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大坂燃ゆ  作者: ジャックジャパン
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第七章 恋煩い

第七章 恋煩い


 高津屋信次郎が、喜太郎との話を終えて、帳場に戻ろうとした時だった。珍しく女房の『すえ』が廊下で待ち構えていた。張り詰めた目の下に疲労の隈を宿していた。

「そうしたら奥で」

信次郎はすえの返事も待たず茶の間へ向かった。私的な相談事はいつもこの茶の間を使った。大店の夫婦の個室としては小さく、床の間も飾り棚もない小部屋だが、仕事場や台所から奥まって静かである。襖一つ隔てた向こうは寝室だった。

「お前はん、『しの』のことだすけど」

「元気か?相変わらず勉強か?はかどっているのか?」

『しの』は十五歳になる高津屋の一人娘である。そろそろ婿養子を探す適齢期でもある。だが、婿養子の話になると本人が聞くことさえも嫌がっていた。四書や国史中心に、勉強は非常に好きな娘だった。新柄の呉服には興味がないが、頻繁に書を求める。手習いは町内一能筆の喜太郎が舌を巻く技量に達していた。町家の娘としては一風変わっているが、怜悧で勉強仲間と話をしている時が一番楽しそうであった。

「へえ、勉学に励むということでは、それは大層な身の入れようでおます。少しは休みを取った方がええのやないか、と思う位でおます」

「だが、そろそろ婿殿やな。高津屋をわての代で手仕舞う訳にいかん」

「わてもそう考え、しのに話してま。任せてくれれば良縁を探す苦労も厭わんと」

「しのに意中の男がいるなら、それで良かろう。しのなら間違いを起こさんやろう。良かれと親が思い、縁組を進めて、しのに苦労させとうない。例えばやが、塾や学友との縁で相手がお侍でもええ。高津屋には、しのとは別に、後継ぎの養子の婿殿を探せばええ」

「そのような心遣いは要らないようでおます。というのも既に意中のひとが居るようで」

「しのから聞いたのか?」

「へえ、隣の町内の亀井屋はんをご存知でっしゃろうか。金物の商いをやってはります。その亀井屋さんに伝八はんと言う息子はんがいやはります」

「それは都合がええ。名前からして跡取りではなさそうやな。婿養子殿としてお迎え出来るのやないか。しのも十五や、いつ祝言を上げてもおかしくない」

「確かに伝八はんの上には大勢のご兄弟がいやはります。わても話を聞いた時、これは都合ええのやないかと思いました。しのも伝八はん以外との祝言は考えられんのやから」

「申し分のない話やな。それでは順を踏んで、先ず先方のご両親にお会いしたいな。仲人を立てんと駄目やろう。先の話は別としてご挨拶は必要や」

「それが、そうも行きまへんのや。伝八はんはご両親から勘当されているのでおます。既に半年近く経ったと聞いておます」

「勘当?何か不祥事でもあったんか?」

「それが、しのから聞いたんやが、伝八はんの方から縁を切って欲しいと望みはったらしいのでおます。どのような了見かとんと分からず、ご両親も随分と心配しやはったらしいけど、伝八はんは結局家を出てしまいはって、それ以来、文を交わすことも全く無くなって、ご両親とは没交渉。兄弟の中でも一番優しく、学問好きな息子やったのに、お袋さんの嘆きもひとしお、心配の余り病に伏されてしまいはった位だす」

しのにそのような男がいるのさえ知らなかった上に、新しい話が錯綜し、信次郎はすえからの又聞きでなく、しのから直接話を聞く必要を感じた。

「しかし、お前に伝八はんの話をする位やから、しのと伝八はんとの関係は今も続いているのやな?」

「へえ、今までは頻繁に会うてたようでおます。しのの方は、例え勘当されていても伝八はんと添い遂げたいと、恋一筋の初心さ加減のようでおます」

「勘当の理由は分からんが、しのの気持ちは変わっていないのやな?」

「変わらないどころか、毎日、毎時でも一緒に過ごしたいと、これが恋の病で無ければ何でおますやろうか」

「よく話は聞いてみる必要はあるが、それなら添い遂げさせる以外にないやろう」

「ところが、そう行かないようでおます。伝八はんは、今度はしのに、『思うところがあるので、今後は逢瀬もまかりならない』と申し渡しはったのや。訳も分からないままに突然の生き別れ、手紙を出してもなしのつぶてで、しのは悲嘆に暮れて臥せってしもうたのです」

器量も人一倍、才長けて、親の身代も申し分ない一人娘、一体どこに不足があるのか、信次郎にも訳が分からなかった。

「では、いま病で臥せっているというのか?」

「へえ、奥の部屋で。この三日間食物も喉を通らず、見る影もなく痩せ細ってしもうて」

「これは本当に驚いた。まさか身内にそのような話があるとつゆ知らず、迂闊,不覚やった。今日明日にも、しのと話をせねば。伝八はんの方から縁を切りたいとは、余程の事情があったのやろう。しのは我らの一人娘、嫌がる相手に頼んでまで縒りを戻せと迫りとうない。さりとて理由も分からんままに生き別れとは、余りにもしのが不憫や。誤解という結び目がはからずも出来たのなら、親として解けるものなら解いてやりたい」

「お前はん、その伝八はんが、今ここにわてらを訪ねて来やはるのです」

「何と、縁を切ると言い放ちながら、しのに病を呼びこみながら、どの面下げて我が家の敷居をまたげるのや。次第によっては許す訳に行かん」

「そのように、会う前から気色ばんでしまうと、纏まる話も纏まりまへん。男の気持ち、女には分からんこともあるやろう。そやから、伝八はんの包み隠さないお気持ちを、お前はんから確かめてくださいな」

「しのは今も病の身、気持ちもそぞろなので会わせる訳に行かん」

「ところがお前はん、伝八はんは最初から、わてらにだけ会いたいと。『しのの気持ちは痛い程、己の不徳はそれ以上に分かっているので、しのには会わない』と。伝八はんは、わてかお前はんだけにお会いしたいと言うていやはります」

「そこまで気遣い出来るものが、どうしてしのを捨てたのやろう?とくと本人から聞かねばならん。だが、奥でしのが臥しているなら、いかにもここでは場所が悪い。思わず声が高まれば、しのに悟られんとも限らん。すえ、四半刻の後、淀屋で話を聞こう。伝八はんに伝えて欲しい」

淀屋と言うのは高麗橋の待合茶屋である。


 高津屋信次郎は定刻に淀屋に入った。すると、伝八が下座に正座し、かしこまって両手をついていた。

「伝八はん、わてが信次郎でおま。そのように最初から頭を下げられては話も出来まへん。女房のすえから聞いた時は、娘大事さに腸も煮えくり返ったが、聞く耳持たないと後に悔いが残るだけ。そう考え直しここに来ましたんや。余程の事情があっての破談と思うが、しのは今でも片想い、不憫なことにお前はんに恨み辛みはついぞ持っていまへん。お前はんとの別れがこの世の別れ、お前さんの気持ちが変わらなかったら、しのは一人で死出の旅。どんな気持ちで三途の川を渡ることか、何の因果か知らんが、げに哀れで儚い身の定め。それも止むなしと覚悟を決めても、伝八はん、一途な気持ちにまことの心で応えて貰えへんか。たとえ添え遂げることが出来んでも、お前はんの本当の気持ちが分かれば、それを冥土の土産にしのに持たせてやりたいのや」

「わてのような未熟なものに、さようなお言葉痛み入ります。この伝八、商家の生まれに関わらず、生れつきの商い嫌い、物心ついた時には塾通い。度を越した学問好きで、それがつのって頭から、四書五経が離れまへん。明けては四書、暮れては五経の生活に、ここまでのめり込んだのも生まれながらの自分の定め。そうであるなら、早早に出家して、世間の情けにすがりつつ、これからの一生を経書の勉強で全うしたいと思うています」

「何やと?これはまた奇妙な!その歳で、おなごの代わりに経書と縁組を願うのか?世の中の甘いも酸いも分からんままに、しのの気持ちも踏みにじり、勉学一筋とは、ものの気に取り憑かれてしもうたのか?何と呆れた放言、いっとき逃れの嘘やったら、もそっと上手いこと付けへんのか。それにつけても情けない、お前もあきんどの倅、商いをなめるにも程がある。一生懸命励まんと、あきんど魂は身に付かん。他に好きなおなごが出来たのなら、それも納得、しのもその方が立ち直れる。ああ悔しい、まことの心情に見え透いた嘘で応えるとは。よし分かった、かくなればお前の新しいおなごを探し出し、不実の証拠を天の下に晒して見せてやる」

「高津屋信次郎様、他におなごなど滅相もございまへん、わては与力町の『洗心洞』で昼夜を分かたず勉学にいそしんでおります。いつか良知良能を身に付けるのがただ一つの望みでおます。ただ、よくよく自分のこころを覗いてみれば、わてが望んでいますのは、所帯を持つことでは無うて、ひたすらに勉学に励むことでございます」

「いや、もう魂胆は分かった。まことの思いに、不実な仕打ち、それでも男か、人間か、と言うても、ものの気に憑かれたお前には痛くも痒くもなかろうが、わが一人娘を弄んで、何が学問、何が出家や。いつか天罰が当たろうぞ。お前のようなふしだらな男は、悪事を働き遂には磔、獄門首になるのが落ちや。そうなってから吠え面をかくな」

ふと見ると、頭を下げた伝八の頬から畳に滴る涙雨。

「驚いた、空の涙を流すとは、そこまで役者上手とは、ほんに見上げたものや。その調子でしのの心もたぶらかしたのやろう。だが、泣きたいのは我が身の方。お前にも親があるなら、少しは親の気持ちが分からんか。ああ、もう十分、これで思い残すこともない、長居は無用、この情けない奴には二度と会うこともあるまい」

と高津屋はその場を蹴って立ち、浪速屋を荒荒しくあとにした。


 店に戻った高津屋信次郎は暖簾を潜り抜け、足早に茶の間に向かった。何時もと異なったすさまじい面相に、店の衆は『お帰りやす』と声を掛けることも出来ない。

「すえ、伝八に会うて来た」

ふすまを開きざま、信次郎は腹立たしげに言ったが、そこにはすえと共に娘のしのも待っていた。この一週間で人が違ったように痩せ細り、瞳だけが妖艶を帯びて煌めいていた。

「お父はん、お帰りなさい。伝八はんはお元気でいやはりましたか?まさか、しのが病に臥しているとは言いはれへんかったやろうね」

「伝八はお前のことは一切聞かへんかった。あの身勝手な薄情者が、今更お前のことを聞くとも思えん。しの、今までのことは問わんとこう。お前も世間知らずで、初めての優男に舞い上がってしもうたが、伝八は実の無い男や。嘘を付き、このわてを馬鹿にするにも程がある。出家して、世間様の情けに縋って勉学に励みたいと、破談の理由を言い訳しよった。むちゃくちゃな話や。何が出家や!神仏を信じない奴ほど信心面を装うものや。今でも洗心洞に住み込んでいるやないか。洗心洞がお寺はんとでも言うのか。理由は定かではないが、初心なお前の心を踏みにじって、立身出世を考えとおるのやろう。要は、これからの我が身を考えると、お前が足手纏いになったのや。伝八はその場凌ぎの言い逃ればかりが旨い薄っぺらな人間や。お前の気持ちを斟酌すると辛い話やが、これはいい折りや。若い時の苦労は金を払うてでも味わえと言われとおる。これからのお前にとって、目の前の不幸は単なる一里塚。ここを乗り越えれば、きっとええ時が来る。気持ちが通じ合わないなら、連れ沿う値打ちはない。伝八のことはきれいさっぱりと忘れてしもうて、早く元気になって欲しい。なあに、この世間、伝八よりいい男など五万といるわ」

「お父はん、お母はん、この世では伝八はん、あの世でも伝八はん、いつまでも添い遂げていたいと、しのの気持ちは変わりまへん。ましてや、恨みやつらみはありまへん。伝八はんは人一倍情の細やかな人でおます。ご自身の損と得とを秤にかけて、その場凌ぎの嘘をつく人ではおまへん。今でも本当は、しののところに飛んで戻りたい気持ちを持っていやはるはず。せやのに、心にもなくどうして破談にしようなどと言いはったんやろう?何か深い訳があるはずや。しのはそれが知りとうおます。例えどんな訳であれ、聞きとうおます。どうして伝八はんの真意が分からへんのか、ただ未熟な自分が悔しく思いま」

「出家などと法外な偽りを平気で口走る男や。真意も本音もあるものか。ひとの娘をなぶりものにするにも程がある。あんな男にはこちらの方から三行半。しの、これからは洗心洞の方に行くのやない。ましてや手紙をしたためるなど、以ての外や。これ以上、過去に拘り、今に泣き、将来に引きずるようでは幸せを掴めないぞ。伝八は口が達者なだけで、呆れる程不実な男や」

「一度お会いなさっただけで、そのように決めつけられては伝八はんに申し訳が立ちまへん。しのを少しは信じて下さいませ。深い事情を解き明かし、お父はん、お母はんにも伝八はんの本当の気持ちを知って頂きとう思いま。口には出せぬ深い理由があるに違いありまへん。来世までめおとだと誓った二人だす、このような時に病に伏して、伝八はん、堪忍な」

しのは涙をこぼしながら、しかし、怯むことなく言い放った。

「まあ、ええ。恋煩いを治すには時が一番の妙薬。寝ても覚めてもあの男と添い遂げようと、一度は誓ったのやから止むをえん。だが、これからは二度と会うのはまかりならん。わてもすえも、お前以上に心を痛めてしもうた。これ以上、わてらを苦しめるのやない」

娘の気持ちが変わらないのに驚きつつ、信次郎はどうせあの男と縁を切るなら、今が頃合いと得心した。




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