿ったものだ。私たちは、それを「主」と呼ぶ。人ではないのなら、名前さえ失わなければ生きていける。枯れかけた同じ木に宿り、千年を生きることだってできる。店長に言えば、それぐらい簡単だろう。

 でも、トウさんは首を横に振って私の言葉を遮った。


「もう、見守るものもない。あとは幸せな記憶だけ残して消えたいんだ」

「そんな……」

「三月さん、長く生きるには理由がいるんだ。特に私たちのようなものは」


 外は、雪が降りだしたのだろうか。雪の降り始めはいつも静かだ。トウさんが言った時、それぐらい静かで、ただ、彼の言葉だけが私の耳に響いた。そして、その言葉は、私の言葉がいかに軽いものであるかを証明するには十分だった。―――既に、トウさんの歴史は止まっていたのだ。

 こういう時、私は感情が酷く邪魔に思う。余計な事、いや、残酷なことを私は言ってしまったのだ。そして、私達人間とトウさん達の違いを痛感させられる。

 人は生きていくことが一番だ。自ら死を選ぶことは許されないし、どんなに辛いなか死を選ぼうとしても、本能が拒絶する。自ら死ぬときは、その本能を超える何かが必要だ。

 でも、トウさん達は寿命がない。名前を失うことでしか死ねない。彼らにとって、死はおとぎ話なのだと思う。だから生きる理由が、終わりの見えない日々をやり過ごす何かが、必要なのだろうか。

 私にできることはこれ以上ない。アルバムを彼に渡すだけで十分だったのに、長居をしてしまったのだ。私は立ち上がって、深く頭を下げた。謝罪の気持ちもあった。けれど、それ以上に独りぼっちになってしまった、揺り椅子に座る彼に対しての祈りの気持ちが強かった。最期は幸せな記憶だけでいられるように、そう思わずにいられなかった。けれどそれは自己満足で、結局は私には何も変えられない。トウさんは瞼を閉じて、もう何も返さなかった。

 家を出るとき、すっかりかじかんでしまった指で玄関の戸を開き、閉めた。しっかりとした木の感触に、この家が本当にあることを知らされる。幻だったら、感触がこんなには手に残らない。そしてそれを恨ましく思う。トウさんの話が嘘で、全て幻であれば良いと、妖の気まぐれで騙されてたら良いと、私はその時ほど思ったことはなかった。


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