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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第八章 野点

第八章 野点 


 公私ともに多忙とは今の高津屋信次郎のことだろう。娘しのの身が心配ながら、城代土井利位の伝言を、急ぎ十人両替衆に伝えねばならなかった。先ず十人衆の筆頭、鴻池善右衛門に会ったのはその日の夕刻だった。今橋の鴻池屋といえば、浪速のあきんどでも別格である。二百年以上前に初代善右衛門が大名貸を手掛け、両替商としての礎を築いた。大名貸はその後さらに拡大し、両替商も増え、藩経済を実質的に支えるようになっていた。その中心的な役割を鴻池屋が担っている。大藩の家老と雖も、おいそれと善右衛門に会えるものでもなかった。が、信次郎は頻繁に会っている。というのも大名貸の担保は年貢米であり特産品である。それらを捌くのも信次郎の役割だった。

「高津屋はん、ご商売いよいよご繁盛でおめでたいことで。このご時世に並大抵のお手並みではございませんな。手前どもも肖りたいものです」

信次郎が小柄に対し、善右衛門は際立って大柄だった。が、両膝の上に几帳面に重ねられた手の指は、か細かった。頼りなさげにさえ見える。

「鴻池屋はん、肖りたいなどとお戯れなさると、ご挨拶の言葉も見つかりまへん。手前どもの約定は手付け金の支払いから始まります。ところが不作になれば米が入荷せず、豊作になれば相場の下落も厳しいものでございます。お取引様から頂いた信用を頼りに細細と生業を続けるのが精一杯でおます」

「お聞きしたら、米屋はんは口を揃えて同じようなことを言いはる。が、ほんまに店をたたまれたというのはとんと聞いたことがありまへん。ましてや天下の台所大坂で一番勢いのある高津屋はん、仲間うちの信頼も随一で、いやいや羨ましい限りです」

「そのように過分のお言葉を頂戴すると、用向きの件お話をするのが難しくなります。されどこれは高津屋が既にお受けした話、まずは鴻池屋はんにお聞きいただきたく思います」

「高津屋はん、たってのご依頼で人払いしましたが、この善右衛門、こと商いでは一人で承ろうが、他の奉公人が居ようが、申し上げる中身に変わりありまへん。わては九代目善右衛門でおますが、不甲斐ないことに商いは全くの不案内、先祖代代の暖簾に縋るだけの情けないあきんどよと、普段から恥じ入っていま。仕事は大番頭ほか奉公人の皆さんに頼って進めておるのが実情。商いの才がないのを自覚して、余計な口出しはすまいと、普段は茶の道に精出しておりま。わてが肝に銘じていることは、鴻池の家訓を遵守することと、先祖代代の霊を敬い祭り、子孫の安全と繁栄を神仏にお祈りすることだけでおま。さて、堅苦しい話はこれくらいにして、高津屋はんのお話をお伺いせんとあきまへんな」

「はい、本日はこの高津屋、ご城代様の命を承って商いの為の金子用立ての依頼に参りました」

「して、その商いとは如何なものでっしゃろうか?」

「今秋大坂で内内糧米を用立て、江戸表に廻送する商いでございます」

「所要資金はいか程のものでしょうか?」

「全体で五十万両でございます」

「して、手前どもには、いか程の金子をお申し付けなされましょうか?」

「はい、十五万両のご融資をお願い申しあげます」

「残額三十五万両はどのようにご用立てなされるのでしょうか?」

「はい、十人両替衆の皆様にご相談させて頂く以外に思い付きかねます」

「そのような大金は、大変無礼ながら、高津屋はんのご依頼だけでは応じかねると判じま。どのような担保をご準備いただけまっしゃろか?」

「この商いは、ご城代土井利位様のご命によるものでございます。ご城代様も先刻ご承知で、その証として卯月が終わるまでの好日に、善右衛門はんに亭主をお願いした茶会がご城内で執り行われます。ご招待は十人両替衆の皆様だけでございます。茶会当日、ご城代様より、皆様お一人お一人に、『高津屋信次郎が依頼した金策は余が依頼したものだ。余が命を懸けて頼むことだ』と仰せになります。それがご城代様からの担保でございます」

「して、高津屋はんからの担保は?」

「高津屋信次郎からの借用書でございます。手前の命と高津屋の残余財産でございます」

「その他お聞きしておく条件はございましょうか?」

「高津屋はご城代の命による、傀儡でございます。実際に糧米を集め、江戸表に廻送するのはご公儀のご沙汰でございます。廻米の達し書を出さず、通常商いとして、出来る限りの糧米を江戸表に廻送するのが手前の役目でございます。が、全ては密かに執り行い、口外無用であると。十人衆様の間のご相談も無用であると。更にご奉行様に対しても一切相談無用であると。高津屋を通しておりますが、全てはご公儀のなされること、不安を感じるのであれば高津屋への融資を断ればよし、また、断った暁は善右衛門様主催の茶会も出席ご無用とされたい、とのお言葉でございました」

「余りにも厳しいご方針で、返す言葉もおまへん」

「手前は承るに際し、かような過分の役割は今回一回限りにさせて頂きたいと嘆願いたしました。また、手前の役割は公儀の命によるもの、ことの重要性をおもんばかり一切の手数料をご辞退すると申し出ました。で、お聞き及び頂けない時は、余りの重責につき、お断りしたいと嘆願いたしました」

「何と、お断りすると!」

「はい、命に代えてもお断りすると申し上げました」

「高津屋はん程の胆力がないと、そうは嘆願出来なかったでしょう」

「お武家様は、何かにつけ命をお掛けなさいますから、手前も命を掛けないと意が通じません。善右衛門はんには、おいおい茶会のご依頼が、城代家老鷹見十郎左衛門泉石様から書面で届く筈でございます。茶会は城代ご依頼の公の行事となりますので」

「形の上ではわてが茶会の主人となるのでしょうか?」

「はい、手前は善右衛門はんに融資依頼するまでが役目でございます。茶会に与かることもございません。茶会の段取りに付きましては齟齬を来しませんように、鷹見様と打ち合わせください」

「しかし、五十万両も使うて、高津屋はんが糧米を購入されると、米の価格はたちまち暴騰しま。他の食品、生活物資の相場にも波及しましょうな」

善右衛門の指摘を受けるまでもなく、信次郎にも想像がついた。そこまで幕府は切羽詰っているとも、身勝手とも言えた。数年来の凶作で大勢の小作人や浪人が江戸や大坂に雪崩れ込んでいる。凶作が貧農を借金まみれにし、自殺する者あとを絶たず、無宿人が激増している。借金の質に人身売買も日常茶飯化している。小作人とは限らない。本人は素性を明らかにしないが、元下級武士の二男や三男も多かった。ところが、町に来ても食うに困って、行き倒れになったり、盗みや強盗を働いたりする。治安は悪化の一途をたどった。

「どうか、他言無用にお頼み申し上げます」

信次郎はふかぶかと頭を下げた。米あきんどとして、初めて暗澹とした気持ちになった。この機に乗じて相場で暴利を貪ることだけは絶対にすまいと肝に銘じている。だが、信次郎の買い占め工作で大坂、京都の餓死者が増加するだろう。豊作だけが、唯一つの希望だった。いや、善右衛門が融資を断るのが、一番良いのだ。

「高津屋はん、お互い大変なご時勢を迎えてしまいましたな。十五万両融資ご依頼の件、この善右衛門、しかと承りました」

生半可な心づもりで信次郎が鴻池屋を訪れたりしないことは百も承知である。が、自ずと段取りもある。

「但し、約定は茶会の後で宜しおますな?手順として、鷹見様からの通知をお待ち申し上げ、十人衆の皆様に案内状を出し、茶会の折にご城代土井大炊頭利位様のご意向を謹んで承りましょう」

善右衛門は観念したように談合に区切りをつけた。


 大坂城代土井利位からの命は、出来るだけ早く十人両替衆に資金融通の命を伝えることだった。高津屋信次郎は善右衛門を皮切りに、翌日深夜までに面談を終えた。

一方、城代家老鷹見泉石の命で、鴻池善右衛門は茶会の案内状を送付した。十人衆全員から参上すると返事が来たのは言うまでもない。


 天保七年五月の末、鴻池屋善右衛門主催の野点がとり行われた。大坂城の北の玄関口である京橋門を入ると、大手門との間に城内随一の広大な西の丸庭園と城代屋敷を含む居住屋敷群が広がっている。庭園からは内堀を隔てて真東に大坂城本丸跡の城壁を眺望できた。茶会は迎賓所での茶懐石と、西の丸庭園での野点との組み合わせで催された。城代家老鷹見泉石が差配を受け持ち、十人衆をもてなした。先附、椀の物、造り、揚げ物、蓋物、台の物、食事と続き、さすがに酒と甘味はなく、西の丸庭園へ移動することになった。

「今日はあくまで鴻池屋善右衛門殿の野点が中心である。果たしてこのような口汚しでご満足されたかな?まあ、この田舎侍に免じてご容赦頂きたい。さっ、それでは場所を移して一服所望致そうか。そうそう、お点前が始まる前に少々支度が必要だ。せっかくの善右衛門殿のお点前である。せめて十徳に改めたい。多少時間を申し受けたい。善右衛門殿、皆の衆、一刻後と言うことで宜しいかな」

城代土井利位は、柔らかな視線を十人衆に送り、着替えの断りを入れた。


 十人両替衆が、黄金色に輝く十徳をまとった利位を見たのは丁度一刻後のことだった。陽光がさんさんと降り注いでいる。利位は体質的に外気に弱いのだろうか、顔面まで覆い隠した頭巾を被っていた。

「さあ、善右衛門殿、始められよ。余は見ての通りの田舎侍、実に不調法でお点前の作法も分からない。茶の心にもとんと無案内だ。だから、余は最後にいただこう。今から少しは客人の作法を見様見真似に学び、粗相がないように心がけたい。それでは天王寺屋五兵衛殿からか、もそっと前に進まれよ。おお、そうだ、お点前が始まると言うのに失礼した。被り物を取らねばならない」

そういうと、利位は頭巾を外した。そこに見たのは、たった今剃髪を済ませたばかりで頭皮が白く浮かぶ利位であった。皆は驚きの余り声も出ない。

「いやいや、客人を驚かせたようだな」

にこやかに笑った利位は、光る頭を手で撫ぜて泰然としている。

「これは良かった、この陽気だ、間違えても風邪は引かない。事のついでに、どうして頭を丸めたのか、そうだ、この際一人ずつなど煩わしい、今ここで、高津屋信次郎の件も纏めて話をいたそう。先ず、他言無用であることは言うまでもない」

利位はおもむろに釘を刺し、本筋に入った。それを感じ取り、十人衆は膝を正した。

「高津屋に糧米買い付けを命じたのは余である。その資金を十人両替衆から融資して貰え、その保証は大坂城代の土井利位がする、と命じたのも余である。これは公儀の内内の意向によるものである。高津屋は五十万両を元手とし、今秋、江戸へ差し向ける廻米の手当てをする。高津屋は律儀な男だ、『公儀の御用向きであれば手数料はご辞退』と言いおった」

そこまで一気に喋ると利位は周りを見渡した。全員平伏したままである。

「しかし、何だな、これは情けない話だ。民が困っている時に、まず江戸表が糧米の確保に当る。余にとっても辛い話だ。大坂も京も、江戸表と同じように飢えておる。大量の米を江戸に回せばどうなるかくらい、あきんどでなくともわかることだ。これが公儀のすることか、それでも武士か?本当なら、老中の一人や二人、余も含めて腹かき切らねば武士の一分が立たぬ。それほど不埒な仕業と恥じ入っておる。ましてや余は大坂城代だ。大坂の民に言い開きの言葉もない。そこでせめての詫びの印と、頭を丸めることにした。武士は髷が命なら、武士の面目を一分も立てられぬ余には必要なかろう。人に聞かれれば、『思うところがあって頭を丸めた』としか言えないが」

まさか茶会でこんな話を聞く羽目になるとは思いもしなかった。十人衆は息を凝らして利位の言葉の続きを待った。

「今日の客人は全て両替商、信用貸しの手順と思慮分別が商いの神髄であろう。慎重が上にも慎重に審査し、貸し出し先を決めるのであろう。今回のような無茶な依頼は本来断るのが道理、しかし、無下に断るわけにもいかないと参集してくれたのであろう。余が頭を丸めたのも、そういう客人方に対する武士の一分、いや坊主の一分を見せるためだ。高津屋の借り入れ申し込みは、余が指図したものである。万が一の場合は、身命に掛けても返済するゆえ、安んぜよ」

これで分かった、頭を丸めたのは、大坂城代として大坂の民への詫びの気持ちと、無理強いを頼む両替商へのけじめという意味があったのだ。

「これから大坂はますます物騒になる。今まで以上に警護を固めたいものだ。この利位、大坂安寧のためには命を惜しまぬ所存である。いや、せっかくのお点前の前に話が長くなった。また、かような唐突な話で座を白けさせた。これだから田舎侍は駄目だ。さあ、今日の主客は天王寺屋であったな。順次お点前をいただこうか」


 野点は好天気に恵まれ無事終了した。後日、十人衆と高津屋との融資約定は結ばれた。ついに米あきんど高津屋の出番となった。




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